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誰のものでもない 孤独な道のりだからこそ 自分の肌で感じ 自分の頭で考えて往きたい ささやかな日常の中から 紡ぎ出される物語 お便りはこちらへ 目と耳が悪いビジネスマンの一筆 [全1732件]
引き続き、トゥルゲーネフの「初恋」について書きます。 昨日は、本作品が生まれた背景について、手短かに触れました。 あまりに著名な小説なのでその必要もないのかも知れませんが、今日はあらすじをご紹介します。 冒頭のたった3ページだけ、映画の上映前の予告編と見紛ってしまうくらいささやかな前置きが設けられています。 ある家の主人とセルゲイ・ニコラエヴィチ、そして主人公であるウラジーミル・ペトローヴィチの三人が集まり、それぞれの初恋の話をしようということになります。 はじめの二人の初恋の話はさほど盛り上がらず、ウラジーミルの番になるのですが、彼は思い出せる限りをノートにしたため、後日お話したいと願い出ます。 主人とセルゲイはしぶしぶ了承し、ウラジーミルは約束通りノートを持ってくるわけですが、「初恋」の本編はその手記の中身ということになります。 1833年の夏、16歳のウラジーミル少年は、父母とともにモスクワの別荘に移り住みます。 大学受験を控えて勉強しなければならない身なのですが、家庭教師を追い払い、今は毎日気ままに過ごしています。 夕方になるとカラスを追い払うのが彼の日課で、銃を持って庭をうろつくのですが、ある日隣家を隔てる低い垣根の向こう側に「背が高くスタイルのいい女の人」を認めます。 その女性こそ、彼の初恋の相手、ザセーキナ公爵令嬢・ジナイーダだったのです。 彼女は21歳、ウラジーミルより五つ年上でした。 ウラジーミルの父はザセーキナ公爵のことを見知っていて、たしかに“公爵”と位は高いのだけれど、紆余曲折があっていまは貧乏暮らしを強いられているということでした。 父はまた、「娘はとても可愛くて教養のある子」であるという風評があることも覚えていて、妻と息子ウラジーミルに語ります。 読後よくよく思い返してみると、序盤のこの辺りのくだりから、怪しげな空気が漂っているのですけれど・・・。 さて、ザセーキナ公爵夫人の要望(要するに、「お金を貸して欲しい」ということです)もあって、ウラジーミル一家と両家の交流が始まり、意中のジナイーダとも親しくなっていきます。 ウラジーミルは頻繁にジナイーダのもとを訪れ、すでに彼女に首ったけの取り巻き連中たちとともにゲームに興じます。 ジナイーダは天性の小悪魔ぶりを発揮して、自分のもとに男性を釘付けにし、そうかといって特定の誰かに夢中になるということはなく、若きウラジーミルは彼女の手のひらでもてあそばれるのですが、彼はそれに嫌悪することは微塵もありません。 そうしてジナイーダを恋する日々が連綿と続くのですが、ある日ジナイーダに異変が表れます。 彼女は、誰かに恋をしているようなのです。 この事実にうすうす気づき始めたウラジーミルは動揺し、嫉妬に燃え、彼女の心を奪う憎らしい男が誰なのかを突き止め、殺してしまいたいと願います。 ある夜、彼はポケットにナイフを忍ばせ、ジナイーダの身辺を見張るために庭先をうろつきます。 何事も起こらないかに見えたその時、「体がぶるっと震え」る出来事が起こります。 思いも寄らぬ人物が「黒っぽいコートにすっぽり身をくるみ、帽子を目深にかぶって」現れ、その男の正体を知ったウラジーミルはあまりの衝撃にその場から逃げ出します。 途中、ジナイーダが眠っているはずの寝室に目をやると、「白っぽい巻きカーテンが用心深くするするとおろされ、窓の下までぴっちりおりきると、そのまま動かなく」なったのでした・・・。 認めたくはないけれど、そこにある事実に打ちのめされ、後日ジナイーダに向かって涙ながらに訴えます。 「何もかも知っているんです。どうして僕を弄ぶようなことをしたんです。なんのために僕の愛が必要だったんです」 ジナイーダは彼に謝りなだめると、ウラジーミルは再び虜になってしまうのでした・・・。 この間、ウラジーミル家には騒動が持ち上がり、早々に別荘を引き上げることになります。 ウラジーミルはもう二度とジナイーダと再会することはないと心に決め、お別れをします。 しかし、その後もう一度だけ、彼女と巡り会う運命が待っていたのですけれど・・・。 ・・・。 その結末や細かなエピソードについてここでは触れませんが、ざっくりとしたあらすじは以上です。 明日は、この小説から感じたことを書いてみたいと思います。 ありがとうございました!! 【三文日記】 新しい急須を購入して以来、それを使って緑茶を淹れることが多くなりました。 この急須は見た目も使い勝手も親密で、なんとなく使ってみたい欲求をそそられます。 仕事から帰ってきてすする緑茶の熱さと香りが、疲れを癒してくれます。 ●今日の天気 晴れ。 ●今日の運動 ジョギング30分。
今年の企画「小説を通しての世界一周」は、キューバからロシアへ・・・。 前回アーネスト・ヘミングウェイ著「老人と海」について所感をしたためましたが、舞台は一路モスクワへ飛びます。 今回手に取ったのは、19世紀ロシアの大作家・トゥルゲーネフの名著「初恋」です。 古本屋さんでお気に入りの光文社古典新訳文庫が並んでいる棚を漁っている時、ふと目に飛び込んできたのが本書でした(沼野恭子さん訳)。 「たしかリストアップしていた入手したい作品のなかに、『初恋』が含まれていたはず・・・」 基本的に本は購入せずに図書館から借りて読むことにしているのですが、思わず手に取ってレジへ携えていきました。 あらすじに入る前に、本書が生まれた背景について少しだけ触れておきましょう。 「これは、今にいたるまでずっと私に喜びをもたらしてくれている唯一の作品です。なぜなら、人生そのものであり、作り物ではないからです。・・・『初恋』は身をもって体験したことなのです」 (「ロシア報知」1883年10月2日号) これは、巻末の「解説」に記されている著者トゥルゲーネフによる後年の述懐です。 この発言からも分かるように、これから読もうとしている作品は、著者自身の体験をもとにした、いわば私小説といってよいようです。 本作品の主人公ウラジーミルは、ザセーキナ公爵令嬢のジナイーダに恋をするのですが、著者自身も小説の設定と酷似した状況でシャホフスカヤ公爵令嬢に恋をしていたと言われています。 登場人物の名前や舞台のささいな微調整はあるにせよ、もしかしたら本作品で語られていることのほとんどは、実体験の記録と言ってもいいのかも知れません。 とはいえ、読者の想像を掻き立てる小説としての魅力が決して損なわれていないのは、ひとえにトゥルゲーネフの筆遣いによるものでしょう。 わたしにとって最大の魅力であった本作品の「文章表現の多彩さ」については、後ほど触れてみたいと考えています。 また、19世紀のロシアを舞台とする数々の名作を読む上で、頭に入れておいたほうがいい出来事があります。 それは、1860年代に発布された農奴解放令です。 農奴制の廃止という大事件は、ロシア社会の構造を変え、必然的に文学作品にも大きな影響を与えていたと思います。 小説の舞台がこの一大事の前後どちらなのかを踏まえておくことで、文章の背景にある雰囲気はずっと鮮やかになることでしょう。 「初恋」で描かれる主な出来事は1833年の夏のことですから、まだ農奴制が敷かれている時代のことですね。 これを頭に入れておくことで、主人公の別荘の隣に建つ印刷工場で働く少年たちがいかに惨めな存在だったのか、それとは対照的に主人公を取り巻く主な登場人物たちの暮らし向きがいかに裕福なものだったのかがうかがえます。 今日は長くなってしまったので、明日以降にあらすじと所感を書き残したいと思います。 名著との出会いは、人生を何倍も豊かにしてくれます。 ありがとうございました!! 【三文日記】 昨日姪っ子ちゃんとめいっぱいに遊んだからでしょうか、身体が重い(笑)。 4月に小学校へ入学する姪っ子ちゃんは動きが俊敏でパワフル、肩車をしようと思ったのですけれど持ち上げられませんでした・・・。 衰えていく一方のおじさんは、負けじと鍛えておかないといけませんね。 ●今日の天気 晴れ。 ●今日の運動 ジョギング30分。
昼下がりの陽光を浴びながら、河川敷の遊歩道を駆けていました。 見渡す限り雲らしい雲はなく、金色を帯びた青空が目も痛むくらいに悠然と広がっています。 いつもならなんの変哲もない、どこにでもあるありふれたものに見える白いビルディングも、燦々と降り注ぐ陽射しのおかげで、紀元前からそこにあるローマの神殿のように威厳が備わっています。 久しぶりに朝の訪れを気にすることなく存分に寝入ったせいでしょうか、手足の動きがなめらかで、身体が軽く感じられます。 川沿いのグラウンドでは、これから攻撃に入ろうとする野球少年たちが円陣を組み、威勢のよい声を張り上げました。 その凝縮された高らかな声がまるで声援のように響いて、背中を押されるような感覚を覚えます。 いつもと同じところで折り返し、来た道を戻ろうと進路を反転させました。 「なんだ、これは!?」 突然耳元でボウボウと低い呻き声が聞こえ、身体が前に進まなくなりました。 次の瞬間には砂埃が吹きつけて、思わず顔を背けなければなりませんでした。 そう、さっきまではまったく気がつかなかったのですが、どうやら河原には突風が吹いていたのです。 道理ですいすい前へ進むなと思ったら、風が後押ししてくれていたのですね。 追い風から一転、向かい風と対峙するようになったとたん、さっきまでは気づかなかった悪条件に全身の感覚をさらわれてしまったのでした。 「あぁ、生きていくこともよく似ているなぁ・・・」 そのとき、ふとそんな想いが胸に込み上げてきて、苦笑してしまいました。 五体満足で万事順調に運んでいる時というのは、他力の風に気づかないものなんですよね。 風向きが変わってはじめてその威力に気づかされるし、順風満帆だったからこそそういう時の苦しみは深く、耐え難いものに感じられるのです。 やれやれ・・・。 「順調な時こそ苦しい時期のことを思い出し、逆境に備えよ」 そんな言葉を耳にすることがあります。 でも、うまく行っている時に苦境を思えと口で言うのは簡単だけれど、実際にはとても難しいことです。 もしかしたら、苦境にあって耐えるよりも、順境で自省することのほうがよっぽど難しいんじゃないでしょうか? いつもいつも辛いことばかり考える必要はありませんけれど、うまくいかなかった時のこと、辛かった時のことをしっかり心に留めておかなくてはならないのですね。 逆風をしっかりと受け止めながら、そんなことを考えて走り続けました。 今日も自然から大切なことを教えられた気がします。 ありがとうございました!! 【三文日記】 夕方、なんとお義兄さんと姪っ子ちゃんを連れてお義母さんと妻が戻ってきました。 姪っ子ちゃんに会うのは昨年6月以来で、また一段とオトナ(?)になっていました・・・。 子どもの成長ってほんとすごいですね。 ●今日の天気 晴れ。 ●今日の運動 ジョギング30分。
えっさ、ほいさ、えっさ、ほいさ・・・。 白く煙る息を弾ませながら、上り坂を歩いていました。 綿雨みたいな雲がところどころに散らばってはいますが、見上げる空は概ね真っ青です。 燦々と陽光が降り注ぐ日なたはぽかぽかとして心地よいのですけれど、一方日陰に入ると空気が冷たく肌が痛みます。 上野公園から不忍通りに沿って北西へ少し往った辺り、東京メトロ千代田線・根津駅界隈を歩いていました。 たしか5年前、白内障のために深い霧のなかを生きていた頃、いま踏みしめているこの道を歩いた記憶があります。 記憶があると言っても浮かんでくる映像は輪郭を持たずにおぼろげで、幼い頃の思い出くらい心許ないものなのですけれど。 上野から湯島、御茶ノ水まで歩いた時もそうだったのですが、この界隈にはそれほど長く続くわけではないにせよ、起伏のある道が多いですね。 こうしてたまに坂道に出会うと、普段いかに平坦な土地で暮らしているのかを実感します。 こういうことは、自転車に乗っている時のことを思い出してみるとよく分かります。 勾配の険しい道が多いところに暮らしていたら、下り坂は自動車と同じ速度で風を切ることができますけれど、一方で上り坂は苦悶に満ちた表情で喘ぎながら、重いペダルをこがなければなりません。 坂道は、自転車に乗る者に苦楽を教えてくれるものです。 とはいえ、実のところ、わたし自身は坂道が決して嫌いじゃありません。 嫌いじゃないどころか、前かがみになってつま先で地面を蹴って上っていかなければならないこの状態に、ほのかな親しみすら覚えます。 なんでだろうと思って胸に手を当ててみると、すぐに思い当たることがありました。 それは、世界中のどこよりも愛着を抱いている、仙台で過ごした記憶と結びついているのだと思います。 東側はそうでもないかも知れないけれど、仙台駅から車で10分も走れば、小高い丘やちょっとした山を上ることになります。 そういえば、仙台市内には「丘」や「山」がつく地名がけっこう多いような気がするのですが、気のせいでしょうか? 勾配の激しい道が多い街で暮らしていて大変なのは、雪が降って路面が凍結した時です。 若気の至りで、そういう日にも自転車や原付バイクをかっ飛ばしていたのですが、今から思えば死と隣り合わせでした。 ちょっとブレーキをかけようものなら次の瞬間にはこの身体が宙を舞っていることになるし、上り坂で「お尻」を振って前に進めないでいる時に対向車がスリップして突っ込んでくることだってよくあることですから。 考えてみると、坂道には色んな想いが染み込んでいるんですよね・・・。 おかげで、今こうして都内のちょっとした坂道を歩いていると、妙に懐かしく親密な感触を足裏に感じ取ることができます。 普段近寄らない街を歩いてみるのも、たまにはいいものですね。 今日も好い一日でした。 ありがとうございました!! 【三文日記】 月曜日から我が家に滞在していたお義母さんと妻は、お義兄さんのお宅へ遊びに行きました。 用事があるわたしは留守番ということで、束の間の一人暮らしとなりました。 たっぷり本を読み、考え事でもしたいと思います。 ●今日の天気 晴れ。 ●今日の運動 ジョギング35分。
顔を切り刻むような凍てついた空気をかき分けながら、朝の路地を駆けました。 月曜の夜に雪が降り、それを合図にして再び寒気が舞い戻ってきたようです。 こわばった表情をほぐすように口元をでたらめに動かしてみるのですが、肌が突っ張ってうまくいきません。 節分を過ぎて暦の上ではもう春なのですけれど、冬はまだまだ移ろう気配を見せません。 辺りはいくらか闇が居残っていて、電灯や信号機の光がひと際鋭く輝いています。 頭上では混沌とした濃紺の空が少しずつ様相を明らかにしつつある一方で、東の空はまるで別物のようです。 朝陽はまだ地平線の向こうにあるのだけれど、その光は背丈の高い樹木や高層ビルディングを乗り越えて、遠くわたしの目に届いています。 見つめる先の空は赤みがかった黄金色に染まり、そちらを目指して走らずにはいられない気持ちになります。 はやる気を抑えるように深く呼吸をしながら、甘辛い朝食の匂いが漂う住宅街を抜けて、河川敷へと進みました。 陽射しを遮るもののない川沿いの遊歩道や原っぱはいっそう光に満ちて彩りよく、寒さに囚われた意識を解き放ってくれます。 実を言うと、家を出た時からまるで鉛でも詰めたみたいに頭が重く、手と足が自分のもののようには感じられずにいたのでした。 というのも、昨夜はなかなか眠りに落ちることができず、二〜三時間うとうとしたかと思うと再び目が覚めて、また眠りにつくことができないということを繰り返していたのです。 別に思い悩んでいることがあるわけでもなく、たぶんビュッフェレストランで夕食をとった際に、美味しいからと言って調子に乗ってコーヒーを飲みすぎてしまったためでしょう・・・。 やれやれ・・・。自分自身に嫌気がさします。 ということで、今朝は睡眠不足によるけだるさが全身に重くおもく圧しかかり、ただ起きているだけで疲弊した気分にさいなまれていました。 が、なんとか踏ん張っていつも通りにジョギングへ出かけてみると、身体を締めつける不快感は和らいでいきました。 生まれたての空気を吸い込んで細胞たちが気を取り直してくれたのか、あるいは今まさに現れようとしている太陽の光が体内時計のリセットボタンを押してくれたのか、身体がなじみのあるリズムを取り戻そうとしていることが分かります。 何かをついばんでは飛び立ってしまう気まぐれな鳥の羽ばたきに表情を緩めながら、淡々と手足を動かし、呼吸を楽しみました。 ふと顔を上げると、茜色に包まれたまん丸い光球が半分ほど顔を出し、世界が一段明るさを増したことを感じました。 金色に霞んだ河原の草原が傍らに広がっているのに気づいた時、まるで初めてその景色を目にしたような錯覚に取り憑かれました。 真新しい朝の光を反射して、その彩りまでが生まれ変わってしまったかのように映ります。 「どうなることかと思ったけれど、今日一日もなんとかうまくやっていけるかも知れない・・・」 真っ暗なトンネルのなかでちっちゃな出口の光を認めたような、ひとすじの希望が胸に射し込んできたようです。 そう、今日というかけがえのない一日が、わたしにプレゼントされたのです。 思うように身体は動かないかも知れないけれど、この大切な時間をしっかりと生きていかなければ罰が当たります。 朝の空気と太陽の光に励まされ、今日も前へ進むことができるような気がしました。 素晴らしい朝のひとときを迎えられたことに感謝します。 ありがとうございました!! 【三文日記】 月曜日から仕事のために我が家に宿泊していたお義父さんが、一旦自宅へ戻りました。 夕食の食卓は、お義母さんと妻、そしてわたしの三人になりました。 たった一人いなくなってしまっただけで、ずいぶん寂しくなったような気がします。 ●今日の天気 晴れ。 ●今日の運動 ジョギング30分。
「小説を通しての世界一周」第三弾「老人と海」。 おとといから所感を綴っていますが、今日は「場」という観点から眺めてみたいと思います。 この企画のそもそもの発端は、「小説という媒体を通して、異国情緒を味わいたい」という考えでした。 ということで、小説の舞台はわたしにとってとても大切なのですが、「老人と海」の大半は象徴的な建物も地域性のある植物も何もない、ただの海の真ん中です・・・。 強いて言えば、サンチャゴ老人が海の上でも陸の上でもしきりに気にしているメジャーリーグ(特にヤンキ−ズの大ディマジオ)とか、キューバで栽培された豆で淹れられたのであろうコーヒーが振舞われるくだりとか、せいぜいそんなところです。 異国情緒を味わおうという目的に対しては、手に取る本を過ったと言わなければならないようです。 では、本書はどこにでもある、ありふれた物語なのでしょうか? いや、決してそんなことはありません。 読後、わたしにとって印象的だったのは、「お金の不在」でした。 冒頭、サンチャゴ老人は漁師として生計を立てているのだけれど、「一匹も釣れない日が八十四日間もつづいた」とあります。 彼にとって糊口を凌ぐ手立ては漁業以外に他になく、なんとかしなければ飢え死にしてしまいます。 しかし、その行間からは切迫した雰囲気が微塵も伝わってきません。 少年が食料を調達してこようと言うと、老人はありもしない「魚のまぜ御飯」があるからと言って、断ってしまいます。 これは、どうしたことでしょう? 昼下がり、老人が眠りに落ちている間、少年がテラス軒のマーティンから黒豆御飯とバナナのフライ、それにシチューをもらってきてくれます。 「おれはあの男に礼をいわなくちゃあ」 そう言いながら、老人は好意に感謝して少年と食事を始めます。 これは想像なのですが、もしも誰かがそうしてくれなかったなら、彼はあっさりと死んでいくでしょう。 あるいは、本当にどうしても必要ならば、まずいけれど餓えを凌ぐための獲物くらい、簡単に捕まえることができるのかも知れません。 いずれにしても、彼の態度には他に依存する気持ちこれっぽっちもないように見えます。 一方、食事を恵む側にも、貸しを作ったという感じはありません。 そうすることが当然だから、何も言わずにお裾分けしているようです。 このような世界にはお金が必要なく、富める者には寛容さが、貧しい者には潔さ、気高さが宿っているようなのです。 もしも今の日本で同じ状況が生じたらどうでしょう? お金を手にした者者はできるだけ取られる税金は少なくなるように苦慮し、一方お金に縁がない者は「助けてくれ」と国に迫るばかり・・・。 富める者は益々執拗に蓄財し、貧しい者は俄然依存心をむき出しにするというのが実際のところではないでしょうか? そういう意味で、「老人と海」はわたしにとって非現実的であり、資本主義とは別の原理で営まれる世界の暖かさを味わうことができました。 何回かに渡ってお話してきた「老人と海」でしたが、この辺りで終止符を打ちたいと思います。 また一冊、味わい深い本に出会えて感謝します。 ありがとうございました!! 【三文日記】 夜、今週遊びに来てくれているお義母さんと妻とで「柿安 三尺三寸箸」に行きました。 「旬の素材を使用した、おいしくて体によい料理」が並ぶビュッフェスタイルのレストランで、前々からずっと訪れてみたかったのでした。 とても美味しいのは嬉しかったのですが、あまりに食べ過ぎて体を壊しそうです・・・。 ●今日の天気 晴れ。 ●今日の運動 ジョギング30分。
昨日に引き続き、アーネスト・ヘミングウェイ著「老人と海」の所感をしたためたいと思います。 サンチャゴ老人と、彼を慕う少年。 この小説に登場する主な人物と言えば、たった二人だけ。 しかも、物語の大半は海の上、サンチャゴ老人がひとり漁に出かけている三日間です。 それなのに、この小説はなぜ面白いのでしょう? そんな問いを発してみた時、わたしは小説に対して誤った印象を抱いていたんじゃないだろうかと感じました。 上の問いを裏返し、あらためてこんな質問を自分自身に投げかけてみました。 「じゃあ、登場人物がたくさん出てくるほど、小説は面白くなるのだろうか?」 たくさん人が出てくれば話は長くなるかも知れないけれど、味わい深いものになるかどうかは分かりませんね。 小説世界の魅力というのは、登場人物の数だけで決まるものではありません。 たとえ主人公一人だけの物語でも、その人柄や経験する出来事、あるいは行間に宿る精神性などに惹きつける力があれば、読者は引き込まれていくものです。 「老人と海」は、そんな小説の可能性を示してくれているようです。 それでは、「人」という観点から「老人と海」を眺めてみましょう。 この作品に味わいを与えているのは、サンチャゴ老人のほか、いったい誰なのでしょう? 人間ではありませんけれども、ひとつは老人と対峙している大海原の存在が挙げられると思います。 「大海原」というとちょっと狭いかも知れませんが、そこに生きる魚たちや、太陽、空、雲・・・も含めて、サンチャゴ老人が向き合っているあらゆる事物が、物言わず存在感を放っているように感じられます。 他の多くの小説ならば、主人公を中心にして多彩な人々が登場して声を発し、動き回り、何かを感じ・感じさせ、それによって新たなエピソードが持ち上がるという流れがあります。 その物語的運動性の代役を果たしているのが、老人と向き合っている「海」というわけです。 ある時などは、サンチャゴ老人のなかにいるもう一人の人格が、老人と対話する場面も頻繁に登場します。 「おい、爺さん。そんなことを考えるのはやめることだ」 まるですぐ傍にいる親友みたいに、「爺さん」と自分自身に語りかけるのです。 また、ときには老人の身体の一部さえが、声なき声で老人に差し迫ってきます。 網に捕らえたカジキに引っ張られて航海を続ける途中、網を握りしめていた左手が悲鳴を上げ、言うことを聞かなくなってしまいます。 ひっつり、つまり一時的に手が攣ってしまって、思いどおりに閉じたり開いたりできなくなってしまったのですね。 そんな時、サンチャゴ老人はまるで反抗期を迎えた我が子に相対するかのように、声を発して語りかけます。 「なんてやくざな手だ」 「いくらでもつるがいい。鷲の爪になれ。それでどうしようっていうんだ」 そして、なんといっても老人以外に登場する唯一の人物・少年の存在が光ります。 少年は老人を愛し、老人も少年のことを愛している様子が二人の会話の端々に感じられます。 長いながい漁に出ている間、一人で魚と格闘する老人は幾度もつぶやきます。 「あの子がいてくれたらなぁ・・・」 そこに込められた想いの切実さが伝わってきて、こちらも「本当にそうだよなぁ」と共感を覚えます。 一方、老人が帰還してしばらくぶりにその姿(ぐっすりと眠っています)を認めた少年は、人目もはばからずに泣きじゃくり、これからは必ずボクが付き添ってあげるんだと心に誓っているようです。 たった二人の人物だけれど、お互いに求め合う様子がじつに仲睦まじく、500ページの長編小説を読んでも得られないくらい清々しい読後感を得ることができます。 今日は長くなったのでこの辺りで筆を置きます。 明日は「場」という観点から、本書を振り返ってみたいと思います。 ありがとうございました!! 【三文日記】 夜、西南西の方角を向き、黙って恵方巻きにかぶりつきました。 もちろんバルコニー、玄関から豆を撒き、室内にも撒きました。 おかげさまで、新居に越して初めての節分を満喫することができました。 ●今日の天気 晴れ。 ●今日の運動 ジョギング30分。 |一覧|Recommend Item
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