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カテゴリ:Movie(フェデリコ・フェリーニ)
抑圧されたセクシャリティというのは、ヨーロッパ映画ではしばしば取り上げられるテーマだが、そもそも「(大多数の)人と違う」セクシャリティをもった人々が、それを隠して生きなければならなくなったのは、キリスト教的価値観がヨーロッパ世界を支配したため。キリスト教では、生殖目的以外のセックスは罪だとみなした。ある意味、イエス・キリストは性の弾圧者の1人なのだ。
キリスト教国はこの価値観を、武力をもって、植民地政策とともに世界中の国々に押しつけた。比較的自由でいられたのは、アジアでは日本やタイなど、欧米列強の毒牙にかからなかった国だが、そうした国でも「進んだ国」からの干渉は免れえなかった。今もキリスト教徒は自分たちとは違ったモラルに生きる人々を後進的だど決めつけ、直接的、あるいは間接的な洗脳運動に余念がない。 『サテリコン』は、こうした「キリスト教的な性のモラル」が生まれる前のローマが舞台。予告でのこのキャッチコピーがすべてを物語っている。 一般に『サテリコン』は、古代ローマの退廃と堕落を現在社会になぞらえて風刺したものと解釈される。たしかに「まじめ」に考えればそうかもしれない。だが、この映画を見る限り、フェリーニはキリスト教的なモラルのない世界を、ある程度の共感をもって、楽しみながら再現しているように思うのだ。なぜなら、この映画、相当「おかしい」のだ。相当「笑える」のだ。批判精神だけで、こんなにどっぷりと、こんなに情熱をもって古代ローマの世界を再生できるものではない。監督はこの時代のこの雰囲気が、「好き」なのに違いない。 『サテリコン』は難解だ、という人がいる。確かに筋はハチャメチャだし、本筋と関係のない独立したエピソードが突然入り込んできたり、マジに理解しようとすれば難解かもしれない。 だが、この映画は映像の移り変わりを見てるだけで楽しめる。理解しようとすると苦行になってしまうかもしれないが、あたかも夢に身を任せるごとく、フェリーニの世界に「付き合う」ことができれば、これほど楽しい映画はない。 『サテリコン』の制作は1969年。ヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』とかぶってくる。1970年代に入るとヨーロッパ映画は不安定で緊張した社会情勢を反映するように、個人の精神の破壊を描いた退廃的なものが増える。イタリア映画もその一翼を担うが、フェリーニは、一方にパゾリーニの世界、他方にヴィスコンティの世界を見ながら、やじろべいのように双方に揺れ、しかもパソリーニにもヴィスコンティにもない微笑みを浮かべて、みずからの均衡を保っているような気がする。 たしかに『サテリコン』は隠微で退廃的だ。グロテスクでもある。だが、それでいて、やっぱりこの作品、相当のコメディであることも確かなのだ。 物語は、壁画の描かれた壁に向かって1人で叫んでいるブロンドの美青年の姿から始まる。この台詞と情景はエンディングとぴったり呼応することになる。 主役を演じているのはマーティン・ポッター。全然知らない役者で、どんな映画に出てるのかな、と思って調べてみたら、実写版『ベルサイユのばら』のジェローデル役をやっていたそうで…… へ~X3。 とにかくこのイケメンのブロンド君、「アシルト」という男にむちゃくちゃ腹を立てている。よくよく聞いてみると、ブロンド君が所有し、かつ寵愛しているジトーネをアシルトが奪ったらしい。 この黒髪の青年がアシルト。ブロンド君の愛人ジトーネと甘い一夜を過ごし、そのあと売り飛ばしてやったのだという。 いつも思うことなのだが、『ルー・サロメ』にしろ、この『サテリコン』にしろ、もともと役者は口パク状態で、イタリア語を話していない。原語版からしてすでに吹き替えなのだ。 なのに、なんで日本では常に字幕なんだろう? 字幕は文字制限があるから、どうしても情報が足りなくなる。たとえば、この場面、「拒んだ理由」は日本語では説明されていないのだが、イタリア語では、"Forse voleva dormire(たぶんジトーネは眠かったんだろう)"と言っている。つまり、拒んだ理由は、黒髪君がイヤだったとかブロンド君のことを考えていたとか、そういう深い理由ではなく、単にジトーネが眠かったからなのだ。 こういうふうに、少しずつ少しずつ本来の意味が欠けていってしまうのが字幕の欠点だ。日本語で吹き替えしてしまえば、しゃべる速度はもっと速いので、より詳しく台詞を訳せるはずだ。 役者がイタリア語をしゃべっていない映画まで字幕にこだわっていたというのが、よくわからない。字幕を見ていると、せっかくの映像を見逃してしまう。 さて、イケメンのブロンド君ご執心のジトーネというのが、これ↓ チョイおばちゃんが入っている美(??)少年。 ブロンド君は黒髪君を呼び出して、腕づくで美(??)少年君の行方を聞きだし、連れ戻すのだが、せっかく2人になったところに、また黒髪君がやってくる。 でもってブロンド君は…… って……。友達だったんかい!? そうは見えなかったが(実はこの2人の「恋敵」は、最後まで「友達」なのだ)。 ブロンド君と黒髪君は実は一緒に暮らしていたらしく(そうだったの!?)、「別々の道を行こう」と離婚する夫婦のように物を分配しはじめる。でもって、黒髪君の言うことにゃ…… とうことで、ジトーネにどちらと一緒に行くか選ばせる。 すると、売られた自分を連れ戻してくれたブロンド君ではなく、自分を奪ったあげく売り飛ばした黒髪君を選ぶジトーネ。 2人はじゃれあいながら、楽しげに去ってしまい…… ものすご~~くガッカリするブロンド君。よしよし。 このあとブロンド君は2人に殺意を覚えるのだが、地震が来てそれどころではなくなる。 話はかわって、金持ちの晩餐に参加するブロンド君。なぜそ~なるのかは、あまり追求せずに観よう。これは、あなたが夜見る夢のように展開していく物語なのだから。 カネにあかせたグロテスクな食事シーンはまさに現代社会への風刺。ご相伴にあずかっている男のこの台詞など…… まるで今の日本人のことを言っているよう。生の実感がないまま浮遊する人々。そのたよりない感覚に身をゆだねて、短絡的にエロティックな行動に走る姿を、フェリーニのローマ世界はあますところなく映し出す。 <続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.10.23 21:05:11
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