市民派ってなぁに?

「市民派」って、「市民派選挙」ってなぁに? 

「市民派ってなあに?」と聞かれると改めてその概念のあいまいさに気が付く。あいまいさをあえて多様性の保証にしてきた感さえある。しかしそのことが本当にいいのかといえば、そうではないだろう。

多様性を語ることによって、議論しなければならない論点が、あいまいにされたり避けられたりしてきたことが、決していい結果を生まなかったことは明らかだからである。

市民の概念を、近代国民国家の成立の過程で、つまり権力の統治形態との対比で定義付ける方法は数多くなされてきたし、その意味で日本に市民はいまだ存在しないという議論があるのも承知している。しかしとりあえず、今現在私たちが求めている政治傾向を仮に市民派としよう。この場合の市民派とは、政治的に無色透明の市民ではない。いわゆる無党派層の中にいるが、無色ではない。そういう意味ではかなり確信的なグループといえよう。

まずいくつかの共通した特徴がある。以下ランダムに挙げてみよう。

○政治的に自立していること。

○ 社会・政治・行政に働きかけそれを進展もしくは変革する意志と意欲をもっていること。

○ 環境・平和・人権・民主主義を大事にする、基本的合意があること。

○ 物事の決め方進め方において、非暴力的かつ相互尊重的であること。

○ 目的や結果よりも、過程を大事にすること

ざっと上げてみたが、なかなか難しい。これらについてまだまだ異論はあるだろうが、肝心なことは無色な市民派などいないし、そういうくくり方に意味があるとも思えない。市民とは保守的な存在だという意見もあろうし、党派に引き回される市民も市民だという議論もあるだろう。事実、前の戦争で各地の婦人会や青年団などの草の根運動の果たした役割を見れば、市民の危うさは自明のものであるが、その問題は別に論じられなければならないだろう。

ここで論じているのは、各地で市民派を名乗り、運動や議会に関わる人々のことである。それら市民派が共通に持っているものがあるのかないのか、あるとすればどういうものか、そしてそれは社会を変革する上で有効なのかどうかである。

私はあるし、有効だと思う。ならばそれはどういうものかである。ちなみに私自身の立場は、ポリティカル・グリーンつまり「みどり」の政治勢力を志向している市民派の一人である。これまた定義が難しいが、2001年4月16日、オーストラリア・キャンベラにおける「第1回グローバル・グリーンズ世界大会」で採択された、グローバル・グリーンズ世界憲章は、かなり包括的なものであり、とりあえずの目安もしくは叩き台となるのではないかとおもう。以下その大項目を紹介する。(なお、日本語訳は、今本秀爾氏である。氏とは多くの点で意見を異にするが、このような大変な作業の労苦に対しては尊敬し、感謝している)

グローバルグリーンズ六つの原則

生態学の知識

 社会正義

 参加民主主義

 非暴力

 維持可能性

 多様性の尊重

上記のような特徴をもったものが「みどり」であるとすれば、市民派全体がこれであるというのは、尚早である。しかし、多くの点で共通するものがあり、これが市民派の一部になっていることは異論のないところであろう。つまり、より大きな流れ、それは有権者の最低でも10%はいると思っているが、そういう流れ全体を市民派と呼ぶのが、妥当だと思う。さらにその中に、自覚的に緑の政治勢力を目指す部分があるのであって、市民派でない「みどり」はありえない。

以上のべたことを要約して、一定の理念や政策が共通した、目的や結果よりもその過程や手法が大事だと考える、自立した諸個人のネットワークが、いわゆる市民派である、と考えてはどうだろうか。そう考えた上で、現実を見ると、様々な課題がある。

たとえば、なぜ「市民派ってなぁに」という問いが出てきたかといえば、きっかけは市民派選挙の敗北であった。47票差で、市民運動グループが擁立した候補が落選した。しかし、選挙の敗北と市民派であることとは必ずしもイコールではない。いやむしろ、市民派であるならば、選挙で負けるわけがないといってもいい。これは非常に乱暴な言い方かもしれないが、実際市民派には確固たる支持層があるのだ。しかしそれは組織されてもいなければ、統制されてもいない、むしろ対極的なネットワークなのである。(この辺の論理は厳密に言うと変である。ネットワークも組織の一形態だからである。)

ではなぜ選挙に負けたのか、といえばそれは明らかに選挙に不慣れで、下手だったからである。わずか数十票と。これをわずかとみるのは、不遜で有権者を甘く見ているという人もいるかもしれない。僕の友人は、ずっと市民運動をやってきて立候補し、8票差で落選した。彼は4年間また運動を続けて、次には当選した。それはそれで決して無駄ではなかったと思う。しかし問題は、落選したあと、周りで運動をともにしていた人の間からでも、それくらいだったら何とかなったのにという声が上がったことである。ここが問題なのだ。事実そうなんだと思う。そして一票差・何分の一票差であっても落選は落選であり、次の改選までチャンスはない。普通には4年間の任期をかけた敗北となるのだ。

そこに、敗北の原因を徹底的に究明する必要が生れる。そしてそれが市民派であることに由来するのであれば、選挙なんかということにもなろうではないか。しかし事実はおそらく違う。つまり選挙というものには、技術的な面がたぶんにあるということである。これは運動でもそうではないだろうか。問題を明らかにし、わかりやすく、できるだけ多くの人々に伝え、支持と参加を呼びかけ、行動を起こしてもらい社会の変革につなげて行く。選挙も同様である。その際に選挙独自のいわば技術があるのだ。例えば、票読みである。そんなこととても出来ないと、思い込んでいないだろうか。勿論、旧来の政党のような、組織の数を積み上げていくような票読みは無理だし無駄である。しかし、企業のやっているマーケッティングリサーチのような手法ではどうだろうか。かなり有効なのである。またネットワークは様々な課題で、重層的である。これらを通じての口コミ・ネットコミはかなり有効である。自覚的に行えばさらに有効であろう。それが市民派風となればさらに。

いずれにしても、選挙は勝つと負けるとじゃ大違いという、市民運動にとってはいささかシヴィアすぎる面がある。しかしそれも特性のうちである。勝ったらみんなのおかげ、或いはみんなの力。負けたら候補者のせい、もしくは候補者の責任。これくらい割り切ってやることが大事である。

さて、それでは市民派にとって議員とは何かである。市民派議員って、何をするの?である。これは私は、市民運動の専従と考えている。現にある市民運動の中から出た場合も、必ずしもそれだけではない場合もあるだろう。しかし、同じである。私たちはオールマイティな議員など望んでいない。またそういう議員がいるとも思っていない。議員として能力や力があるかとか、議員として立派に振舞うかなどという事にとらわれると、議会や行政に取り込まれてしまうのが落ちである。よく言われることだが、長年市民派無所属として頑張ってきた人がぶつかる壁に、副議長ポストがあるという。議長ポストならそれはそれでやりようがあるがというのである。そこで取り込まれる、逆にそれで取り込むやり方があるということである。だからいやなんだと言ってはいられまい。

そこで、運動の専従である。つまりなんのための議員なのかを常に自覚することである。これが、かの中央集権党NK党やKO党ならば、簡単である。上部の指示、それが彼らの指針だからである。保守系ならば、後援会や利権が行動の基準である。保守系でなくてもそうかもしれない。

では私たちの場合はどうか。これがかなりあいまいである。特に当選したあとは、糸の切れた凧である。必ずしも悪いことばかりではないと思う。一人の個人市民としてどう考えるのかが市民は議員の持ち味でもあるからだ。しかしそれも程度問題で、議員としての仕事に振り回されて、市民の方に背を向けて、議会や行政の方ばかり見ていると問題がおきる。本人は背中には支持・支援を背負っていると思い、後ろでおきていることに注意を払わないでいると、情勢の変化やその時々の優先順位などに疎くなってしまう。結局何のために彼・彼女を議会に送ったのかという不満がおきる。当人は議員という立場の大変さも知らないで、となる。当たり前といえば当たり前のパターンである。しかしこれではしょうがない。そこで、市民運動の専従としての議員である。活動費は議会から、活動のエネルギーは運動からである。これは改めて言わなくてもうまくいっているところはおおむねこういう風になっている。しかしそれを自覚的に、参加者の合意として確認する必要があるということである。それによって実際に議員の行動が変わってくるからである。自分で考える自立した諸個人というのは、人の意見を聞かないということではない。不思議ではないが、むしろ逆なのである。行政とのスタンスの取りかた、議会での振舞いかた、市民とのコミュニケーションの取りかた、これらすべてに市民派としてのスタイルとポリシーを貫くことが市民派議員たる所以であろう。

ともあれ「市民の政治」とは何かという問いに答えるのは、とても難しい。これまで述べてきたような共通の理念やスタイルは、確かに市民派の中にあるだろう。しかしそれが全体といってしまえば、それはやはり狭すぎるといわなければならない。理念的にも政策的にももう少しタイトな概念が必要に思う。その一つがグローバルグリーンズ憲章ではないのか。つまりいわゆる「みどり」の人々が、一つの政治潮流として出てくることが求められているのではないかと考える。市民派の中に、「みどり」の政治勢力が根付くとき、市民派議員の本当の意味での必要性と意義が出てくるように思う。

もちろん、ここで論じたことは、ほんの第一歩に過ぎない。さらに深化する作業がひつようである。



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