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カテゴリ:Movie
<きのうから続く>
足を撃たれたパトリスをひきずるようにして、リオネルはなんとか妹のいる島へ戻ってくる。漁師小屋に寝かされるパトリス。応急手当をしなかったこと、汚れた池の中を逃げたことから、傷口が悪化、高熱が出て危険な状態に。 パトリスは熱にうなされながら、リオネルにしがみつき、必死に懇願する。 「リオネル、お願いだ。ナタリーに会いたい」 「会えるよ」 「いや、僕は死ぬ」 「ばかを言うな」 「死ぬ前に一度だけナタリーに会いたい」 城のナタリーのことしか考えていないパトリス。パトリスの悲劇に寄り添い、ひたすらかしずいているリオネル。そんな2人を妹ナタリーがじっと外から見詰めている。 パトリスは、たった1つの名を狂おしげに呼び続けている。 「ナタリー、ナタリー」 ヒロインの名、ナタリーには、実はコクトーの個人的なロマンスの思い出が込められている。 1932年、つまりマレーと出会う5年前、コクトーは1人の貴婦人と恋に落ちている。彼女の名はナタリー・パレ。父はロシア皇帝アレクサンドル3世の末の弟、つまり彼女にはロマノフ王朝の血が流れていた。コクトーがナタリーと出会ったとき、彼女はすでに著名なデザイナー、ルロンの妻だった。彼女はコクトーの子を宿すが、スイスで堕胎。このことがコクトーにはひどくショックだった。 コクトーの『占領下日記』には、『悲恋(永劫回帰)』の脚本を執筆中に、ナタリーのことを思い出している様子が書かれている。 「1942年3月31日 ナタリーとぼくの間の子供のことを考えている。生きていればあの子は10歳。産んでおくべきだったのだ(ルロンのもとで育てても)」「ナタリーの妊娠を知ったときのあの喜び。ナタリーが夫に告白してしまい、ルロンが子供を引き取ることを望んだときのぼくの苦悩。彼女が子供をおろしてしまったときのぼくの怒り。ぼくはあのときサン・マンドリエ(注:ツーロンの近く)にいた。彼女はジャン・デボルド(注:コクトーがラディゲに続いて支援した作家)宛ての手紙で、私生児は生めないし、ジャン・コクトーとロマノフの混血を恐れるといっていた」「もしあの子が生きていて、ルロンのところにいたならと、その情景や出会いなどを今も想像している」 コクトーはロマノフ王朝の血を引く自分の子供が欲しかったのだ。だが、ナタリーはそれが嫌だといって子供をおろしてしまった。不倫の関係に残酷なピリオドをうった元恋人の名前を、コクトーは瀕死のパトリス(つまりマレー)に何度も叫ばせたのだ。 『悲恋(永劫回帰)』の中のナタリーは2人。1人は熱愛される運命の女性、もう1人はかえりみられない女性だ。この世には選ばれる者と選ばれない者がいる。それが残酷な真実だ。妹ナタリーは、選ばれない者たちの悲哀を代表している。 最初にパトリスと出会ったとき、妹ナタリーは相当にスレた感じだった。兄の連れてきたハンサムな若者を、まるで獲物を狙う猫科の動物のように露骨にジロジロ見て、パトリスをたじろがせている。彼女も一目でパトリスに魅了されていたのだ。 だが、島で真実を知ったとき、彼女は悟る。 「パトリスと私とは、住む世界が違っている」 そう、パトリスは何かしら、この世のものならざる特別な存在なのだ。その証拠のように、「パトリスを殴る」と言っていた兄も、あっという間にパトリスに篭絡され、言いなりに行動するようになってしまった。 瀕死のパトリスがリオネルに、城のナタリーを連れてきてくれるよう懇願するシーンは、もはやほとんどラブシーン。横たわったパトリスの言葉を深い哀しみを湛えた面持ちで受け止めるリオネル。ときおりいとおしそうに顔を撫でたり、手を握り締めたりする。 このシーンのリオネル役のトゥータンについては、撮影現場に合流していたコクトーも占領下日記で言及している。 「トゥータンの態度は意味深い。彼はジャノが大好きだ」「本番の合い間にも、彼(=トゥータン)は親しそうにジャノの方に体をかがめ、役のリハーサルを続けていた。だから今朝のあのスクリーンでも、彼の表情は沈痛で、美しかったのだ」 トゥータンの意味深なリハーサル(?)のおかげで、このシーンは本当に 「お願いだ。城へ行ってナタリーを連れてきてくれ。僕が危篤だと言って。伯父さんも一緒に。きっと来るから」 「わかった、行ってくるよ」 「ナタリーを連れてこれたら、舟に白いスカーフをかかげてくれ。遠くからでもわかるように」 「白いスカーフだね。そうするよ」 リオネルが漁師小屋の外に出ると、そこには完全に蚊帳の外におかれた妹ナタリーが立っていた。 「あとは頼む。城に行ってくる」 「いつ戻るの」 ナタリーの声は冷たい。 「わからない。伯父さんの説得に時間がかかるかも」 「確かにね」 ナタリーは相変わらず冷たい。リオネルは落ち着かない様子で、妹の頬に言い訳がましいキスをして立ち去る。 兄がいなくなり、パトリスを見守るナタリー。パトリスは舟が来るのをひたすら待っている。 「海を」「海を見ろ」「舟は来たか」 このあたりの台詞は完全に「コクトーの詩」の世界になる。 「まだよ」「舟は来ないわ」「何も見えない」 冷えた声でナタリーが呼応する。 「瀕死のパトリス」のマレーの演技の素晴らしさについては、コクトー以上にうまく表現できる人がいるとは思えない。 では、コクトー先生、どうぞ。 「あまりに宗教的で、あまりに荒々しく、感動的」「ぼくは俗世界のあらゆる憎悪や愚劣を忘れていた」「汗まみれで、ジャノは苦しみ、また苦しみを繰り返していた。いったい他のどんな俳優にこんな離れ業ができるだろうか? またぼくでさえこんな彼は初めて見たが、彼は魂の限界までを発散させていた」(コクトー『占領下日記』より) マレー自身もこの「死の場面」にもっとも力を入れていた。 「ひたすら役の求める肉体的苦痛を身内に感じ取れる日を目指すこと。そのためには精神的苦痛を体験することだ――少なくともそう考えていた。私は最後のシーンで、真実、瀕死の状態になることを夢見ていた」(マレー自伝より) ジャン・マレーの演技はときにレリーフのように浮き上がる。今日的なさりげない名演ではないかもしれないが、自身をこの世ならざる存在に昇華していくという、誰にも真似できない「離れ業」ができる俳優であることは確かだ。コクトーは誰よりもそれを理解していたし、その才能に魅了されていた。 そのパトリスのそばで妹ナタリーは、いかにも俗世間の人間らしい憎しみから自由になれずにいる。やがて舟のエンジン音が聞こえる。舟をじっと凝視するナタリー。白いスカーフがはためいているのが見えた。 「白いスカーフはあるか?」 最後の力を振り絞って身体を起こすパトリス。 「いいえ、白いスカーフはないわ」 低く抑えた声でナタリーは、パトリスに復讐する。 「もう一度見てくれ」 「ないわ! いつもの赤い旗よ」 良心に抗うように高い声でナタリーが否定した瞬間、パトリスは力尽きでぐったりと倒れる。 その姿がナタリーに復讐を放棄させる。パトリスの名を呼びながら、駆け寄り、すがりつきながら告白する。 「嘘よ。白いスカーフはあるわ」 泣きじゃくるナタリーには、最初のスレたイメージも、さきほどまでの冷酷なイメージもない。ただ、限りない純粋さがある。 その言葉を聞いたパトリスの最後の言葉は、トリスタンの有名な台詞から来ている。 「これ以上は、ぼくの命を保てない」(字幕は「間に合わなかった。残念だ」になっていた) そして、その台詞をつぶやくと…… 「たちまち彼の表情はすべての線が、固定され、弛緩し、深く刻みこまれ、伸び、そしてあたかも荘厳な旅立ちのように沖に出て行くのだ」(コクトー『占領下日記』よい) この生から死への旅立ちのシーンは、まさに禍々しいまでに神々しい。 監督のドラノワ(1943年)「これほどすばらしい死の場面は、今まで見たことがない」 観客のMizumizu(2008年)「同感です。私も見たことがありません」 ついでに言うと、1943年のフランス映画を2008年の日本で観ることができ、しかもそれが素晴らしい作品で、さらに「このシーンはすごい!」と思った部分について、調べてみるとやはり制作者サイドが最も気持ちを込めて撮ったシーンであることがわかり、脚本家・監督・俳優すべてのコメントが読めるということに感動してしまう。奇跡的なことではないだろうか? <明日へ続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.05.12 00:40:58
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