鎌倉といえば、鶴岡八幡宮を中心に、西側に大仏など寺社が集中しており、南東側に執権時代の北条氏所縁の名所が集中していますが、北東側にはあまり訪れる人は少ないと思います。
その鶴岡八幡宮の北東側には明治天皇が建立した大塔宮護良親王を祀る鎌倉宮があります。
元々は東光寺という寺院でしたが、室町時代中後期(応仁の乱の後)に、現在の横浜市金沢区に移転したため、竹やぶとなっていました。
2年前に携帯小説iらんど大賞2009で1位になった梅谷百著の「キミノ名ヲ」という小説の舞台にもなったところです。この小説は、現代の女子高生とその弟が大塔宮護良親王の時代、鎌倉時代末期にタイムスリップするというものですが。。。
大塔宮は、後醍醐天皇の第三皇子で、鎌倉幕府倒幕の最大の立役者です。結果的には足利尊氏と新田義貞の寝返りにて倒幕がなされましたが、元弘の変では比叡山の衛兵を率いて挙兵、後醍醐天皇が壱岐に配流された後は、倒幕が成就される2年間のあいだ、千早赤阪にて幕府軍10数万を釘付けにして篭城する楠木正成に呼応して、奈良県南部、西吉野を中心に大和、河内、伊賀、伊勢、洛南などでゲリラ戦を繰り広げ、幕府は兵を随時小出しに畿内へ派兵せざるを得なくなり、疲弊していったわけです。
建武の新政下では、最初の征夷大将軍となりますが、後醍醐天皇の妾、阿野廉子が我が子を天皇にしたいがため、また自らが征夷大将軍となりたい足利尊氏・直義兄弟のため、その忠言により謀反の疑いをかけられ、遠い鎌倉のこの地に足利直義の監視下の下、ここにあった東光寺に幽閉されてしまいます。
さらには北条高時の遺児、北条時行が鎌倉に攻め込み、そのどさくさに紛れて足利直義が家来の淵野辺義博に命じ、暗殺された。と、明治以降の歴史には語られています。
古きよき雅と馴れ合いの朝廷と公家政治を目指した後醍醐天皇とその近習のものども、物欲を満たすことで成り立つ寄り合い所帯の武家政治を目指した足利尊氏に対し、護良親王の目指すものは、中央集権国家だったこともあり、そのどちらとも目指すところが違ったということもありますが。
そのため明治天皇にとっては、最も尊敬する皇室の先祖として、即位の翌年に、鎌倉宮建立を命じられました。
残念ながら、大正末期から昭和初期にかけて、この大塔宮、あるいは楠木正成の精神こそが。。と道徳を解き軍拡に利用されてしまったため、戦後の行政府、とくに文部省は、終戦直後にGHQの指導があったこともありますが、平成の世になっても、いまだになるべく、この時代を指導要領に盛り込まないようにしたため、国民の興味も、維新だの戦国だのに集中してしまいました。
本殿。この手前に酒杯を壁や石に投げつけて割る願所があります。
本殿への参拝道のほか、壱の鳥居の脇から、スロープにて、本殿に参拝できるようになっています。バリアフリーの神社とは!恐れ入りました。
摂社として村上社、南方社があります。これはそのうちの村上社。村上義光という武将を祀っています。元弘の変の後の護良親王のゲリラ戦で、幕府軍6万に追い詰められ、吉野山にて、身代わりとなり、そのあいだに護良親王は熊野へと逃げ失せます。
また南方社は幽閉された親王の身の回りの世話をした南の方という側室を祀っています。
本殿横にある御座所
本殿裏手には、護良親王が幽閉されていたという土牢があります。
大塔宮(鎌倉宮)建立の碑
足利直義の家来、淵野辺義博により、暗殺され、首を置き去りにしたといわれる場所。御首塚とされています。
大塔宮護良親王の木像
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