●●●蝶の舌
「自由に飛び立ちなさい」グレゴリオ先生は最後の授業で、子供たちを広い世界へ飛び立たせようとした。1936年、スペインガリシア地方の小さな村、ファシズムと共産主義の内乱は、もうこの国を激しく蝕んでいた。村の人々は年のはじめの選挙の話題をしている。それでも子供たちは元気、透明な水のほとり、青い空の下、もう少しだけ村は、戦禍を免れていた。8歳の喘息持ちの少年モンチョは、みんなと一緒に一年生になれなかった。初めての登校日は、恐怖でお漏らしをして、学校から逃げ出してしまう。そんな彼に丹念に手を差し伸べ、言葉をかけ、家まで迎えにきてくれたのは、ドン・グレゴリオ先生である。モンチョを暖かく迎えようという先生の言葉で、クラスメイトは拍手をしてくれていた。内向的な少年は世界へ踏み出し、他の子供たちもまた受け入れることを学ぶ。先生が作り出すその空間は、紛れもなく「教育」というものだろう。体罰でもなく強制でも命令でもない。老教師は、ただ、微笑んでいただけである。ティロノリンコという鳥は、メスに蘭の花を求愛行動として贈る。そして、花の蜜を吸うために蝶の舌はグルグル巻きになっている。グレゴリオ先生の教える学問は、自然界の生物にまつわる事柄が多かった。そして実際にモンチョは、友人と男女の性行為を盗み見たりする。自らもまた仄かな恋心を抱き、大好きな少女に白い花を贈ったりした。ティロノリンコの求愛行動のように。自然の人の営み、人の想い。だが、戦争はそれらを全て奪っていく。モンチョとグレゴリオ先生の絆。森を楽しそうに歩く、年の離れた教師と子供。かけがえのない大切な関係を奪っていく。モンチョだけではない。モンチョの父も母も知っている。グレゴリオ先生が素晴らしい先生だということを。教会には来なかったけれども、町の有力者からのプレゼントも受け取らない。子供を安心して託せる教育者なのだと。内乱は本格的に始まろうとしていた。この小さな村でも、共和派の検挙が始まる。1939年まで続く骨肉の争いで、多くの血が流されることになる。検挙されるグレゴリオ先生たちを遠巻きに、村の人々は叫んでいる。「アテオ!アカ!犯罪者!」本心で叫んでいる者もいるだろうが、保身のために叫んでいる者も多い。トラックで運ばれていく共和派たちの人々に、子供たちが石を投げている。その中にモンチョの姿もある。母親が故意にモンチョにそうさせていた。「アテオ!アカ!犯罪者!」スペインの内戦で多くの血が流された。グレゴリオ先生たちもまた、同じ運命を辿ることは想像に難くない。子供たちは、自由の意味を、誰にも教えてもらえなくなる。「ティロノリンコ!蝶の舌!」片手に石を持ちながらもモンチョは叫んでいた。先生からもらった大切なことを叫んでいた。