熊本城はとにかく広いし、JRの駅からは遠いものの、熊本市の中心地にあるので、市電が便利。ただ最寄り駅の熊本城前電停からでも城内に入ってからもかなり歩く。
これまで三度の熊本訪問で、
ホテル日航熊本、
熊本全日空ホテル ニュースカイと
三井ガーデンホテル熊本に宿泊したが、熊本城へ出向いたのは、全日空に宿泊したとき。 全日空は市電で熊本城前まで5駅目なので市電利用だが、行幸橋から入って天守閣まで15分以上かかってしまった。
天守閣以外にも二の丸広場や大手門、本丸御殿、また城の外周には熊本城稲荷神社をはじめ、熊本大神宮、加藤神社、熊本護国神社とあり、さらに西出丸、三の丸広場、細川刑部(3代藩主細川忠利公の弟・刑部少輔興孝)の旧細川刑部邸、本丸周囲だけでも、平左衛門丸、数寄屋丸、飯田丸、東竹の丸、竹の丸と全部周ると1日コース。 結局、時間が1,2時間しかなかったので、行幸橋から天守閣を通り、城を往復しただけだったが。 まず最初に出迎えてくれるのが、築城した主である加藤清正公。
日航に宿泊したときには、熊本城稲荷神社や熊本大神宮の周辺へ。城内東北東の端にあり美術館などが建っている。 千葉城跡というのを見たかったのだが。これは清正が熊本城築城前からあった城で、今はNHKになっているみたい。
千葉城は文明年間に築城された丘城で、肥後国守護菊池氏の一族で菊池重朝に仕える出田秀信が築城。文明年間といえば、応仁の乱の後半。勢力が山名宗全方の西軍、細川勝元側の東軍に分かれていたかのようにも思えますが、南北朝時代に南朝方勢力だった菊池氏と北朝方だった筑前の少弐氏の間には多々良浜の戦いの恨みもあり、また応仁の乱前の室町幕府九州探題渋川氏の覚えよき豊後の大友氏とも相対し、虎視眈々と北上を狙う薩摩の島津氏もおり、応仁の乱以前から九州へ進出していた中国地方の大名大内氏もおり、戦国というよりは、依然と
南北朝の争乱が続いていた状態だったのでしょう。 ただ同じ南朝方ということで、
建武の新政で最も帝の覚えの良かったわりには働き今ひとつの
名和長年の末裔の名和氏とは協力関係にあったはずです。 で、肥後南部を治めていた名和忠豊の養子になっていた菊池重朝の叔父・名和為光が重朝に守護職世継の正当性を訴えて戦を仕掛けてきた頃なのではと。
熊本平野の北にある菊池氏の本城の支城として南の名和氏と敵対するための役割だったのでは。あるいはそれ以前で、まだ名和氏が幕府方の肥後南部の
相良氏を争っていた頃で、名和氏を支援するための出城だったのか。それにしても平野の真ん中に城とは、応仁の乱前のことでは非常に珍しいことです。
ところでこの千葉城の跡ですが、一部は
高橋守雄から名をいただいた高橋公園という公園になっており、やはり世の中、戦国好き、維新好きなのか、幕末の功労者・
横井小楠と
西南の役にて
官軍側で
熊本城を死守した
谷干城の銅像があるのみで、乱世の面影はない。
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