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ぷーにゃ777さんのお買い物
春夏秋冬(はるかあきとう)の介護日記 [全196件]
認知症は治らない病気として認定されています。認知症が治るというのは、脳の委縮が元通りになるという状態なんです。実際、委縮した脳が元通りになることはありません。こうかくと、認知症でも普通に過ごしている人がいるじゃないか!と思われる方がいますが、普通に過ごしているわけでなく、常に忘れているのですが、忘れても誰からも責められることもなければ、プレッシャーを掛けてくる人もいないので、自分が忘れている状態を忘れている。あと、忘れて混乱しそうな時に、しっかり受け止めてくれ人がいるために、普通の人のように穏やかに、平和に過ごすことが出来るのです。 認知症を治すということを考える時に「100歳の美しき脳」という本があり、その中でアメリカの修道女が認知症の脳、委縮があり、相当の混乱などを引き起こしてもおかしくないほど進行している状態にもかかわらず、認知症状が出ていなかったという研究結果があります。 http://blogs.yahoo.co.jp/brainandaging/34711346.html 上記のHPに割と詳しく載っていますの見ていただけると分かると思います。 日本は信仰のことを真剣に考えないので、目的を持ってポジティブに生きていくことで、このような結果になったのだという見解を発言しているのですが、信仰を持って生活をしているものとして、その見解は違う!ということが出来るのです。認知症状が出なかった修道女は、やはり信仰心が強かったのだと思います。これは、信仰心による奇跡だと思います。信仰の力だと思うのです。2000年前のキリスト教でさえ、認知症状を出させないという効力を出せるのです。いわんや、幸福の科学といえば、イエス・キリスト様をはじめ、諸如来諸菩薩様方が応援して下さっている。本尊は地球系霊団の至高神 主エル・カンターレ です。宇宙一の信仰を知り、学んでいるこの団体の信仰の効力は、あらゆる病気を治す効力があるのです。認知症だろうがなんだろうがどんな病気でも治すことが出来るのです。ですから、幸福の科学の信仰を広めることによって全人類が健康で豊かに生活できることが可能だと思います。 その為に認知症の就労支援をしながら、幸福の科学の信仰に目覚めてもらい、毎月支部、正心館で祈願を行い、祈りで始まり祈りで終わるという基本的な信仰生活をしていきながら、どのように認知症が良くなっていくか。治っていくのかということを研究したいと思っています。現在、幸福の科学の信者なくても、魂は主の一部、主から別れた光であると教えていただいております。だからこそ、幸福の科学の信者あるかないかを問わず、強い信仰心の持った信者の祈りで、病気の遠隔治療が可能なのだと思います。エル・タンターレ ヒーリングは、地球の裏側にいる人でも治すことが出来る、物凄くありがたい修法を授けていただいております。 この修道女の例でいくと、真似できないことがおおいです。1、男性は排除される。2、住み込みでないと駄目3、キャリアウーマンも駄目4、この世的な情報がシャトダウンされる等不便が多い。 もし、克服の科学の在家信者で、いろんなんな世代のいろんな生活(学生だったり、ありとあらゆる職業など)をしている人たちの多くが『100歳の美しき脳』と同じような結果プラス治癒というものだったら、その幸福の科が額の信仰生活を多くの方々が真似することが出来ます。この信仰生活が出来るという普遍性が伝道力を増すと思うのです。 認知症の霊的真実は、総裁先生の口から法としては語られていません。奇跡のがん克服法の講義か何かの質疑応答で認知症というのがでてきました。その時は頭に2体悪霊が付いているという答えでした。 僕の認知症の霊的真実の考え方は、脳が委縮することにより、心(霊界)からでてくる思いを、この世に翻訳する脳という機能が異常をきたしたため、霊道が開いたような状態になってしまった、それにより、一念三千の心の世界では、地獄的な心に引っ張られる方が多いかと思いますので、悪霊に取りつかれてしまうことが多いのではないかと思うのです逆に言うと、天国的な心でいる時には、守護霊の指導がストレートにできるという利点があるのではないかと思います。 もし、この仮説が正しいとすると、食、食べものの方で、天国的な心になるような霊的ぽわーの入っているものを研究して、その食べ物を食べると、たちまち五次元善人界の心境になってしまう。ということが出来たのなら、若年性認知症の就労支援をご本人の守護霊に働いてもらうということも可能なのではないかと考えるわけです。 太陽の法に食文化が異常に発達した文明があると教えていただきました。その文明ではこの食べ物は天国的な心境になる、この食べ物は地獄的な心境になるという、食と心の動きという研究までやっていたのではないかと思えます。その時の記憶さえ思い出すことが出来れば、僕の考えている事業が他社の追随を退けることが出来ます。働く人もお客さんも天国的な心になってしまう。それも食べることにより強制的に。面白いなと思います。そんな食を作れるように頑張るぞ。そして認知職を根本的に治すぞ! おめでとうございます!! .
若年性認知症が話題になったのは、『明日の記憶』という渡辺謙さん主演の映画です。あの映画をみると、若年性認知症にはなりたくない!という嫌な後味しか残らない。結局あの映画の結末は、介護者である奥さんは介護疲れでヘトヘトになり、本人は自分がどんどんわからなくなり、施設に入るという見たくないな。その最後だけは見たくないなという結末にjなりました。で、あのような認知症の方が本当に働けるのか!という課題があります。明日の記憶の中に、主人公が陶芸をやるシーンがあります。結構上手に作っていました。あのくらい上手に作ることが出来るのなら、それを売るのが上手な人がいれば収入を得ることが出来ます。芸術の面は、障害者の方が才能を発揮される方が多いように思いますが、認知症の方も芸術面での才能の開花というのはありゆると思っています。しかし、芸術面での才能の開花は多数の方々が目指せる仕事とは違うので、僕の目指している就労支援とは違ってきます。 認知症の方はなぜ、健常者から見て異常行動をするのかということをしっかり理解することが第一歩なのです。認知という機能に障害が出てくるので、例えば、まっ白い器に白米が入っていても、それが分からない。認知できないということがあります。配膳して「ご飯ですよ食べてください」と出してもご飯だけ残したとします。本人に聞くと「ご飯は空だった」という表現をすることもありますし、ただ「ご飯はない」という方もいれば「ご飯は食べていない」と表現する人もいます。そいう特徴を分かっていれば、飲食店で働いてもらうのなら、白いものを黒い器に入れるということでクリアできることもあります。 コンセントで、スイッチが入っていますというサインでオレンジ色に光るようになっているものがありますよね。あれは便利ですよね。でも、認知症の方はあの光をみて火事だ!と思えてしまうのです。でパニックに陥ることもあります。その人によってどこでどんな反応をするのか分からないので事前にリサーチしてパニックの原因になるものを減らす努力がというか、環境作りが必要になります。でも、それは、仕事を一緒にやりながらじゃないと分からない面があるので、ある程度のところでぶっけ本番というスタート地点につかないといけないと思います。認知症の方と付き合っていると、だいたいパニックになるような勘所が分かってきます。そこをいかにパニックにならないようにするかです。接客は出来る人もいます。でも、お客さんの話し方のトーンや表情で急にパニックになる可能性があるので、相当慣れてくるまでは接客対応は難しいかもしれません。 そうすると、飲食業で有れば、洗い物や掃除で支払う時給以上の付加価値のある仕事をやって貰わないといけないわけです。その付加価値の創造が一番難しい。洗い物をしていても、なぜ、自分が洗い物をしているのか?と目的を見失うことがあるからです。その兆候を見つけたら声かけをすることによってクリアできます。でも、タイミングが遅れるとパニックになってしまいます。ですから、僕が考えているのは、認知症のケアの一つで、認知症ケアマッピングというのがあるのです。そのマッピングをケアでなく就労支援用に改良してもらいケアマッピングでパニックになる兆候をつかんで支援に生かすことが出来ればと考えています。 どうして、若年性認知症の就労支援にこだわるのかと言いますと、「ドラッガーの国家と経営」大川隆法著の中で高齢者の就労支援を考えなければいけませんと書いてあったんです。 前々から認知症高齢者で元気な人はこちらの支援の仕方によっては働くことが出来る!と思っていたんです。そんなときにそんな文章を見つけました。ちょうどその本を読んだ後に認知症ケア学会の大会に姫路まで行きました。そこで、NPO法人で東京都から補助金を頂いて若年性認知症の就労支援をやっているところに出会いました。 「若年性認知症の就労支援で苦労しているところはありますか?難しいでしょう」と聞いたところ「一般の人と同じですよ。あなたのように差別する方が認知症の方に対して失礼です」と言われました。就労ということを考える上で、忘れるというのは致命的だと僕は思っています。その忘れてしまうという行為を忘れても忘れなくても同じ状態にするというアイデアが必要になります。そのアイデアを聞きたかったのですが、そう言われてしまいカチンときました。1ヶ月1000円程度しか渡せないのですよ認知症の方々にお給料を。補助金をもらっていて。そんな支援をしか出来なくて偉そうに!とおもいました。でも、僕はその人を批判できる立場にいません。就労支援をしていないのですから。その時に若年性認知症の就労支援をして最低賃金以上を渡し、そのうえでそのNPO法人を批判しようと思いました。批判というか同じ立場に立って一緒に戦おうじゃないかという、若年性認知症への支援競走をしよう。それにより、若年性認知症の就労支援の場を多くしていこうという計画です。 若年性認知症の就労支援は認知症高齢者の支援よりも大変です。若年性認知症の就労支援が成功すれば認知症高齢者の就労支援が簡単に出来ます。認知症高齢者の就労支援が成功すれば、身体障害や虚弱高齢者の就労支援は簡単に出来ます。 就労することで生きがいが出来て健康になって、心も体も元気に豊かになれば、介護保険のデイサービスは不要になります。生活保護者や生活困窮者もいなくになりまます。 介護保険のデイサービスに行けばお金を支払わなければいけないが、働きに行けばお金をもらえる。そして、デイに行くよりも健康で元気になる。そう考えました。 で、僕の理想は、起業してその会社を大きくして社員寮を作り、若年性認知症の方や認知症高齢者で独居の方や引越してもよいという方に住んでもらう。それにより、安い住居で豊かな生活が出来るようにしたいと考えています。社員寮に住むということは、働いているというのが条件です。ですから、寝たきり状態になってもお給料がもらえる仕事、付加価値のある仕事をどんどん創造していかなければいけないと思っています。 僕の自助努力型の福祉構想でした。
介護保険は社会主義的な思想の元に作られている。介護保険の中では統制経済がおこなわれており、発展性が乏しい。このように考えています。介護保険になる時に民間の参入という枠が作られました。法人格を持っている株式会社、NPO法人など介護の世界に入ってきたわけですが、これは、資本主義基本的な考え方で、競争原理を取り入れることにより、活性化をさせ、それがサービスの向上に繋がっていく。良いサービスをしたところは、より発展していき、悪いサービスをしているところは自然に淘汰させるというものであると思います。 民間企業が、居宅介護支援事業所(ケアマネ)、通所介護事業所(デイサービス)、訪問介護事業所(ホームヘルパー)、短期入所事業所(ショートステイ)、福祉用具販売店等事業所を立ち上げて営業しているわけです。で、介護保険外のサービスというのも行っており、通所介護の保険外とかショートステイの保険外など現在介護保険にあるものを保険単位がいっぱいだったり、他の事業所を使えないタイプの事業所(要支援のかたや小規模多機能を利用している人)を利用していて、家族が長期に家を開ける為にショトステイを使おうと思ったら、ショートステイが一杯で使えなかったなどの理由で保険外サービスを使う。利用する人達があるのでそれはそれでニーズがあるのかもしれません。しかし、民間の参入の目的はそれだけなのだろうか?と思えるのです。どういう事かというと、需要の創造という面で考えると、民間企業は需要を創造していないと思えるのです。 通所介護や短期の保険外を作ったことが需要の創造にはならないと思います。例えば、男性は介護のことを一人で抱え込むことが多くストレスを発散できないでいる方々が多いのです。ボランティアで男性介護者の集いというのをやっているところもあります。それをビジネスにできないか?男性介護者の集いは無料だけどカウンセリングは有料とか。男性介護者のスポーツクラブ、もちろんこのコースに入会いただいた方は、スポーツクラブで楽しんでいる間は、スポーツクラブに登録しているヘルパーや介護福祉士が自宅に行って介護をしてくれている。その料金も含まれているとか。男性介護者のストレス発散旅行ツアーとか、旅行に言っている間は、旅行代理店に登録されているヘルパーや介護福祉士が泊り込んで面倒を見ているとか。そういうことをやり、なおかつ利益を出す方法を考えるのが民間企業参入の意義なのではないかと思う訳です。 社会福祉協議会等が健康体操教室を無料で行っています。ときどきお金を取りますが200円程度です。体育館の中で体操をやるよりも、『要介護者の方でも大丈夫、元気モリモリハイキング大会』を2000円か3000円くらいで開催して利益を出せるようにした方が、利用する方としては楽しいと思うのです。歩けばリハビリになりますしね。介護の技術を磨いて『要介護5の方でも大丈夫、医者が同行してきます』こんなサービスがあってもいいと思うのです。このようなアイデを出して、実現していくのが民間の参入を決めた意図ではないかと思うのです。 民間企業は介護保険の国や市町村から頂ける9割を目当てに仕事をしているようでは民間ではないでしょう。民間は企業というのは行政よりもサービスが良く適正な価格でサービスを行い、利益を出してそれを社会に還元していくのが民間の使命であると念のです。介護保険事業のみを行い、9割を目当てに事業所運営をしているのは国や市町村の期間と同じだと思うのです。それだと、民間を入れた意味がない。例えば、デイサービスなら、1回のお金を支払うのは民間の方が2割程度高いけど、みんな介護保険外のデイに行くというような、公立学校では駄目だから塾に通うみたいな、本当に民間と行政が作るサービスが対立するような仕組みになればいいのですが、みんな行政に取り入れされてしまって国の機関になり下がっている。考え方なのです。 もし、行政に対立するデイを作ったとしまう。デイに1回行くと要介護1で平均約1500円です。これの内訳は入浴をして公費が半分くらいです。あとの半分は食費などの公費適用外のものです。介護保険外のサービスのデイが介護保険のデイの5倍の人数を呼ぶことが出来れば、利益率が同じという条件で同じになります。介護保険外ということは、デイの事業所にずっといなくてもいいわけです。年齢も関係ありません。人数も関係ありません。介護保険は、この広さに対してこれだけの人数しかいけません。ヘルパーや介護福祉士はこれだけいないいといけません。という規定があります。ですから30人らな30人で頭打ちになります。介護保険外はだと、定員もなければ、職員の人数の制限もありません。利益を出せる仕組みさえ作ることが出来れば、保険外の方が利益を大きくできます。国は、そのあたりのことを無法地帯にしてしまうと、サービスの質が落ちると思っているのですが、実は逆です。公立学校と私立学校を見てもらえばわかりますし、公立学校と塾でもいいです。お金が高くてもサービスの良い方を選ぶのです。 ただ高齢者になると難しいのは、自分の子供はこれからの未来があるという風に考えて投資するわけですが、高齢者になると、先はあまり長くない。投資をするのをためらうという気持ちが働きます。そこをどうクリアするかという問題が残ります。これをどのようなアイデアで切り抜けるのかがなかなか難しいのです。 民間が介護保険外サービスをより多く考えることにより、公費は減っていきます。財源が少なくて済むのです。民間企業の企業努力で公費削減をして、介護保険に変わるシステムが出来るまで頑張ってもらいたいです。介護保険のシステムは根本から変えた方がいいと僕は思います。
先日第52回日本神経学会学術大会に出席してきました。若年性認知症の就労支援について質問をしたところ、最低賃金以上で就労してもらうのは難しい。補助金などを出してもらわないと。 このような答えが返ってきたので、よくよく自分なりに補助金のこと咀嚼して考えてみました。 ノーマライゼーションという言葉があります。これは、「普通」という意味を持っています。障害者で麻痺がある。耳が聞こえない。目が見えないなど、肉体的、精神的障害を個性として捉える思想、考え方です。このノーマライゼーションの考え方はすばらしいと思います。 障害者の就労支援で、補助金を出して一般の人と同額やある程度の賃金を支払うというのは、本当に正しいのだろうか? 一般の人と同額の賃金を出すことが出来ないということは、時給800円なら、時給800円の価値に相当する労働が出来ていないということを意味します。時給800円の価値に相当する付加価値のある労働アイデアを創造せずに、時給400円に相当する労働価値しかないのに、補助金で残りの400円出して時給800円にしてしまうという考え方ではないかと思うのです。 この文の内容が少しおかしいですよね? 例えば、小学校で縄跳びをやっていたとします。一人平均1分間に60回飛んでいたとします。A君は1分間に30回しか飛べません。先生の配慮によって、A君の1回は×(かける)2回にします。と言ったらA君は60回飛べるようになりました。めでたしめでたし。という結末で良いのでしょうか? なんだか変だと思います。現在の福祉の考え方とい言うか補助金制度の考え方はこのようなものだと思うのです。 ノーマライゼーションの考え方でいくと、縄跳びは得意ではないけど走るのが速いですね。鉄棒が上手ですね。ピアノが得意ですね。縄跳び以外で他の人よりも秀でたもので価値を提示します。 起業家はどうかというと、また違った考え方をします。A君が足が速いと聞くと、なぜそんなに足が速くなったのかを調べます。A君はいつもギリギリまで寝ていて、学校まで全力疾走をして通うためにいつの間にか足が速くなった。足が速くなり、学校までの時間が短縮されると、短縮した時間を寝る時間に使うから、起きるのが遅くなり全力疾走をしなければいけない。でも遅刻は一度もないという子供だったとします。 このような生活を発見したら、A君に走り縄跳びをしながら登下校してくだいと提案します。A君はその日の帰りから走り縄跳びで登下校し始めました。2,3週間後A君は1分間に90回縄跳びを飛ぶことが出来るようになっていました。めでたし、めでたし。 起業家は、A君がどのような努力を積み重ねれば縄跳びが今よりも飛べるようになるかということを考えてアイデアを出していきます。A君自身も、1回飛べば2回飛んだことにしてくれるよりも、1分間に90回飛べるようになった方が嬉しいだろうし、やりがいがあると思うのです。 現在の介護保険を含む補助金制度の在り方は、企業家精神に欠けていると思います。
認知症の方と共に過ごす。と、いっても、当事者(介護者)としては、認知症の方ではなく、「お父さん」「お母さん」「おじさん」「おばさん」「隣のじいじ」「隣のばあば」など、当事者(介護者)の大切な存在であるわけです。ですから、本当は認知症の方という表記はあまり良くないのは分かっているのですが、どうしても、認知症の方というような表記にしないと、何のことを書いているのか分からないという感じなってしまうので難しいところといえば難しいですね。 僕は仕事で認知症の方と付き合ったことがあるのみで、家庭で介護の経験はありません。ですから、ご家族の本当の苦しみや悩みを代弁できているのか自分の発信する言葉が家族介護をしている方々に役に立っているのかは不明なところがあります。でも、仕事では真剣に認知症の方を応援していますし、今をどのように充実させていくのがいいのかということを常に考えています。 基本的な所で言うと、認知症に関わらず年齢を重ねていくと、どうしても疎外感が出てきてしまうということが多いです。特に日本は。ご家族としては、何十年とガムシャラに働いてきた両親等を労わるつもりで言っているのですがそれがかえって認知症を早めてしまっているということになってしまっています。例えば、「お母さん、もう家事はやらなくていいから休んでいて」というのは労わりの行為です。労わられたご本人も、じゃあ、嫁に娘に甘えるかなという感じで、家族の愛を受け入れます。この行為が特別な日のみ例えば、誕生日やお正月やお盆等、その人のとって特別な日だけであればいいのですが、同居していて、食事の支度や洗濯、干す取り込み、掃除全てがの行為を、労わりの心でやってしまうと、ご本人はやることが無くなってしまいます。自分の仕事が無くなってしまうと、何もやることのない時間が急に出来て、その時間をどのように消費していいのか分からずに、無駄に過ごしてしまうのです。時間が急に出来た、といっても、なかなかピンと来ないかもしれません。例えば、外国の宝くじを毎月買っていて、キャリーオーバーで1兆円くらいになっていたものが当たったとします。 今まで見たことのないお金が急に手に入ると、当たっ時は嬉しいのですが、いざ、手元に来ると怖くなるのが普通なのではないでしょうか?取り越し苦労で、泥棒がくるのではないかとか?いきなり襲われるのではないかとか?そんなことばかり考えるようになるのではないでしょうか?あと、事業でも始めるかと、事業を始めたはいいけれど、パートナーに騙されたり、事業に失敗して資金を減らしていき借金が出来たりなど、思っても見なかったものが、自分の予想をはるかに超えて自分の手元に入ってくると、思考が停止するかのようになり、普通で考えたらやらないことをやってしまうということがあります。 タイムイズマネーと言われるように時間も同じで、使い切ることが出来ない時間が手に入ると、思考が停止した状態になる。家事をやる時には、無意識に段取りを考えて行います。その段取りを考えるという能力は、高度な能力なんです。認知症になると、順序立てて物事を行うことがだんだん出来なくなります。段取りを考えることができなくなるのです。段取りを考えるというのは、結構脳トレになっているんです。毎日、家事労働をして筋トレならぬ脳トレをやっていたのにそれが出来なくなってしまった。筋トレをやめれば筋肉が衰えて行くように、脳トレをやめれば脳が衰えていく。若ければまだ落ちるスピードも遅いかもしれないですが、年齢を重ねていると、加齢も加わってきますのでジェットコースターのように急激に衰えていきます。そうしていくうちに認知症の影が忍び寄ってくるのです。 あと、労わりの心が100%ではない家族も多いと思います。実際、年齢を重ねていけば、やることも遅くなっていくし、段取りも悪い。掃除も奇麗にできていないこともあるし、うっかりが多くなっていく。失敗が多くなるから、お母さんにやってもらうよりも、自分でやった方が早く、奇麗に確実にできるということがあるわけです。気が強い方でしたら、その失敗について怒れてきてしまい、きつく言ってしまうこともあるかと思います。年齢を重ねてくると、自分でも出来ないことが多くなってきた。1年前は5分で来たのに今は15分も掛ってやっているみたいな自覚があるんです。多少は。でも、そこを言われるのが嫌なんです。分かっていることを指摘されるのが一番腹が立つのです。子供がテレビを見ていて、このテレビが終わったら宿題をやろうと思っている時に「宿題やった?テレビを見る前にやりなさい」と言われると、とたんに宿題をやる気をそがれます。一気にやりたくなくなります。そんな感じです。ですから、横槍を入れてほしくないのです。横槍が毎回のように入ってくると、自信喪失をして、自分は駄目な人間だと認知症や鬱の影が忍び寄ってきます。 では、どうしたらいいのか。それは、出来ていないところをさりげなくサポートするのがみそです。あからさまに手伝っているというのは駄目です。例えば、洗濯物を干したとします。しわを伸ばしていなかったとします。本人が干している時から隣でハンガーから洗濯物を外してしわを伸ばして干し直すということをしてしまってはいけません。失敗を確認させるようなサポートは駄目で、全て干し終わったら「お母さんご苦労様、「ありがとう。助かりました。お茶を入れておいたので向こうでテレビでも見て休んでいて下さい」なんて声を掛けて、洗濯を干す場所が死角になるところにおいやってから、洗濯物を干し直すのです。こんなさりげないサポートが必要になってきます。その人の性格のもよりますが、もし、洗濯物を干すのを手伝っても嫌な顔をしない方ならば、しわを伸ばして干してほしいのなら、わざと大袈裟にしわを伸ばすリアクションをします。そうすると、お母さんもああそうだ、しわを伸ばさなければいけないな。と思いだししわを伸ばし始めるのです。細かな方法は対象者の性格に寄りますので、その都度その人の性格を見て、サポートに工夫をしていけばいいかと思うのです。 工夫する時にいつも念頭に入れておくことは、いかにその方の自尊心を守るか。本人らしさを大切にできるか。その方の信念やプライド、考え方を尊重し、大切にできるかということが大切なんです。 自尊心というのは個性だと思うのです。個性は本当の自分だと思うのです。本当の自分というのは霊的な自分、スピリチュアルな自分ということだと思います。肉体を纏った人間的なお母さんは、出来ないことが増えて来て、失敗もある。それは、肉体的を纏っているからだ、本来のお母さんは完全無欠の優しく、愛に満ちたお母さんなのだ!その本来のお母さんを尊重しようという思いだと思うのです。そのように心で思っていると、心で思ったことは相手の心にも通じます。そこにスピリチュアルな絆ができるのです。この絆はとても深い絆です。言葉では言い表せない絆です。この絆は心対心なので、肉体的な、この世的な脳は介しません。この絆で結ばれることができれば、自分の心で思った思いがストレートに通じるので、例えば、心配だから一人で外に出ていかないでほしい。という思いが探すのが面倒だとかという思いでなく、本当に相手を純粋に心配している心から出たものだったら、必ず何かサインを出します。 認知症で急に不安になり、混乱して外に出ていってしまったとしても、その混乱のさなかに何かサインを出します。助けてくれ!というサインをだします。そのサインをしっかりキャッチできれば出て行く前に止めることができる。たとえ出て行ったとしても、そのサインから分析すれば見つけることが可能だと思います。 スピリチュアルな絆は虫の知らせのような予感、インスピレーションをもたらしてくれます。でも、このスピリチュアルな絆を作るには、まず、人間は霊的な存在であるということを信じなければなりません。で、霊的世界が本来の魂の住まいであって、この世は仮の住まいである。心の修業をする為の道場である。三次元物質世界という、道場で心の修業をしているのだと信じなければなりません。この前提がなければスピリチュアルな絆を作ることは出来ないと思います。
介護の現場で介護福祉士、ヘルパー2級の資格を持った方が活躍をしているのですが、同じような仕事をしている看護師がいますが、多いところでは、給料が10万円近く違う。少ないくても5万円くらいは違います。看護師の方が多いのです。看護師は医療行為が出来るからという理由ですが、この給料の決定の仕方は本来は間違っています。介護福祉士と看護師は立場が違い、お互いになくてはならない職種です。この給料の決定の仕方は、介護福祉士は看護師の助手みたいな立ち場に居るという風に思われても仕方がないと思います。ですから、本当なら介護福祉士も看護師も理学療法士、作業療法士(福祉の現場にいる)もみんな一律の給料でなければいけないと思います。すべての職種が必要でどの職種が上とか下とかはないと思うからです。一つのチームであるならば、そのチームに入ってきたお金は平等に分配するのが一般的です。 このような現状があるのですが、この現状を百歩譲って、違う見方をすると、介護福祉士の給料の安い理由が見えてきます。 看護師は理数系で理論的な思考で考えます。いわゆる原因結果を科学的思考で理論的にとらえていきます。縁起の理法で考える頭が出来ています。 しかし、介護福祉士は文系の方が多いように感じます。理論的に考えるのが苦手なのです。利用者の心に寄り添い、利用者の悩みや苦しみを自分の事の様にとらえて、一緒に涙する。その人の人生に感情移入する。そのようなケアをしています。科学的に考えていると、スパッと切り捨てるような感じで行きますので感情移入にはなりません。 そうすると、自分のケアが見えていないことがあります。自分が行っているケアがその時に本当に最善のケアだったのか? もっとよい方法はなかったのか?と考える余地がないのです。そうすると、放漫なケアする人としっかりとケアする人が出てきます。そこにケアの質の低下があります。 自分のケアを分析できないとケアの質は低下していきます。それがわからないのです。看護師や理学療法士はたいてい事例検討の事例を提供したり、論文を書いたりして、自分たちの行った看護やリハビリを分析しているのです。定期的に。それが反省の機会になり発展の機縁になります。 僕は認知症ケア学会に入っていて事例ジャーナルという雑誌や学会誌が定期的に届きます。読むと時に必ず論文を書いた人たちの職種見ます。一番初めに書いてある名前がたいてい言いだしっぺです。介護福祉士で一番初めに名前が掲載されているのは0に等しいです。 いくら仕事を頑張っていても客観的に介護福祉士が多くの人々の役に立っている。介護の現場でリーダーシップをとっているとわかるようなアピールをしなければ介護福祉士の素晴らしさはわからないままなのです。 介護福祉士がとても活躍しているとわかってもらえるようにどんどん論文や事例検討や事例研究をしていかない限り、お給料は安いままだと思います。 例えば競技用の自転車に乗っていたとして、毎日走っていても、自分が速いのか遅いのかわからないということです。どこかのチームに入りたいと思っても客観視できるデーターがなければ自分をアピールしようがないということです。どこかのレースでこれだけのタイムで走ったとかそのようなデーターがなければ、たとえそのチームに入っても契約金が100万円だったとしてもそれが安いのか高いのか適正なのか判断できないのです。判断できないのなら一番最低の契約金から始めるしかないということになります。 介護福祉士は給料の判断が出来るものさしがないから安い給料でしか提示できないのです。もっと介護福祉士の価値が高いのだ!という判断が出来る物差しを世の中にアピールしていかなければ現状と同じ給料が続くということです。判断を仰ぐ物差しはやはり、自分たちが行ったケアを多くの方々に見てもらうことです。そして、それを自分たちのケアの質の向上につなげていくことです。そう思います。 |一覧| |
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