2006 8/9(水)
おはようございます、minminです。
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今年は 敗戦後六十年になります 先の戦争を語り継ぐことが困難になってきた今 一少年の見た昭和二十年の冬から秋までを書き残しておきたいと思います
戦前から長崎の思案橋で料亭だった私の家は 戦中には海軍に接収され臨時の水交社になりました 白い軍服に短剣をつった若者が旅立つ時 母はなぜか私を抱いて見送るのが常でした
昭和二十年の正月は 憲兵隊の荒々しい軍靴の音で明けました 海軍首脳が風呂場で話したことを父が釜の焚口で聞いて口外したという スパイの名目での逮捕でした それから 寒風の中 春が来るまで 母と私は父への差し入れの日々が続きました
四月八日は 私の幼稚園の入園式の日でした なぜか私は母の死を予感していたらしく 朝から母の着物の袂を握り締めて離しませんでした 母は 便所の中で私にかぶさるように倒れましたので 女中達が病院へ運びましたが 手術が失敗して亡くなりました 布団に寝かされて白い布をかけられた母と共に 私一人が病室に何時間も残されました その後父は海軍司令部の要請で憲兵隊から釈放され病室に飛び込んできて 絶句したままでした
八月九日の朝 庭で弟とチャンバラごっこをしていましたら 空襲警戒警報が鳴って 青いはるかな上空を銀色の飛行機がゆき 白い落下傘を落としました 「きれいかねぇ」といったとたん 強烈な光と 体で受け止めるような衝撃がきて 家中のガラスがこなごなになりました
すぐに山腹の防空壕へ逃げましたが 街が燃える熱で寝苦しい夜が続きました 長崎の旧市街は幸いにも焼失をまぬがれました 思案橋は市電の終点だったのと空き地があったため 数十メートルの穴が掘られ 死体が運ばれてきてうずたかく積み上げられ 重油をかけて焼かれました
再び子供達には普通の日々が戻ってきて チャンバラをしていると 「坊や達 親戚の者ば探してくれんね 金歯が目印たい」とおばさん達に言われて 棒でしゃれこうべの山をつつきました 本当に親戚を探していたのか 金を集めていたのか 子供達には知る由もありませんでした
私の家が進駐軍の将校クラブとして接収されると 家の蔵は一夜にして 米俵と味噌と酒樽が メリケン粉と牛肉とウィスキーやワインに変わりました
平成十七年秋
石 橋 正 敏
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今日は故郷 長崎の原爆の日です。
怒りのヒロシマ 祈りのナガサキ と表現されることもありますが やはり8月9日の長崎は早朝の祈りから始まります。
教会で 街角で 原爆公園で 病院のベッドの上で...それぞれの人のそれぞれの祈り。
信じる対象は違っても求めるものは平和であることに変わりはありません。
上の文章 覚えておいでの方もいらっしゃるかもしれません。
私の高校の先輩である石橋さんは信州は青木村でワインセラーをお持ちでワインの販売をなさっています。
年に二回ほどワインのカタログとアオキワインセラー便りを送ってくださいますが この文章は昨年の秋に送られてきたものです。
その時も石橋さんのお許しを得て私のブログでご紹介しましたが 8月9日にもう一度と強く思っていたところ今日叶いました。
石橋さんのご自分の体験を綴られた文章には簡潔かつ淡々とした中に強いものがある といつも思うのですが この文章も例外ではありません。
6日のHirokochanさん9日の石橋さんのご協力を得て 長崎に生まれた者としての小さな伝えができました。
お二人に感謝すると共に 今も尚世界のあちこちで戦火におののき平和を切望する人々が沢山いらっしゃることを忘れてはならないのだと強く感じる朝となりました。