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2001年から10年以上、楽天にお世話になりましたが 最近、どう編集し直しても不適正なワードが残るらしく 楽天にどこがまずいのか説明してくれと問い合わせても お答えしかねますの一点張り。 映画レビューですので、 カタカナの異国名の何かにひっかかることもあるのかもしれないし 性愛描写をまるきり抜いたり伏字で書くのもイヤだし エキセントリックな登場人物をソフトな表現で言葉をえらんで書くのもどうかと。 無料でお借りしているのだし いやなら自分でHPビルダーでも使ってイチから構築すればよいことですので 楽天に文句は言いませんが なんにせよ、ここではもう続けられませんので 今後は はてなブログに移行します 今までのがやがて消えてしまっても、それはもうしかたないですが 自分からは何もせず、残しておきます http://d.hatena.ne.jp/lady6ird/ おちゃのましねま こちらでこれからもよろしくお願いいたします。 謎ですね どうしてもUPさせてもらえなかったのが http://d.hatena.ne.jp/lady6ird/20120502/1335957853 でご紹介している 「ソウル・キッチン」 これのどこがひっかかったのか、全文を楽天にメール送信しましたが 言葉は教えられない、の一点張り。 むしろ、その1つ前の作品のほうが、売春婦などの表現があったのですが (登場人物の職業なので、ほかに言い変えようがない) あっさり投稿できたり。。。 まぁ、システムですからいたしかたありません。 OKな場所に移動するだけです。 ではでは、長いことありがとうございました。
「そして、私たちは愛に帰る」[AUF DER ANDEREN SEITE(向こう側へ)] 英題:THE EDGE OF HEAVEN(天国のほとりで)2007年・トルコ・ドイツ 監督・脚本:ファティ・アキン 俳優:バーキ・ダヴラク・・・ネジャット(ドイツ在住トルコ人、ドイツ語の教授) トゥンジェル・クルティズ・・・アリ(ネジャットの父) ヌルセル・キョセ・・・イェテル(トルコから出稼ぎに来ている、娼婦) ヌルギュル・イェシルチャイ・・・アイテン(トルコ人革命家、イェテルの娘) パトリシア・ジオクロースカ・・・ロッテ(アイテンの恋人、ドイツ人学生) ハンナ・シグラ(ロッテの母) 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 ドイツ、ブレーメン。 男手ひとつで息子ネジャットを育て上げた老人アリは年金暮らし。 最初の妻は息子を産んですぐになくなった。 後妻はすぐに逃げてしまった。 トルコには家もあるが、ドイツで稼いだ金で息子を大学教授にまで出世させられた。 学のある息子ネジャットは、優しく接してくれるが会話もなく寂しい。 トルコ人の娼婦イェテルを囲い華やぎを求めるも、互いに苛立った喧嘩の末、 彼女を殺してしまう・・・。 ネジャットは刑務所に入った老父も、祖国も仕事も棄て、イスタンブールにやってきた。 イェテルがトルコに置いてきた娘の消息を気にかけたまま父に殺されてしまったことにやり場のない悲しみや責任を感じていたのだった。 祖国に土にイェテルを還したのち、小さな本屋を買い取り、そこを拠点に イェテルの娘を探し続けようとする。見つかったら学費を援助するつもりだった。 イェテルは娼婦であることを隠し、靴屋で働いていると偽りながら学費を娘のアイテンに送金し続けていた。娘に大学を出てほしかったのだ。 トルコは、貧民層は教育を受けられず、犯罪に走るしかないのが実情・・・。 だが、娘アイテンは・・・ 大学にはゆかず、イスタンブールでトルコ人女性で構成される武装集団で活動していた。 革命の目的は、貧民層の女性の教育や就労の権利だったが、 アジトが見つかり、彼女は偽造パスポートでドイツに逃亡する。 ドイツのブレーメンの靴屋で働いているはずの母を捜すアイテン。 だが、組織のために働いて稼ごうとしないアイテンは革命家のアジトを追われホームレスに・・・。 安い学食を求めて偽学生としてもぐりこんだ大学。 そこはネジャットの勤める大学であったが、2人が出会う運命ではなかった。 アイテンが空腹のあまり、小銭を貸してとせがんだ女学生、ロッテ(シャーロット)は、文学部の学生。専攻は英語だ。 ロッテはアイテンに強力な磁石のように惹きつけられた。 彼女を自宅に招き、同居をはじめるのだった。 2人は激しい恋に落ちる。 当然、ロッテの老いた母は世間知らずの娘が暴走するのを案じ、 アイテンにも、要するに何とでも闘いたいだけ、と批判する。 だが、苦言が若い娘たちの心に届くことはなかった。。。 。。。。。。。。。。以降、ネタバレを含む。。。。。。。。。。。 そして事件は起きた。 アイテンが逮捕され、祖国トルコへと送還されてしまったのだった。 刑期は20年にものぼろうか。 追うロッテにも悲惨な運命が待ち受けていた。 ロッテの死後、イスタンブールに何かを求めて滞在する老母。 ロッテを下宿させつつも、彼女が探しているアイテンと深い関係にあることを知らないネジャット。 ネジャットの父、アリもドイツで短い刑期を終え、 トルコに強制送還されていた。 だが、父アリは、ドイツから消えていた息子に合わせる顔もないと会いには来なかった。 息子ネジャットも、人殺しの父に会うつもりは、なかった・・・ ドイツで始まった物語は、トルコで結末を迎えようとしている。 ネジャットとアリの父子 イェテルとアイテンの母子 ロッテのスザンヌの母子 そして巡り合わないまますれ違い続けるアイテンとネジャット 互いに愛するロッテを失ったアイテンとスザンヌ 心に空洞を抱え、それでも生きてゆかねばならない彼らは それぞれに、誰かに会いにゆくことで、新しい一歩を踏み出そうとしていた。。。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 ファティ・アキン監督は、ドイツで生まれたトルコ系二世ドイツ人。 複雑なアイデンティティが作品に反映され続けています。 「言語」と人間の生活や心の関わりにも触れています。 イスタンブールでドイツ語の本を売っていたドイツ人の本屋。 彼はトルコ語に埋もれて暮らすことでホームシックになり帰郷します。 イェテルはトルコ語をうっかりトルコ人のアリに使ったのをイスラム原理主義の男たちに聞かれて危険な目にあいます。 ドイツ人のふりをして生きてるんじゃない、ということと、 売春はもちろんイスラムの掟に反することですから、「悔い改めよ」と迫られたわけです。 彼女がアリの家に越してきた理由の半分以上が、もうあの売春窟では商売できない、と諦めたことによるものでしょう。 50代に見えましたが、さぞ辛い日々だったであろうと・・・。 あまりにもあっけなくあっさりと殺されてしまう描写は 前作「愛より強く」でもみられました。 カっとなった勢いで当たり所が悪く死んでしまう、殺してしまう。 本作では一瞬で2人が死んでしまう。あっけなく。 人生とはそういうものと、アキン監督の描き方は突き放したところがあります。 苦労が報われるのが人生でもなく 正しく清く生きてきたから悲しみのない人生にもならず 闘って社会を敵にまわせば勝ち残れるわけでもなく・・・ 人生は失ってゆくことの連続。 でも、人生はひたすらに続く。 浜に打ち寄せる波のように、寄せては還す。 得ては失い、失ってはまた何かを得る・・・。 前作と同じく、行き違う運命、重ならないタイミングについて ドラマティックに描きあげてゆきます。 もしあのとき、もしそうなら、 いいえ、人生にはもしもはない。 出逢わない人とは巡り合わない。 また邦題がよくわかりませんが、 原題はダイレクトに「むこうがわ」を指しています。 印象的に、トルコとドイツを行き来する質素な空輸用の木棺。 イェルテの棺はドイツからトルコへ ロッテの棺はトルコからドイツへ それぞれ、「故郷」へと・・・ むこう、反対側 それは、日本でいうところの「彼岸」でもあるのでしょうね 生の反対側へ・・・ 母と娘というのはやはり映画の永遠のテーマかもしれません 母は自分の人生の失敗を娘に繰り返させたくない。 娘は母のようには生きたくないと反発しつつ、なぜか道をなぞってしまうが、 辿りつくところが同じにはならない。 息子と「母」 ネジャットは母親を知りません。 イェテル、スザンヌ、2人の「母性」に心を揺さぶられ、 血のつながりを、育ててくれた存在への想いを確かにするのです。 息子と父は、反発し顔を背けて違う道をたどるにも関わらず、 ゴールが揃ってしまう傾向があるのでしょう。 私は、エンドロールの間ずっと寄せては反す波を見つめる息子の背中を見つめながら ああ、父はもう帰ってこないのだな、と感じたのでした。 父も、向こう側へと船に揺られ。 あまりにも美しく激しい作風が、ファティ・アキン監督の持ち味です。 この激しさに、とても疲れてしまうほど作品に惹きこまれます。 邦題は、おそらく、 主義主張、運命を超えて、ひとは最後には愛のために生きるのだ、という意味でしょうか 起こった出来事のみを羅列づれば、この物語は悲劇でしかありません。 ですが、遺された人間が再び太陽と地面の間で生きるために 何かを見出してゆきます。 そして、向こう側に渡った人々も、それを見守っているのでしょう。 向こう側は、天国は、あるのだと。 対岸で我々生きているものは何をすべきなのかと。 圧倒的な説得力をもつアキン監督の映像世界、是非、多くのかたにお薦めしたい映画です。 犠牲祭、おめでとう、か。 イルラム文化には詳しくありませんが、 息子を犠牲にしなくて助かった信仰の厚いもののおはなしですね。 ひとは、何ひとつ誰ひとり犠牲にせずに、生きてゆけるものなのでしょうか・・・ どこかで、誰かを、なんらかのかたちで向こう側に送り、 そして、今、こちら側の我々は、生きて、太陽を浴びている。
「愛より強く」【GEGEN DIE WAND(壁に向かって)、英題:HEAD-ON(正面衝突)】 2004年・トルコ・ドイツ ※R18 監督・脚本:ファティ・アキン 俳優:ビロル・ユーネル・・・ジャイト シベル・ケキリ・・・シベル カトリン・シュトリーベック・・・マレン メルテム・クンブル・・・セルマ ★ベルリン映画祭金熊賞 ファティ・アキン ★全米批評家協会賞 外国語映画賞 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 中年にさしかかったトルコ系ドイツ人の男ジャイトは、最愛の妻を失ってから自暴自棄に。 車で壁に正面衝突をして自殺をはかるもムチウチのみで助かってしまう。 そんなジャイトが強制的に通院させられた精神病院で出逢ったのが リスカを繰り返す若い女、シベル。 シベルはイスラムの戒律を厳格に守るトルコ系ドイツ人の家庭に育ち、がんじがらめの境遇に絶望して自殺未遂を繰り返しているのだった。 シベルは、待合室でジャイトの苗字を耳にすると、 厳しい父でも同じトルコ系なら認める、と、ジャイトに偽装結婚を迫るのだった。 遊びたい、男とヤリまくりたい、とエキセントリックすぎるシベルにドン引きのジャイトだったが、 家族から逃げるためには結婚しかなく、それがダメなら死ぬまでのこと、と血まみれで迫る彼女に、なかばヤケっぱちな気持ちで偽装結婚を承諾するのだった。 取り決めは、家事はシベルがする、家賃もシェアする、ただしセックスはしない。 互いの男女関係に口出ししない。 たまに、シベルの実家に顔を出して夫らしいふりをしてくれればいい。 ジャイトには当時、体だけの関係の女がいた。 欲望の処理に困るわけではない。 ジャイトはほぼ天涯孤独。 何も、困りはしないはずだった・・・。 結婚式初夜。 偽装でも、とにかく自由を手に入れた喜びで浮かれていたシベルは 入籍書類作成時に、ジャイトが初婚でなかったことが少々気にかかり つい、先妻について軽い口調で尋ねてしまう。 まだ先妻への愛を断ちきれていなかったジャイトはキレてシベルをウェディングドレスのまま 夜の街へ放り出してしまうのだった。 そしてこの夜から、シベルの行き当たりばったりの男性遍歴がはじまる。。。 料理が上手で陽気で美しく、家事もきちんとこなすシベルとの共同生活は 荒みきっていたジャイトの生活に明るさと潤いをもたらしつつあった。 だが、男を狩りまくり、夫である自分を、セックスすれば本当の夫婦になってしまい自由を失う、と受け入れないシベルの態度に、 彼女に恋してしまったジャイドは激しく苦悩する。 燃えあがる嫉妬の炎・・・。 ある夜、シベルにしつこく言い寄る、シベルが一度だけ寝たチンピラに、 女房は幾らだ、と侮辱されたジャイドは相手の男を殴り殺してしまう! 事件は大々的に報道された。 姦通禁止の戒律を破ったシベルは実家に勘当され町にも住めなくなった。 厳しい兄に見つかれば、ただでは済まされない。。。 投獄されたジャイドに心を残しつつも シベルは従姉を頼ってイスタンブールに逃げるが・・・・。 本当は愛し合いつつも真正面から向き合えなかった2人。 時は2人を再び結びつけるのだろうか。 それとも運命は2人を永遠に引き裂いてしまうのだろうか・・・・。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 幻想的なまでに美しいにも関わらず、一切の寓話性をもたない、激しい、 痛いまでの暴走する愛を、まさに、「真正面から正面衝突」で描いている。 邦題の、愛より強いものって何だろう。 よくわからない。こじつければ何か語れそうではあるが・・・ やはり、原題の、激突、を意味する言葉のほうがいい。 まさにこの物語は、男女の愛と情念の激突を描いているからだ。 そして、男女の、人の、心の振り子や人生の運気の振り子は同じ幅や速度では振れない悲しみ。 2人とも違う幅で揺れているので、互いが互いを欲しているときに 重ならない。。。 欲しいとき、人生に立ちはだかる壁が互いを遠ざける。 男は亡き貞淑で最愛の妻と、奔放だがそれゆえタナトスまでも払拭してくれそうな力強い若妻へ心の振り子が揺れる。生と死への渇望の間でも揺れていた。 緩やかに揺れていた振り子は、強力すぎるエネルギーに惹かれ、やがて 「生」とその活力を与えたシベルに惹きつけられたところで磁石のように静止する。 女は生と死の間で激しく短い震動のような揺れを繰り返していた。 女は夫に惹かれてはいたが、享楽と自由、安定と束縛、その間で揺れていた。 夫を心身ともに愛してしまえば、保護者が家族から夫に変わるだけ・・・ シベルには、安定は死、自由は生なのだ。 だが、人間は複雑ないきものだ。 シベルが本当に絶望し、死のうとするのは、鎖なき自由の完璧な孤独を知ったから。 シベルの振り子は、自由の本当の意味を知り、振りきれて壊れてしまう。 そして、人生は続き、シベルは新しい振り子をもつ。 罪のない子供と咎のない夫、そして罪を背負ってまでも自分を愛しぬいてくれた男。 映画は、典型的な結末で幕を閉じるが、 運命の振り子が交差する最後の一瞬が美しく優しい。 引き裂かれた2人は、そのままでは永遠に運命の虜だ。 2人は自分の意思で振り子を止め、心も体も重ねて静止した時間を二日間、もつ。 そして決めた別れは、誰のせいでもない。 そして、哀しいものでも、ないのだ。 出逢い、人生を分かち合うことで互いに生きる力を得た2人。 別れも愛の確かな形なのだと、思えるエンディングだった。 それにしても、あまりにも切ない。 悲しいのではなく、切ない。 ビロル・ユーネルが実に素晴らしく、中年にさしかかった時期に人生の支えを失った男の心の荒みを演じている。 少し愛嬌のあるくちもとに対し、深い闇をはらんだ目元。 なんと美しい男優さんかと惚れ惚れした。 ジャイトは浴びるように酒を呑み自暴自棄に暴れる。 忘れていたかのような明るい日々のなかでも、自分に背を向ける若い妻が去った部屋で、 誠実だった妻がほとばしるほど恋しくなり そっとクローゼットをあけて妻の品のよい淡い色彩の洋服を抱いて匂いを嗅いでまるくなって眠る 寂しくて、体温と頭の中が白くなるような快感に溺れて孤独を癒したくて ジャイトは女を抱く。 情婦とのベッドシーンの描写が実に美しい。 女は男を受け入れている。 餓えたように求められることに悦びを感じている。 女は、常のパートナーであれば、男の心のありようの違いが 抱かれればわかってしまう。 ジャイトは貪るようなセックスをする。 激しくもつれあう2人を俯瞰する映像が美しい。 ジャイトとマレンの、「正面衝突」なのだ。 そんなジャイトが、シベルに苛立ち暴れた後、 部屋を気まずそうに1人で片づけるシーンがある。 人は、してもらったことは忘れてしまいがちだ。 されたことばかりいつまでも覚えている。 ジャイトという男の魅力は、与えてもらったものの価値をわかる人間であるというところだ。 先妻は死んでしまった、自分を置いて。 だが、先妻は誠実に自分を愛し抜いてくれた。 若い妻は身勝手に奔放に振る舞い自分のプライドや恋心を傷つける。 だが、若い妻は廃人だった自分を人間らしい生活に引き戻してくれた。 そして、責任を包括した大人の愛をまだ知らなかったシベルに 与え抜く愛の価値を身をもって教えて去ってゆく。 人は、与え、奪われ、奪い、また与えられて生きてゆく。 物も人も激しく交錯するイスタンブールでの時のとまった二日間の重さが印象的だった。 穏やかに、求めあうセックスではなく与えあうセックスを続ける2人。 愛をセリフ外のところでこれほど表現できる、ファティ・アキン監督が素晴らしい。
「あのバスを止めろ」【NOTTURNO BUS】(夜のバス)2007年・イタリア 監督:ダヴィデ・マレンゴ 原案・脚本:ジャンピエロ・リゴシ 俳優:ジョヴァンナ・メッツォジョルノ・・・女泥棒、レイラ ヴァレリオ・マスタンドレア・・・バスの運転手、フランツ エンニオ・ファンタスティキーニ・・・シークレットサービス、マテーラ フランチェスコ・パノフィーノ・・・悪徳警官、ガロファノ 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 大統領の政治生命のかかったマイクロチップをめぐり、 3歳から強盗をしているセクシーで孤独な女泥棒、 ポーカーの借金で首がまわらない気弱なバスの運転手、 大統領直属の冷静沈着なシークレットサービス、 ミスター野獣な悪徳警官、サディスティックな拷問師のコンビが大騒動を繰り広げる。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 日本未公開だし、タイトルにバスは関係あっても、止める必要はない展開なので いかにも雑な邦題ですが、 序盤少々ごちゃごちゃしていた展開が、後半、俄然面白くなってきます。 ヒロインがバスの運転手と出逢ったあたりから、ですね。 いわゆる典型的なクライム・コメディなのですが、 ラストが、主人公2人はめでたしめでたしとして、 だんだん感情移入してきてしまうマテーラが可哀想になってきて・・・ 30年間、ついては来なかった女を待ち続けるロマンチストなマテーラがかっこよかった。 最後も、もう仕事は終わっていたのに・・・ 若い2人の未来を邪魔する狂った野獣退治をしようとする。 育て方を間違った部下の始末、か。 まぁ、あれですな、シークレットサービスともあろうものが、 携帯はシゴト中はマナーモードにしとこうぜ! サイレンサーつけて、携帯鳴っちゃうって(涙 ストーリーはそんなにあっと驚くわくわくな展開はないんですが、 お約束な展開でも、1人1人のキャラがものすごく濃くて楽しい。 暴れ牛ガロファノ、うるさいはうっとうしいわバカだわ性格サイアクだわサディストだわ、救いようがないんですが、妻にだけは弱い。 そしてまた妻が不細工でお約束のキャラ。 冷酷無比なドSの拷問師、死なせちゃったら拷問の意味ないですから~。 変態全開の拷問ぶりもアレですが、とりあえずお腹が弱い。 運転手君の親友ティティが、また鉄板キャラですね。 でかい図体に可愛い名前(笑) この2人の友情、なんかわかる気がします。 ジャイアンとのび太的な。 でもジャイアンよか絶対優しいぜ、ティティ。 おそらく、主人公の2人がいちばんキャラが弱い。 というか、もう周囲が濃ゆくて埋もれ気味です。 でもだいたい、クライムコメディ系というのは、 軸になるひとは比較的、普通ですよね。 生後8ヶ月でパパに抱っこされて銀行強盗ってのもどうなのよ。 イタリアの名女優、ジョヴァンナ・メッツォジョルノ嬢の魅力全開でした。 ハダシで夜のバスの中でめそめそ泣くシーン。 タイトルはここです。「夜のバス」 偽造パスポート4枚、小悪党のスケベ兄ちゃんから奪おうとしただけなのに。 あれだけ犯罪の中で生きてきても、もしかしたら、あくまでも泥棒家業の彼女にとって、自分のせいで誰かが惨殺された現場を見たのは初めてだったかもしれません。 レイラからは薄汚いカネの臭いはしても、血の臭いはしなかった。 そのあたりの演技ができるのがさすがイタリア女優さん。 カツラや娼婦のような洋服を脱ぎ捨てて l love bus なんてロゴの赤いダボダボのTシャツに カレの安っぽいモッズコートを羽織ってマテーラに怯えているレイラは でも、その生来の気の強さでどうにか保っている。 マテーラでなくても腕折らないぜ。 マテーラの愛したソニアは、いつまで彼を待つんだろう。 シークレットサービスが死んでも、報道はされないでしょう。 なんとも、ちょっと切なくなったのでした。 もう鉄板のラストではありますが、不思議と、またこのパターンかい、とは 思わず、最後まで楽しめた作品でした。 バックミラーで後ろを見てばっかりの人生、か。 結局、映画はストーリーより登場人物だよな、と毎回思います。 ただ、な~んとなく、伝説のカルト映画「XYZマーダーズ」とかぶる・・・。 http://plaza.rakuten.co.jp/mirai/diary/201112020000/ 主人公、ヘタレ、ヒロイン、気が強い、悪人、野獣アホ ハデなカーチェイス、夜のビル内で追って追われてドタバタ、あたり このこの作品へのオマージュなのかな。
「ラースと、その彼女」【LARS AND THE REAL GIRL】2007年・米 監督:クレイグ・ギレスピー 俳優:ライアン・ゴズリング・・・ラース エミリー・モーティマー・・・兄嫁カリン ポール・シュナイダー・・・兄、ガス ケリ・ガーナー・・・ラースを好きな女の子、マーゴ パトリシア・クラークソン・・・バーマン先生 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 雪深い小さな田舎町。 ラースは広い敷地の実家の庭にある小さな小屋にひっそりと暮らしている。 母屋にはラースをいつも気にかけている心優しい兄夫婦。 兄嫁のおなかには赤ちゃんがいる。 ラースはミスターサンシャイン、と地元の老婆たちに呼ばれ愛されている若者だが、 なにせ極端にシャイ。恋人も友達もおらず、いつもはにかんで静かに佇んでいる。仕事と家の往復で遊ぶこともなく、休日は教会にしか出かけない。 優しい優しい傷つきやすいラース・・・。 地域の皆もいいトシをして女の子と話もできないラースを気にはかけているのだが、 兄嫁のカリンはそんな義弟を心配して心配して、逆にラースをさらにナーバスにさせてしまうのだった。 ある時、ラースは、会社でフィギュアおたくの同僚が金があったら欲しいなと 冗談まじりで話していたラブドール(シリコン製の表情豊かな高級セックスドール)を購入。 だがラースの目的は本来のものではなかった。 彼女“ビアンカ”を、兄夫婦に、インターネットで知り合った恋人、と紹介する。 遠くから自分に逢いにきてくれたが、敬虔な女性なので結婚前に同じ部屋では眠れない、母屋の空き部屋をビアンカの寝室として提供してくれ、と。。。 歩けないビアンカを車椅子に乗せ、兄嫁に洋服を借りて、着替えは女性である兄嫁に頼み、本当のレディとして“交際”するラース。 ラースにはビアンカの声がちゃんと聞こえるようなのだ。 これは大変だと焦る兄夫婦。 弟が狂ってしまった。。。 カリンが機転をきかせ、なんだかビアンカが顔色が悪いので病院にかかりましょう、と付き添いとしてラースを医師に診せることに。 医師は、兄夫婦に、ラースの妄想を否定せず、つきあってあげてほしいと言うのだった。 兄のガスは動転してしまうが、カリンは溢れる母性本能でラースを受け入れる。 小さな町、あっという間にうわさは広がった。 職場でラースに想いを寄せていた女の子マーゴも大ショック。 だが、町民の反応は意外なものだった。 ラースを、というより、ビアンカを積極的に受け入れたのだ。 ビアンカは、病院の小児科のボランティアに、ブティックのモデル兼販売員に もうひっぱりだこ。 なんだか忙しくなってしまったビアンカに、ラースがキレてしまう。 こんな状態がいつまで続くのだろうか・・・。 そんな頃、ラースはドクターに、「大人になるってどういうことでしょうか」と尋ねる。 医師は、兄にきいてみるとよい、と。 兄は過去を振り返るのだった。 ラースを産んで亡くなった母親のこと。 厳格な父をラースに押し付けて自分は都会に逃げ、妻を娶って戻って来、 母屋からラースを追い出す形になってしまったこと・・・。 大人になるって、 愛するって、 愛しぬくって・・・・ ラースの中で、何かが揺れはじめていたが・・・・ 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 これは実にいい作品でした。 こういう小さな町を舞台に展開するこぢんまりとした、狭く深く優しい物語が大好きです。 特別版DVDで映画スタッフの、ビアンカに対する熱意がアツく語られる映像があり、なるほど、それだけ入れ込んだらいい映画になるわと。 人形って、なんでしょうね。 人の想いが形になった姿、かもしれません。 ビアンカは語りません。 物憂げで優しい、およそラブドールとしてはふさわしくないまでの上品な面立ちで座っています。 箱から出したてのビアンカより、皆が関わるようになったビアンカのほうが まさに、生き生き、としていくるのです。 それは、シリコンでできた人形でも、生身の人間でも、そうなんじゃないでしょうか。 母の乳房に甘えたこともなく、女性の甘い匂いやふわっとした感触を知ることもなく育ったラースは童貞。 いちばん身近であるカリンのお腹が膨らんでゆくにつれ、恐怖すらきっと感じていた。 おんなのひとは、男がさわって愛したらお腹が膨らんで死んでしまう。。。 おそらく、ラースが妄想世界に逃げ込んだ直接の原因はそこだと思います。 人に、ことに女性に少し触れられただけで皮膚に痛みまで感じてしまうラース。 だから服をたくさん重ね着して世界から自分を守っている。 ラースの最初の目的としては、完璧に閉じた存在である人形のビアンカ(アニマとしての存在である)と どこまでも静かな二人きりの世界に一生入っていたかったのでしょう。 ビアンカならお腹が膨らんで自分を遺して死んだりしません。 だってラースはビアンカと結婚しません。セックスするつもりがないのです。 (男女が交際したらするべき、と信じているプロポーズを断られた、のは自分がしたくないからでしょう) ところが、ラースは愛されていました。 愛さなくても。愛さないのに。 家族だけでなく、町のみんなに、愛されていたのです。 この映画のポイントは、ここだと思います。 愛は必ずしも相互である必要はないのです。 愛すること。 そして、愛されていることに気付くこと。 それが大切なのだ、と。 それがわからんちんのラースに、義姉のカリンがキレるシーンがいい。 エミリー・モーティマー、まさに適役。 みんな、あなたを、愛してるの、なぜわからないの! ラースには触って愛を伝えられないのを町民は感覚的にわかっている。 だからビアンカを通して伝えているのです。 愛するビアンカが必要とされ、可愛がられ、触れられ、話しかけられ・・・ そこで嫉妬の方向にいってしまったラースに、 みんなが愛してるのは、あなたなの、あなた! と。 他にも、マーゴのテディベアを「介抱」してあげるシーンがいいですね。 あの同僚も、いいトシして女子からぬいぐるみとりあげて紐で首絞めるなんて呆れてしまいますが、 ラースはマーゴの悲しみをちゃんとわかってあげられた。 ぬいぐるみだって同じです。 一針一針に、想いがこもっているのです。 誰が縫ってくれたテディでしょう。マーゴには宝物なんですね。 積極的に見えるマーゴですが、おそらく、ぬいぐるみだけがお友達だった幼少期がある。 彼女は、それを乗り越えて、今、陽気で魅力的な女の子になれている。 ラースはそれにおそらく気付いたのだと思います。 他人にはわからない大切な存在、誰しもとまでは言わずとも けっこうあるんじゃないでしょうか 私たちみんな、たぶん忘れてしまっているけれど、 どうやって大人になったのでしたっけ。 お人形をもっていませんでしたか? 男の子だって怪獣やヒーローや・・・。 物言わぬ人形が、答えてくれましたよね。 その回答が物足りなくなって、お人形に別れを告げてゆくひともいたかもしれません。 苦労も大人になるためのエッセンスでしょうが、 辛酸なめた人ならオトナかっていうとそんなことはない。 人を裏切らない、愛しぬくのがオトナだよ、と戸惑いつつ、 自分にも言い聞かせるように語る兄のガス。 負の感情がオトナにするのではない。 守れること、愛すること、その喜びを、学べたものがオトナになれるのだ。 生身の女がいいでしょ?なんてイヤラシイ言葉は一切出てきません。 ラースは、生身の、血の通ったマーゴの、積極性や活発さに惹かれてゆくのです。 そして、ビアンカを、ビアンカを愛する自分を肯定してくれたマーゴだから、 受け入れてみようかと思ええるようになった。 ビアンカはラースにとって、ただの前カノなんかじゃないのです。 人生で初めて愛した女性。 それを決して否定しないマーゴが、なんてステキな女性だろう、と思います。 愛する人が愛した存在(憎んで別れたのではない場合)を、愛せてこそ、その人を愛していると言えるのかもしれないな・・・と思いました。 インタビューの中で、ライアン・ゴズリングが、これは愛することを主題にしている、と言っていました。 ラースは、ビアンカが厄介になって死なせるのではありません。 ラースが誰かを愛せるようになる指導者としての役割を果たしたビアンカを 還してあげたのです。 ラース君、今度は愛されることが上手にできるようになるでしょうか。 マーゴは愛する才能があります、大丈夫。 町のみんなに愛されたビアンカが、愛される方法、つまり愛を受け取る方法を、ラースにきちんと教えてくれましたね。 受け入れること。受け取ること。 一方的に愛することより難しい。 ボールを投げるのは誰でもできるのよ。 でも、捕るのはちょっと、難しいよね。
「パッセンジャーズ」【PASSENGERS】2008年・米 監督:ロドリゴ・ガルシア 俳優:アン・ハサウェイ・・・セラピスト、クレア パトリック・ウィルソン・・・患者、エリック デヴィッド・モース・・・航空会社職員、アーキン アンドレ・ブラウアー・・・クレアの師匠、ペリー クレア・デュヴァル・・・患者、シャノン ダイアン・ウィースト・・・クレアのアパートの住人、トニ 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 飛行機事故で奇跡的に助かった数名の治療を担当することになった若きセラピスト、クレア。 ショック状態の患者たちの中、精悍な青年エリックだけが様子がおかしい。 異様に明るく、そしてクレアに執拗に言い寄るのだった。 そして、エリックはなぜか、クレアの心を読んでいるかのような発言を。。。 薄気味悪く思いつつも、どこか惹かれてゆくクレア。 だが、エリックにも奇妙な発作のようなパニックが起き始める。 他の患者も、1人、まだ1人と姿を消してゆく・・・。 彼女と患者の周囲を嗅ぎまわるような不審な男性が2人。 1人はなんと自分も事故の生き残りだという男、 もう1人は航空会社の職員。 患者たちの事故当時の目撃情報が航空会社サイドの事故説明と食い違うことから クレアは、航空会社が証拠隠滅のため自分たちの口を封じようとしているのでは、と 強い疑念を抱きはじめるが。。。。 。。。。。。。。。。。 ネタバレ 。。。。。。。。。。。。 どんでん返しで根本からひっくり返ってしまう、いわゆる“反則”映画の典型ではありますが・・・ だいたいの人は、中盤、ヘタしたらかなり序盤で結末というか設定に気付いてしまうと思うのですよ。 ちなみに私は、吠えすぎる犬、コメディでもないのに身内ばりに主人公におせっかいを焼く隣人のおばちゃんに、もしかしたら、かな?と気付きました。 それでも、では、主人公はその事実にどこで気付くのか、 気付いてどう感じるのかな、というところを観てゆくことになります。 あえてサスペンス仕立てにしてミスリードを意図的に誘うのが 好みが分かれるところでしょうが、そこがないと、最初っからファンタジーになってしまう。 ちょっと気になった点をあげると、 各登場人物を迎えにくるひとがやや不自然です。 シャノンは両親ですね。妥当でしょう。 他の人々が、子供時代に飼っていた犬であったり小学校時代の学校の先生であったり、「近しいひと」といえるのか疑問な人選です。 最も最近亡くなった身内、ならわかるのですが まぁ、その設定だと、顔を覚えている家族が全員生きていて自分だけ死んだ人の場合、曽祖父から上になると、迎えにきてもらっても気付かないですよね。 何せ叔母に会っても気付かないのですから・・・。 始まりは伏線としては上手ですね。 クレアは眠っていて、ペリーからの電話で起こされる。 ロドリゴ・ガルシアの作品らしい気がします。 視線が優しい。 筋書きや展開は、私の好みからはずれます。 パトリック・ウィルソン演じるエリックのしつこすぎる口説きがトリハダものの気持ち悪さで(笑) 隣人のおばさんも背筋がぞっとする方向性であり、「本当に彼女を導きたい」感じとはちょっと違う。。。 序盤、お、これは面白そうなサイコ系かオカルト系ホラーか!?それなら この気持ち悪さ、我慢するぞ、と思っていたのですが、 エー。いいひとってことですかいな。 ちょっとわからない部分があって整理したいのですが、 迎えにきた人々が、ターゲットに真実を決して話さないのはなぜでした? セリフで説明がありましたっけ。ないですけど、言っても信じないから、ですよね。 自ら己を見出さねば救われない、という、 天は自らを助くる者のみを助く、という発想でしょうか。 私を覚えてる?ともききませんね。 ちょっと思ったのですが、迎えにきた者は、話せない、喋れない、触れることはできる、という設定でもよかったと思うのです。 あるいはタイムリミットがあり、何日間で己の死を受け入れないと 天国へいけず永遠に虚無をさ迷うという方向でも面白い作品がつくれそうな。 ところで、根本的な設定がちょっとよくわからなかった。 小さな矛盾ですが、エリックの電車に飛び込むシーン。 撥ねられない=電車は体をすり抜ける ですが 彼ら、物理的にモノに触れて動かせているのですよ。 ノックもできている。 花もお店で買えている。 空港で大勢のひとがじろじろ見るシーンがありますが 彼らは、何を見ているのでしょう。 ノーマンもいない、クレアもいないのですよ。 優しい目で見ていましたが、つまり空港の客も全員死んだ乗客ということですか。 ノーマンはクレアを迷惑だ、と突き放しますが ノーマンは自分が死んだことを理解していながら去りませんね。 被害者全員がこの世界から去り安堵を手にするまで苦悶する心をまやかしの体に閉じ込めて罪をつぐなっているのでしょうか。 クレアは電話をかけていますが、 電話で話せるのはすでに死んでいるペリーだけ。 もしかして、彼らが動いていた世界というのは この現実世界ではなく、世界に存在しているのはオールさ迷える死者ですか? だから、姉は自宅に常に不在と考えればよいのでしょうか。 私は、ノックしているつもりでもベルを押したつもりでも クレアは存在してないから叩けて押せていなかった、と思ったのですが それでは買い物もできないしトイレすら流せない。 つまり、幽霊ではなく、死がわからないものたちの世界、でいいのでしょうか。 異なった次元でこの現実世界とぴったり重なっているある意味パラレルワールドの。 死を受け入れたらこの世界から去りますよね。 天国に行ったという解釈になるのでしょうが。。。 そこに関するセリフがあったように思うのですが、混乱してしまいました。 パッセンジャーズ、乗客、ですが この世からあの世へ渡る人々、なのかもしれないですね もともと、旅人という意味。 久しぶりに、なんとなく細かいところが腑に落ちない作品で 読んでる方を混乱させてしまいそうですが・・・ でも、映画が伝えたかったことは、設定が若干すっきりしなくても関係ないですね。 「死とは何から去ることなのか」 「死とは何を失うことなのか」 「死して後、何か得ることはありうるのか」 結局、人間の心のありようと死を見つめるガルシア監督の問いはここに尽きるのでしょうね。 どこまでも優しく、大丈夫、もう恐れのない世界に逝くことなのだ、 迷うことも悩むこともない世界が死、 大事なのは、死ぬ前、生きているときに、心残りなく過ごせていたかですよ、 と語りかけてきます。 クレアがあのカードを書いたのは、おそらく、エリックに 「バスに撥ねられて死んじゃうかもしれないからすぐ仲直りしたほうがいいよ」 (この時点ではエリックは自分を死を理解していない) といわれる前だと、私は思うのです。 クレアは、死んでしまってからはもう何もできませんでした。 当然のことですが 監督はここを強調しています。 声も聞けない、話もできない、ハグもできない。 だからどうぞ、生きているうちに、あなたが大切に思うひとを、本当に大切に。 愛を伝えてください、あなたも明日死んでしまうかもしれないのですよ、と。 クレアが死んでから得たもの。 愛されていた記憶のよびさまし。 姉との和解、少なくとも、傷つけた姉に許されたこと。 そして、ファンタジーとして 死後の世界でも、魂は触れ合えるのだから、誰かと愛し合うことは可能かもしれませんよ、という優しさ。 失うのは肉体と、物と、今生きている人とのふれあい。 それはとてもとてもつらく悲しいことだけれども 監督は、すべてを喪失して無になることが「死」ではないと 思いたいですよね、と優しく語り掛けているように感じたのだった。 死ぬのは恐ろしい。死ぬのは悲しい。 何もかもに置いていかれる気がする。 でも、待っているひとがむこうの世界にいるのなら。 彼らに会いに行くのを死というのなら。
監督・脚本:テレンス・マリック 俳優:ブラッド・ピット・・・父 ショーン・ペン・・・長男、ジャック(成人) ハンター・マクラケン・・・幼少期のジャック ジェシカ・チャステイン・・・母 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 1960年代。母のもとに次男が死んだという知らせが届く。 悲しみから立ち直れない母。 涙を見せない父。 物語は、現代、仕事で成功している長男ジャックが人生の岐路に立ち、弟を失った悲しみについて思いをはせ、 50年代のテキサスの小さな町で過ごした子供時代を回想するかたちで進んでゆく。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 TVCMの予告編を観て、壮大で重厚な家族のドラマだと思わされてしまいますが、 ちょっと方向性が違います。 これは、映像叙情詩。 テレンス監督はセリフではなく映像で心を表現する天才です。 ですが、「シン・レッド・ライン」とは違い、個人の心ではなく、世界の心の表現かもしれない。 映画で「起こる出来事」は実に大したことがない。 どこの家庭でも起きうるであろう、父と息子の確執、子供の死、喪失による苦悩、そして時間により癒されるが深く影を落とし続ける悲しみ。 ドラマティックな事件は起きない。 家族が死に、その喪失から立ち直るまでを描いた映画は山ほどあり、 それらは基本的に、何か事件があってそれを機に再生したり(近年なら例えば「アンフィニッシュ・ライフ」とか「メッセージ」とか)、誰か第三者と関わる中で新しい生きる力を得ていったり(例えば「トイレット」とか)する。 だが、この作品では何も起こらない、誰も影響を及ぼす人物が家族に関わってこない。 家族は、ココロ離れたまま、ぽつんと取り残される。 川が流れるのをとめられぬように、ただ、人生の時間が流れてゆくのに身をまかせるのみだ。 緩やか過ぎる人生の川の流れでは、押し流せない重たいつかえ。 それが次男の死の悲しみだ。 マリックは、喪失の悲しみは、ただ流れに身をまかせて、時間が癒してくれるのを静かに待つしかないのだと主張しているようだ。 生命の樹木(ツリー・オブ・ライフ)の実は、人が食べてはいけない。 主なる神が知恵の樹の実を食べたアダムとイブを追放したのは、生命の樹の実はせめて食べさせないためでもある。 それを食べれば、永遠の命をもつ。神と等しくなることはゆるされない。 つまり、いつ、どのようにして、はことなれど、ひとは死ぬのだ。 いつ、どのようにして。それは人間のような小さく哀れで可愛らしい生き物には重要であっても、神からすればどうでもよいこと。 なぜ信仰篤くとも悲劇に見舞われるのか。 ヨブ記を扱う洋画が多いと思うが、本作も、神とひとを考えるとき避けて通れない大きな問題を真正面から扱っている。 だが、ヨブ記の知識は不要だ。 ある信仰深い男がいたが、凄惨な悲劇に見舞われる。 とりあえずそこだけ知っていればこの映画には充分だと思う。 神というのは、何かおねだりするための存在ではない。 それでは神は人間の願いを叶える魔法使い、いや、召使いになってしまうのだ。 信仰浅い者、信仰を持たぬ者、棄てる者には厳しいが 信仰篤いものに、スペシャルプレゼントはない。 信仰とは篤くて当然のものなのだ。 そこをひとは、弱いいきものだから勘違いしてしまう。 「神が与え、神は奪う」 ひとはおろおろと、立ち止まることすら許されずゆっくり時の流れに押し流されてゆくのみ。 人生は、続いてゆく。 人類は、「ひと」はホロンとしてはいまだ滅びない。 神が何かしらの意図をもってここに存在させている。 私はクリスチャンではないので 宗教的にはこの映画に「共感」はできないが、 日本人として、非常に共感できるところがあった。 日本の神も、やはり圧倒的な存在だ。 人が修行してエラくなったような、人間に近しいものではない。 荒ぶる神。神が与え、神は奪う、しかも、日本の神の場合はそこに気まぐれすら。 あまりにも大きすぎる存在に、人間は右往左往するしかない。 ただ、祈って怒りを鎮めようとするしかない。 神のその怒りは、ちっぽけな一個人に向けられたものなどではない。 ホロンとしての人類にむけた不機嫌さだったりもするのだ。 ちいさな人間は喜んだり悲しんだりしながら、与えてもらった命が尽きるまで右往左往する。 それほどまでに神は大きい。 ひとのお願いなどきかない。畏れるべきものである。 畏れよ、謙虚に世界を見つめよ、という強いメッセージを感じる作品であった。 悲しみは、ひとを襲う。だが、癒される。 そこに、神への憎しみがなければ。流れに身をゆだねて抗わなければ。
「ベロニカは死ぬことにした」[VERONIKA DECIDES TO DIE]2009年・米(日本未公開) 監督:エミリー・ヤング 原作: 俳優:サラ・ミシェル・ゲラー・・・ベロニカ ジョナサン・タッカー・・・エド メリッサ・レオ・・・マリ デヴィッド・シューリス・・・院長 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 恵まれた人生を送っていたベロニカ。だが、確定してしまっている夢のない裕福なだけの未来、生きることの虚しさに耐えかねうつ病に。 「今」を越える幸福はこの先ない、と未来に絶望した彼女は、 ある夜、アルコールによる大量服薬で自殺をはかるも失敗、救命治療の後、精神病院に。 目覚めたベロニカは、長い昏睡により心臓に負担がかかり、余命数週間と宣告される。 どうせ死ぬなら早く、ともがくベロニカだが、そこでくちをきかない美しい青年と出逢う・・・。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 ベストセラー小説の映画化です。 日本で同じタイトルで先に映画化されています。 舞台でも上演された人気作品のようですね。 テーマはいたってシンプル。 うつ病もちには大変なじみのある舞台やシチュエーションで苦笑いでしたが、 確かに、「愛」が最大の特効薬ですね。 しかし、なんというか・・・ 洋画版の宣伝文句はどうにかならなかったのかしら。 永遠のセックスをあなたと、って・・・ 邦画はそれなりにそれなりなエロ系だったようですが 確かにウツの女性は回復期に異常に性欲が強くなる傾向が・・・ まったくもって、可愛らしい普通のラブシーン、ほとんど女優さんの素肌は見えません。非常に上品で、初めて求め合う2人の初々しい姿でしたけれども。 サラ・ミシェル・ゲラーの自慰シーンが話題になったそうですが 真っ暗闇で、表情の演技でしか見てとれず、しばらく何をしているのかわからなかったほど。快感に顔を歪めるシーンでは、お、また心臓発作?などと思ってしまったほど(笑 暗闇に浮かび上がるのはエドの首や目だけで 直立不動でガン見しているウブな青年の前で自慰をするという構図は なかなかのものですが。 リアリティを求めると、精神科に入院していた人間に言わせれば いや、自由すぎでしょう、と苦笑いだが 海外の文学が原作ですしね 無論、ひとつの「治療」として意図的に逃がしたのだと思いますが 日本やアメリカなら責任問題ですねぇ。。。 死なないと気付いたベロニカが、じゃあこの先本当に幸せに生きていけるのか 少々疑問ではあります。 現代社会に浦島太郎で社会人としてはやっていけなさそうなエド 会社を辞めているあるいはクビであろうベロニカ、 どうやって生きていくんでしょうか つり橋効果で盛り上がった恋愛ですから 互いのことを何も知らず一目ぼれに近い恋愛 若い頃なら、違う見方ができたと思いますが、非日常が日常におりたとき、 少なくともベロニカのほうが冷めてしまう気がしてなりません。 映画として深みを出すなら、その後、ベロニカがそれに気付いてしまうところまで描くのもありなように思いました。 うつ病には大きくわけると2通りあります。 マジメすぎてもう頑張れなくなったひと。 真逆に、甘やかされて育ち、大人になりたくなくて頑張らなくなるひと。 主人公の彼女は後者です。 何でもあるけど、何にも欲しいものはない人生にダダをこねた。 退屈な日常に飽きたのではなく日常そのものが退屈なので冒険した。 いいこに育ったけどほんとはやりたいこと(ピアニスト)があった、というのも 食べてゆくのに困らない層のワガママでしかありません。 主人公の彼女に感情移入できなかったため、作品への好感度は非常に低いのですが、 わきを固める俳優陣がたいへんよかったのでレビューをあげました。 ジョナサン・タッカーの、あまりに純粋すぎる瞳やくちもとの演技は見事だったし、 メリッサ・レオのヌシっぷりもよかった。だいたい精神科には、何でだかいつまでも退院しないヌシがいます。 もうじき死ぬよ、と言われて初めて、「生きたい!」と思う、それは実際、そうなんでしょうね。。。 人は、1人でならしかたなく生きるというか 残り時間を消化する生き方をしてしまうのかもしれない。 愛するひとがいてこそ、そのひとのために人生を費やしたいと思う。 生きていたいと思う。 普遍的なテーマの映画です。 でも、隣の恋人が寝てるか死んでるかわかんないほどピュアな箱庭育ち・・・ ゆさぶるとか抱きしめるとかすれば起きると思うなぁ。。。
「トイレット」2010年・カナダ/日本 監督・脚本:荻上直子(「かもめ食堂」や「バーバー吉野」など) 俳優:もたいまさこ・・・ばーちゃん アレックス・ハウス・・・次男、レイ デヴィッド・レンドル・・・長男、モーリー タチアナ・マズラニー・・・長女、リサ 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 それぞれに問題を抱えた3人兄妹が、母を亡くした。 母が遺したのは、郊外のささやかな一軒家、猫のセンセー、 そして、母が亡くなる直前にやっと探し出して呼び寄せた、数十年音信不通だった日本人の祖母“ばーちゃん” ばーちゃんは毎朝、長い時間トイレにこもる。 そして、トイレを出ると、深いため息をつくのだった。 アニメロボットおたくの次男レイは科学者。 研究所に勤務するレイは、家族のなかで唯一の勤め人で社会的にはまともだが、 彼女以前に友達なし、他人と関わりたくない、恐ろしく世間知らずで排他的で自己中な性格だ。 長男のモーリーは、この4年間、パニック障害で苦しんでおりずっと引篭もっている。働けない以前に外出すら1人でできない自分を責めて泣くばかり。 母親が死んでからというもの、泣き暮らす日々。 モーリーの世話をしていた母が病死したことで、弟と妹は、家を売ったお金でモーリーを精神病院に入れるのが最善と思っている。 末っ子のリサは文学を専攻する大学生。 兄貴2人でアレなせいか、妹はすっかり世の中をナナメに見るように。 自分のことは棚にあげ、周囲を非難することでしか己を保てない未熟な少女だ。 家を売ったら、自分は大学の寮に入り、ばーちゃんも老人ホームに入れちゃうしかないと思っている。 てんでんばらばらな兄妹。 ばーちゃんは一言も口をきかず、食事もとらず、死んだ娘の部屋にこもったきり、トイレにしか出てこない・・・。 ある晩、レイのアパートが火事になり、嫌々ながらも実家に戻ることに。 ギクシャクした険悪な家族の暮らしがスタートした。 レイのために昔弟が使っていた部屋を掃除していたモーリーが あるものを発掘した。 母の使っていたミシンだ。 一緒に出てきたはぎれに、モーリーは見覚えがあった。 まだ妹が生まれる前、母とお揃いで縫ってくれた服を着た写真を見つめるモーリー。 モーリーは、言葉が通じないのをわかっていて、ばーちゃんにあるお願いをするのだった・・・。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 荻上直子さんは、原作の人気などに頼らず、実に完成度の高い映画を創れる、今の日本では数少ない監督です。 邦画をほとんど観ない私ですが、荻上直子さんの映画は大好き。 ゆるいけど甘くない、スパイシーな優しさが溢れているのです。 もたいまさこさんが最高です。 全編通して、セリフは一言だけ、です。 彼女のような表現者も、今の日本では数少ない。 眉やくちもと、仕草だけで何もかもを伝えられる女優は、そうそういない。 孫たちが、ばーちゃんの一挙手一投足をガン見してしまうのも納得(笑 脚本にあったって、そう俳優が演じられなければ嘘になってしまう。 タバコをあんなにウマそうに吸えるお婆ちゃん俳優も、稀有でしょうね。 「洗練されてないひとが吸うものだよ」とキョドった声で言う孫に ずずずいっとタバコの箱とマッチ箱を押してよこすシーンがよかった。 日本のフツーの映画だと、あの展開<キャットフードを買いにいって慣れない町で迷子に、孫は会社を早退して大捜索>の後なら、 おどおどしたお婆ちゃんが泣きそうな声で、 「ごめんよあたしがこっちに来たばっかりに迷惑かけちゃって」とかなりそうなところ。それに孫が逆ギレ、もしくはそんなことないよ~と抱擁、みたいな安い展開になりそうです。 ばーちゃんは違う。カッコイイ。大人だ。完璧なるオトナ。 孫たちに1gもない要素、でも今後絶対学ぶべき要素、「おとな」 テーブルのポテチをどかす仕草も、テーブルに餃子を置く仕草も、素晴らしい。 お婆ちゃん、黙って相伴します。 ビールの小瓶をドンと置いて、グイっと一杯やって、タバコをふ~っ。 すげぇ。とつぶやいてしまいました。 ふっと、夫の言葉を思い出しました。 質素な食事が並ぶいつもの食卓風景。 ふっと、誰かがいるって贅沢だよな、と。 まさにそれなんです。 研究所で顕微鏡をにらんで過ごし、帰宅するとTVを見ながらロボットをいじりアニメのセリフを呟くだけの夜を過ごしてきたレイ。 静かな静かな夜更けの食卓。怒りが収まらず空腹もあり眠れないレイ。 そこへ、皮から手作りのギョウザと白いごはん。 何も言わないばーちゃんが小さなからだでドーンと構えて座っている。 すごいです。 ギョウザがいいですね。 言葉なしで孫娘に皮の伸ばしかたを教えて、みんなで楽しげにギョウザを包む。 ギョウザを見ていて、泣けてしまいました。 中身が漏れないように、ギャザーを寄せて包みますよね。 それはまさに、家族のメタファーです。 ちゃんとノリをつけて少しだけ力を入れてきちんと包むギョウザ 不器用でいろんなカタチになっちゃうギョウザ。 でも、どれもみんな美味しくて。 大切なものをこぼさないように それは、努力なしにはゆかない 時間も手間もかかるのです。 寄り添う家族のようなギョウザの皮のひだが、とても美しかった。 ミシンや、スカートも意味のある象徴ですよね。 最初、モーリーはボビンがわからず、上糸だけで、3枚の布がくっつきません。 心の離れている三兄妹そのものです。 ボビンはばーちゃんなのでしょうね。 モーリーのスカートは、母親に傍にいてほしい気持ちでしょうし 輪っかに縫われた明るい柄のスカートは 産道でもあるかのような・・・ モーリーのスカート、だんだんにパッチワークになっていきます。 いろんな個性の布を、ミシンで1つにして、それでからだを包むモーリー。 優しい優しいモーリー。 本当の優しさは強さだと、あとは時間をかけて気付いてゆけると思います。 細部細部にちりばめられた、ペーソス溢れる笑いも、とてもステキでした。 バス停の謎のおばちゃん。 「一緒にバスを待っててあげてもいいわ」 あのおばちゃんは、家に居場所がないんだよね。 ばーちゃん、足届いてなくて可愛いけど、一緒に待っててあげてるのはばーちゃんのほうだよね。 レイのインド人の同僚君もいい味だしてました。 血のつながり問題で凹むレイに、しごく当然なアドバイスをするのですが もしかして、君っていいひと?なんて言われちゃいます。 ここに大うけしてしまいました。 そう、レイは友達がいないんじゃないんです。 相手が友達であることに気付いてないんです。 自分は持ってないと思うもので、持ってるけどわかってないもの 実はけっこうあるんじゃないかしら。 そして、お金というものの価値、つかいかた。 3000ドルのいろんなものが登場します。 火災保険の補償、レアなロボットフィギュアの価格 DNA鑑定、車の修理代、そして、日本の誇る至れり尽くせりトイレ「ウォシュレット」 レイ君、他に確かにお金の使い道がないから貯金はあるんでしょうが、 とりあえず、6000ドルは自腹でしたねぇ。 ばーちゃん、もういないけど、トイレを買ったレイ。 トイレで今後、尻を洗うたびに、ばーちゃんを思い出して笑うのでしょうね。 血のつながりって、家族ってなんだろうね、と定番のおはなしですが 定番だからこそ、繰り返し語られるべきでしょう。 そもそも、夫婦は血が繋がっていないのです。 一緒にいること、暮らすことの意味をしみじみ感じました。 エピソード的には、妹リサがやや弱いのですが、 あれほどバカにしていた兄貴をバカにされてプツっとキレるの すごくよくわかりますし エアギターのくだりなんか、とてもよかったです。 夜中にTVのエアギター選手権を真顔で見つめているばーちゃん。 リサの表現したくて、溢れる情熱をどうにかしたくて でもぶつけどころがなくて・・・そんな若さ苦さを見抜いているかのような。 孫に何も言わず、ただそこにいるだけで道を拓く手助けができるスーパー婆ちゃん。 本当にかっこよかった。 いつも佇まい美しく物静かでロックな魂。そんなばーちゃんに、私もなりたいです。
「ミステリー、アラスカ」【MYSTERY, ALASKA】1999年・米(日本未公開) (WOWOW放送時は、「さぁ来いレンジャーズ」なるダサい副題がついてました) 監督:ジェイ・ローチ(オースティンパワーズシリーズ) 俳優:ラッセル・クロウ・・・ジョン ハンク・アザレア・・・チャーリー バート・レイノルズ・・・判事 メアリー・マコーマック・・・ジョンの妻、ドナ 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 今日もマイナス20度、ここはアラスカ州の小さな小さな町、ミステリー。 ここで暮らす人々の愉しみは、毎週土曜日に凍った池で行うアイスホッケーの試合、と、こっそりエッチ。 寒いし娯楽も他にない。 10人くらいしか選手はおらず、毎回くじで4人4人にわかれて試合をしている。 住人のほとんどがそれを見に来るような、そんな町全員が家族のような町。 選手は、保安官、高校生、小さな食料品店の店員、皆、食べてゆくのに精一杯な収入。 だが、老若男女、アイスホッケーこそが生甲斐だ。 ある時、大事件が。 この町をかつて棄てて都会に出ていったチャーリーが、スポーツジャーナリストとして一流スポーツ紙にこの田舎町のアイスホッケーチームをとりあげたのだ。 そして、意気揚々と故郷に錦を飾ったチャーリーは、なんとプロのチーム、 NYレンジャーズを、ここ、ミステリーに招待したというではないか! もちろん、全米生中継である。 町長はじめ、町民は期待と不安に大混乱。 田舎者をバカにしに来るのでは・・・。 アイスホッケーしかないこの町が、大差で負けたら、これから何を誇りに生きてゆけばいい? だが、血気盛んな若い選手たちのテンションの高さに、町はみるみる活気づいた。 試合に向けて準備が始まった。 だが、問題が次々に押し寄せる・・・・。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 もう、結末は予想の範囲をまったく越えないおめでたい展開なのですが、 安心して観ていられて、実に気持ちのよう優しいキモチになれるきちーんとしたラストシーンがある、いい映画なのですよ。 日本未公開作品にしてはやたらと評判がよかったのと、ラッセル・クロウが普通の冴えないひとを演じる作品を観たかったので選びました。 普段、シュールな作品ばかり好んで見ているせいか、 なんかもう新鮮。 小さな町の、温かい人間関係モノが大好物な私にはたまりません。 「ノーバディーズ・フール」なんかをちょっと思い出しました。 おめでたい展開ではあるのですが、細部、細部がとてもいいです。 田舎の寒い寒い小さな町の閉塞感。 溜まってゆくストレス、何かの、誰かのせいにしたくなる行き詰まり感。 金や新しいものは町をよくするのか悪くするのかという定番の問題。 都会のTV番組関係者の、「地元民」への蔑視。 田舎ってイイネ、なんてタテマエ。アラスカに住んでるだけでエスキモーと呼ぶ。 本物の先住民イヌイットをもバカにし、町民もド田舎もん、と見下し。 まぁ、日本でもあることでしょうな。 町民皆知り合い、女の数にも限界、実は穴兄弟だらけ、の笑えない側面。 この町では、セックスがどんだけ重要なのか、おふざけと真剣、両方の側面で語られてゆく。 仕事もない小さな町。 女にまで職の数がない。 死ぬほどつらい寒さのなか、家事、子育て、夫の世話。 夫が夜の営みを放棄したら、女は欲望のはけ口を絶対どっかに見つけちゃうわけです。 シビアな問題を、監督はユーモアたっぷりに明るく描き出していく。 ラッセル・クロウ演じる主人公夫婦の愛とわだかまり。 喧嘩の仲直りがとってもステキなんです。 新聞の人生相談のコーナーを、妻に伝えたい「単語」を残して塗りつぶす夫。 読み上げているうちにみるみる氷が解けるように優しい表情になる妻。 文章になっていないのがいいです。 「なんて美しい手紙かしら」と妻が呟く。 照れくさくて外に出た夫と追っていった妻が、スケートで追いかけっこですよ(笑) 子供が3人いるいいトシの中年夫婦が無邪気に笑って戯れる。いいじゃないですか。 ベッタベタだけど、いいじゃないですか。 バート・レイノルズ演じる厳しい父親は、高校生の娘がBFとキスするのが我慢なりません。 でも、田舎娘はカレのハートをこの町で繋いでおくにはセックスしかないと思い込んでいる。 このBFがウブでウブで、彼女のおっぱい見ただけで発射(笑 自信をなくした少年、彼女を避けてしまうんです。 女の子はそんなヲトコゴコロなんてわかりません。部屋で泣いて、ママに相談します。 泣いてる娘に何事かと詰め寄る厳格な父。 普段、絶対に夫に逆らわないような田舎のおとなしい奥さんが、 亭主関白夫に、ものすごい勢いで退かせます。カッコイイです。 コッテコテだけど、いいじゃないですか。 お約束の、誰か死んじゃうシーンも盛ってます。 太っちょの好々爺が町のために頑張りすぎて心臓発作で死んじゃいます。 葬儀の席で、ラッセル・クロウ演じる保安官が弔辞を述べます。 「息子が、なんでおじちゃんは太ってるの?と聞くと おじちゃんは、好きなひとに会うと心がすこし膨らむんだ。 この町はいいひとばっかりだから太っちゃったよ。と」的な内容です。 日本の葬式の美辞麗句だらけのクソ長い弔辞、これをパクって短くナイスなものにしましょうぜ。 アイスホッケーのルールはさっぱりですが、要するにゴールするかどうかですから いざ試合のシーンは、なんだかわからなくても勢いで楽しめます。 ベタすぎる試合結果も、いいんです、アレで。 手袋したまま町民全員の拍手、あれが、あざといけど、そんでもやっぱりイイ。 寒いってレベルじゃないのよ、零下20℃、手袋外したら凍傷、凍傷。 ドナだけ夫を想ってはずして叩く。 ブ厚い手袋でみんながばふっばふっと鳴らし続ける拍手シーン、素直によかったです。 ディズニー映画も真っ青な素直な映画ですが えっちシーン多いので、お子さんはダメです~。 しっかし、「兄妹でセックスしなくてすむ都会にあこがれる」は言いすぎかと(^_^;) でも、誰と結婚しても数代辿れば血縁者、となりがちで血が濃くなりすぎるというのは、新しい住人はやってこない狭い地域では、リアルな問題ではあるのでしょうね。。。。 そんな閉じた町から、将来のスター選手を2人、送り出して映画は終わります。 アイスホッケーが強くなる町、と全米に知られたであろうこの町、 修行に若者がたくさん来るかもしれませんねぇ。 映画の最初では、町を出るものは裏切り者だった。 ラストでは、誇らしく送り出している。 ラッセル・クロウが個人的に超好みなむっちりがっちり体型で大活躍。 おなかいっぱいになりました。 こういう、サバの味噌煮定食みたいな安心する映画、やっぱりいいですよ。 │<< 前のページへ │一覧 │ 一番上に戻る │ |
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