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<きのうから続く>
ジョルジュとの関係には、すでに猜疑心が入り込んでしまった。黴菌のような猜疑心に侵された愛は、もう2度と純粋状態には戻らない、黴菌は繁殖し、他の大切な誰かまで侵蝕してしまう――マレーは再び、哀しい思いで理解した。 マドレーヌ――皮肉な名前だった。それは、自分が生まれる数日前に死んだ姉の名前だった。コクトーとの最初の愛の巣のあった広場の名前だった。コクトーが書き下ろし、最初の栄光をつかんだ戯曲『恐るべき親たち』の相手役のヒロインの名前だった。しかも皮肉なことに、『恐るべき親たち』ではマレー演じる主人公の父親「ジョルジュ」とマドレーヌが関係をもっているという筋書きだった。 思えば、マドレーヌ・ロバンソンは、昔から微妙にライバルだったかもしれない。2人の演劇の師のシャルル・デュランは、マドレーヌのほうを重用した。マレーは自分も認めてもらおうと、熱心に稽古に励んだ。プロになってからも、2人は競争心が嫉妬や憎悪に変わるのを慎重に避けながら、互いに刺激し合い、高め合う努力を重ねた。 そんなマレーの思いをまるで見通したように、マドレーヌはふいに話を変えた。 「ねえ、ジャノ。憶えてる? あなたが、最初にジャン・コクトーの『地獄の機械』を見たときのこと」 「?」 「あなたったら、教室のみんなに、ジャン・コクトーは素晴らしい、ジャン・コクトーがどこに住んでいるか知らないかって、聞いて回っていたわね」 「えっ?」 ――そんなこと、なんで憶えているんだ? 「そうだった?」 「そうよ。で、誰かが答えたわ。『どこに住んでるかは知らないけど、男と一緒に住んでることは間違いない』って。そしたら、周りがドッと笑って、あなただけキョトンとして…… それから、あなたったら真っ赤になってた」 「おい、マドレーヌ! なんで、そんなぼくの恥ずかしい話を、君は忘れてくれないの」 「あんまり可愛かったからよ。あんな純情青年は、探したってそうは見つからないわ」 「まったく女性は怖いね――あのころのぼくは、全然誰とも交際できなかったんだよ、ロザリーの監視が厳しくてね。君みたいに自由じゃなかった」 「ところが、それから何年かしたら、あなたがジャン・コクトーと暮らしてたわ。あのころのあなたは、本当に幸せそうで、見ていてまぶしかった」 「完璧に、幸せだったよ」 マドレーヌ広場19番地――戦争でモンパンシエ通りへの転居を余儀なくされるまで、そこでマレーはコクトーと暮らした。2人の部屋を1枚の扉が隔てていた。その下に、毎晩のようにコクトーは、薄い便箋に書いた詩を滑り込ませた。朝起きるとまず、生まれたての詩を読むのがマレーの日課だった。便箋はいろいろな形――ときには、星の形――に折られていた。詩は美しく、マレーは美しさのほかには、そこに幸福しか読み取らなかった。コクトーの詩は幸福とともに、マレーに幸運を運んできた。そして、マレーは幸運を連れて、コクトーを起こしに行くのだった。 「私は幸せなあなたを見るのが好きなの」 と、マドレーヌ。 「このごろのあなたは、参っているわね。そうじゃない?」 「それは…… いろいろあったからさ――」 「でも、あなたはまたきっと輝き出すわ。あなたは並外れて幸運な人。自分でそう言ってたわね」 「うん……」 「私もそれを信じてる。――それと、誤解しないでね。私がジョルジュを愛するのは、あなたがジョルジュを愛してるからなのよ」 「マドレーヌ、ぼくは…… ぼくは、確かにジョルジュを愛しているよ。彼はきれいごとだと言うかもしれないけど、本当に、心から彼の幸せを願っている。だって、愛するっていうのは、そういうことじゃないか? 愛する人の幸せが、たとえ自分の人生の外にあるとしてもね。――君は、君の伴侶と別れたとき、何を思った? 2人の不幸なカップルでいるより、1人でいたほうが幸せだと、そうは思わなかったかい?」 「それは――確かに、そうね……」 「パンドラの箱が開いてしまったら、人はもう嫉妬や独占欲や猜疑心から逃れられない。自己弁護したり、相手を非難したり…… いがみ合いの後は、まっさかさまに不幸のどん底に堕ちるだけだ」 「でも、若いジョルジュにそれをすんなり理解しろというのは、酷な話かも」 「マドレーヌ……やっぱり、君は…… 悪いのはぼくってことか」 「そうじゃないわ。そうじゃなくて…… 若いころは、誰でも嫉妬で相手の愛を量ろうとするものよ。違う? あなたは、あなたを愛した人に対して、わざとヤキモチを焼かせたり、怒らせるようなことを言ったりしたりして、自分への愛を試したことはないと、断言できる?」 またも痛いところをつかれて、マレーは黙り込んだ。マドレーヌは確かに、コクトーと自分の生活を間近に見ていたのだ。 「だから、ねぇ、ジャノ…… 聖マドレーヌの日じゃなくても、たとえ夜遅くでも、あなたがうちにまた電話してくれると嬉しいわ。もちろん、あなた次第だけれど。――パンドラの箱に最後に残ったのは、『希望』じゃなかった?」 マドレーヌはそう言うと立ち上がり、マレーを抱きしめた。愛情のこもった抱擁に、ムスクの香水の匂いが入り混じった。それはどちらかというとマニッシュな、成熟した大人の香りで、彼らがつかず離れず過ごした年月の長さを教えてくれた。 「マドレーヌ、君は素敵だ――」 マレーは思わず言った。 マドレーヌはマレーの瞳を覗き込み、微笑みを浮かべて、 「あなたも」 と言った。 マレーはマドレーヌの肩を抱き、門まで送った。 また一緒に舞台をやりましょうよと、別れ際にマドレーヌは言った。 夏は過ぎていった。 マドレーヌの家には電話をしなかった。ジョルジュからも連絡は来なかった。それでいてマレーは内心、ジョルジュと和解する希望を捨てきれずにいた。 ――ずっと愛していた。フランスに来てからずっと。ぼくは君だけを愛してた。 あのとき、腕に抱いたジョルジュの身体の温もり。その記憶がマレーをいっそう苦しめた。マレーは甘い夢想の中に逃げ込もうとした。だがそれも、残忍な堕天使ルシファーの登場を告げるファンファーレに切り裂かれて終わるのだった。 <続く> 「完璧に幸せだった」時代のジャン・コクトー(左)とジャン・マレー(2006年発売のDVD "Jean Marais : le mal rouge et or" より) こちらは最晩年のジャン・マレー。舞台の楽屋でのインタビュー。 80歳を超えるまで舞台に立ったマレーだったが、最後まで楽屋に飾っていたのは、このもはやマレーの息子にように見える、2人が「完璧に幸せだった」時代のコクトー お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.08.21 05:25:06
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