第15回 早坂茂三さんの遺言 その8「ご学友も井上くんも遠慮しないで、何でもいいから訊きなさい」と相澤嘉久治さんが場を保とうとしてくれます。 そうは言うものの、あの早坂茂三さん、この巨体に大きな声、そしてこの迫力に私たちは小さくなっているのでした。 しびれをきらしたように早坂さんが口火をきりました。 「ご学友のニ・イ・セ・キさん?」と早坂さんは先ほど受け取った名刺を見ながら、目を細めて苗字を確認するのでした。 「ニイ・ゼ・キです」と応える新関さんに、 「日中友好協会とはどんなお仕事かなあ?」と質問をする早坂さんでした。 新関さんは彼がこの20年間余取り組んできた日中友好協会の活動を説明しました。 「私はね、日中友好協会の方々が本当の意味で中国をどう理解され、この日本とどういう関係を持ちたいのかそのビジョンを知りたいのだが?」と早坂さんが言うと、新関さんは「うううん……」と唸りました。 「今日の中国の歴史はたいへんなものだった。私はね、毛沢東から大きな影響を受けた世代だ。嘉久治さんもそうだ。なあ」 「そうでした。エドガー・スノーの『中国の赤い星』。それから毛沢東の『実践論・矛盾論』」 「ご学友は読んだことはあるかい? 私たちはこの本の影響は大きかった」 「いえ、ありません」とご学友が答えました。 (ちょっと待て。ほんとうは読んでいるはずだ。これらの本は私たち世代までが知っている。影響を受けたかどうかは別として……) 「日中友好協会の人たちは毛沢東(著書)も読まない人が多い。それでよく中国を語ることができるものだといつも思っているんだよ」と残念そうに話す早坂さんでした。 頭を上げてタバコの煙をフーッとはきました。メガネを上げながら早坂さんはこう言いました。 「私はね、大学時代からの夢を1972年、昭和47年に親父の力で実現させた。それが日中国交化の実現だ!!!」 2004年9月12日記 参考文献 「中国の赤い星」 米国のジャーナリスト、エドガー・スノー著 1936年、若き毛沢東にひきいられた中国紅軍は、1年にわたる長征を終えたばかりだった。この時スノーは、外国人ジャーナリストとしてただ一人中国北西部の紅区に入り、4カ月間かれらと生活を共にし対話した。新しい中国を築こうとする人びとのありのままの姿を行き届いた理解にもとづいて記録した本書は、指導者から無名の少年まで、かれらの言葉と行為を世界にはじめて紹介するものとなった。 上巻でスノーは、封鎖を越えて赤い首都保安にたどり着き、毛沢東に会う。 時間をかけた会見記はそのまま毛の半生の自伝となっている。 また、次つぎと登場する人物たちの描写は、いまも新鮮さを失っていない。 (ブックス紀伊國屋より) |