(日記更新がずいぶんと遅くなりましたが^^;) 月に1度の恒例行事! 「東海道を歩こう(ガイドと歩こう)」に 参加してきました。 今回は平塚宿 平塚の前に・・・茅ヶ崎。 東海道の宿と宿の間にある村を 「間の村」と呼んでいました。 所々の「間の村」の中には「立場」と呼ばれる馬を継ぎ立てたり 荷物を運ぶ人足などが休息する場所があり この立場の中でも眺望がよく、街道の重要な分岐点 橋のない大きな川に接する所では 旅人の急速に供される茶屋のあるのもあって これらの茶屋を「立場茶屋」と呼んでいたそうです。 このような町場的要素を持つ間の村を「間の宿」と呼び 神奈川では茅ヶ崎の南湖、二宮の梅沢がありました。 第六天神社 ご祭神は淤母陀琉命(おもだるのみこと)と 妹阿夜訶志古泥命(いもあやかしこねのみこと)の二柱。 長寿で身体壮健、東海道を上下する人々の道中安全の守護神として また、世の楽しみを自己の楽しみにかえる法力に因み 満願成就への導きの神として信仰されたそうです。 南湖の左富士 晴れた日に鳥井戸橋の上に立つと 千ノ川の下流の先に富士さんが見えるそうです。 今でも天気のいい日は見えるそうです。 この日は残念っ! 旧相模川橋脚跡 この辺りは長い間水田でしたが 大正12年(1923年)の関東大震災と翌年の地震で 水田に突然橋脚が地上に姿を現して人々を驚かせたそうです。 沼田頼輔博士が『吾妻鏡』にもとづいて 鎌倉時代の相模川の橋脚と考証から これは建久9年(1198年)源頼朝の重臣であった 稲毛重成が亡き妻(頼朝の妻の北条政子の妹)の 供養のために相模川に架けた橋の橋脚と考えられています。 この橋脚はレプリカだそうです。 現在相模川が流れている場所から2Kmも東に離れています。 相模川は氾濫を繰り返す度に流れを変えたようです。 馬入の渡し かつての相模川には60を超える渡船場があったそうです。 明治19年(1886年)馬入橋の架橋まで行われていたそうです。 そう、この馬入橋のところに立つ結婚式場は あゆのPVで使われたところですよ~。 かつて、友人が教えてくれたっけ。 いつも車からでしたので、この日、まじまじ見ちゃいました。 丁髷塚 天保9年(1838年)大磯六所神社のお祭り「国府祭」が行われた日 相模一ノ宮寒川神社へ帰る御神輿と平塚八幡宮の御神輿が出会い 些細なことから口論となり、乱闘が始まり、平塚八幡宮側の若い衆が 寒川神社の御神輿を奪い取り、馬入川に投げ込んでしまいました。 当然、大勢のけが人も出ました。 非は馬入村側にあったので、代官江川太郎左衛門は厳しく事件を吟味し 下手人16人を召し取り、死罪を申し渡しました。 しかし処刑当日、代官は16人の丁髷を切り落とし打ち首にかえました。 その時に切られた丁髷が埋められたのがこの塚といわれているそうです。 平塚八幡宮 平塚新宿・馬入村・八幡村の鎮守で ご祭神は祭神は応神天皇、神功皇后、武内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)。 応神天皇とその母を祀っていることから 子宝・安産・子育ての御神徳もあるとされ 建久3年(1192年)源頼朝は妻政子の安産祈願のため 神馬を奉納しているそうです。 平塚宿 慶長6年(1601年)徳川家康によって 東海道宿駅伝馬制度が定められると 藤沢・大磯などと並んでいち早く誕生した宿場の一つです。 平塚宿は江戸から7番目、日本橋からは16里(62.8km)のところにありました。 江戸方見附跡などを見学しましたが 平塚は1945年7月16日の平塚大空襲でかなり焼失してしまったそうです。 江戸方見附跡 平塚脇本本陣跡 平塚の碑 垣武天皇の孫高見王の子平政子が東国に赴く途中で亡くなり、この地に葬られた。 その塚が平らになって一帯を平塚と言うようになったそうです。 お初の墓 歌舞伎「加賀美山旧錦絵」に出てくる 「鏡山お初」のモデルになったといわれる、「松田たつ」の墓。 たつは平塚宿百姓、松田久兵衛の娘で、 大名の江戸屋敷に仕える岡本みつ女に奉公していましたが みつ女が年寄沢野から侮辱を受け自害したので 直ちに沢野を訪ね、主人の仇を討ったという。 後に藩主に賞されて年寄になったそうです。 この日、午前中はすごい雨、しかもすごい風でしたので まともに傘もさせない状態。 あまり写真を撮れなかったんですよねぇ・・・(-.-) 次は大磯の予定です!