吹雪の如く 第3回 理事会と地区労が作っ

吹雪の如く 第3回 理事会と地区労が作った最初で最後の方針

危篤状態だった米沢生協

 米沢生協の多田専務が殉職したのが1975年10月25日であった。多田専務の死去は、同時に米沢生協の倒産を意味していた。それは理事会も事務局もこの多田専務におんぶにだっこであることを露呈する結果となった。
当時の米沢生協の状態はどうだったのか?当時の資料を紐解いてみる。

 1975年の米沢生協の事業規模は次のとおりである。
組合員数2,954人
事業高/26,025,320円
(店舗21,999,806円/信販4,176,400円/値引き・戻り高-150,886円)
供給総利益/2,585,694円粗利益率9.9%
総経費/6,318,753円
当期未処分欠損金/8,274,674円
繰越欠損金/5,268,439円
欠損合計13,453,113円
組合員出資金5,807,950円
長期借入金2,336,000円
流動資産1,896,692円に対し流動負債が
7,653,422円という危篤事態であった。


金庫

解散を決めた理事会、再建を勧めた山形県生協連

 米沢生協理事会は「解散を決めた」。当時の地区労(米沢地区労働者協議会)小林太平議長も解散を支持した。
 が、山形県生協連(山形県生活協同組合連合会)は再建を勧めた。
 米沢生協以外の県連メンバーは、米沢の事業規模とこの程度の負債額で組織を解散するとはあまりに軽率であり、常識でも考えられないことだった。また、社会的にも許せるはずがない。取引関係からしても(店舗運営だけに数多く)1社当たりの取引量が少額だったことが救いであった。
 県連と労働金庫米沢支店長は理事会を励ましながら、機能しない理事会に再建
「事業形態は、生鮮3部門を廃止し、COOP商品を中心に共同購入を計り」
「今日の事態を迎えた大きな原因の一つに、組織体制の弱体化にあって、組合を通じて生協があるといった勤労者生協的体質が主流をなしていて、地域との結び付きが希薄であった。しかも日常的に生協を利用している組合は、理事出身単産か、ごく限られた一部の組合にすぎない。…略…生協運動の基本は、あくまで“地域家庭班”作りにありますが、当面は組織労働者を総結集させながら、力量を高め、家庭班作りの基礎を築きたいとおもいます。」案を迫った。
 この時にもう一つの不幸な事故が起きるところだった。
 労金支店長が倒れたのである。それは理事たちと対策を練っている席上だった。会議会場が佐藤理事長宅の離れであったために、理事長の妻の佐藤ツゲさんの機転の利いた対応で一命を取り止めた。
 支店長と多田専務は同志を越えた関係にあり、常に多田専務を支えていた。酷い経営であっても350万円の長期借入金をすることができたのは、この関係があったからだ。

 当時の理事会と地区労が作成した「米沢生協再建3カ年計画」は、現在までの米沢生協基本方針を打ち出した画期的なものであった。
 この方針が職域米沢生協の理事会と地区労が作った最初で最後の方針でもあった。
 1976年(昭和51年)2月から新体制のもとで、家庭班作りを始めることになる。

つづく


 次回は12月3日に更新予定です。お楽しみに。


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