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浅田真央選手のコーチに就任したことで、ようやく日本人にも認知されはじめたタチアナ・タラソワ。だが、むしろ彼女は過去の伝説の名コーチで、ここ数年は半ば引退状態だったのだ。
タラソワがどれほど素晴らしいコーチであるかについては、すでに去年から何度も何度も書いてきたので、繰り返す気はない。これも真っ先に書いたことだが、昨シーズンのタラソワ振り付けの浅田選手のショートプログラムを最初に見たときは感動した。気品あふれるタラソワ・ワールドをあれほど見事に表現できる選手は、女子シングルでは浅田選手をおいて他にはいないだろう。 伊藤みどりは、昨シーズン1人で戦って結果を残した後輩に、尊敬の気持ちをこめて、「マオちゃんには、コーチ要らないんじゃないですか」と発言した。 確かに、女子ではこれまでほんの数人しか成功していないトリプルアクセルという大技をジュニア時代から習得し、それでいて表現力も高く、スタイル抜群で見た目も美しい浅田真央という、めったに出ない大天才にふさわしい「格」をもったコーチはなかなか思いつかない。やはり答えは「タラソワ」にならざるをえないかもしれない。日本を離れて、アルトゥニアンにつけてしまったのは大失敗だった。「ステップからのトリプルアクセル」で浅田選手の歯車が狂い出したのだ。あの1年のトリプルアクセルの迷走は、今から考えてもとてつもなく痛い。 タラソワの凄さ、それは選手を短期間で大変身させてしまうことだ。たとえば、バーバラ・フーザル=ポリ&マウリツィオ・マルガリオのイタリア人アイスダンスペア。このペアはタラソワにつく前は、世界選手権で5位あたりをウロウロしてるカップルで、明るいラテンのノリのよさが持ち味だった。タラソワは彼らを、得意の重厚でドラマチックな表現のできる大人の男女に変身させた。どちらかというと暗めで、凄みのある振り付けは意表をつき、フーザル=ポリ&マルガリオのイメージは完全に覆された。もちろん、「これまで誰も見たことのないフーザル=ポリ&マルガリオ」の世界はジャッジから高く評価された。そして、この「どうもいつもいま一歩」だったカップルは、あっという間に世界チャンピオンに駆け上がったのだ。 ソルトレーク・オリンピックを翌年に控えていたので、当然タラソワにコーチングを依頼するのだろうと思っていたのだが、なぜかオリンピックのキス&クライにあのゴージャスな毛皮のマリー……いや、タラソワの姿はなかった。師弟関係を解消した理由は知らないのだが、とにかく、世界チャンピオンのフーザル=ポリ&マルガリオは、以前の「ラテン、チャチャチャ」の軽く明るい振り付けに回帰し、オリンピックでは3位に沈んだ。 荒川静香が世界選手権を制覇したときの驚きも忘れられない。トリノで金を獲ったことで、あたかも荒川選手は、常に世界のトップにいた選手であるかのように錯覚している人も多いが、実際には、荒川選手は国際大会どころか、国内の大会ですらほとんど勝ったことがない。世界チャンピオンになった数ヶ月前の全日本では3位。世界選手権に行けるかどうかもギリギリの状態だったのだ。 タラソワは当時サーシャ・コーエンを教えていたのだが、短期間で結果が出ないことに苛立ったコーエンサイドがタラソワとの契約を解除した。そこに素早く荒川選手をねじ込んだのが、スケート連盟の「女帝」と言われ、のちに久永氏の不正会計問題にからんで騒がれたあの人だ。 荒川選手が世界チャンピオンになったのは、そのときのジャンプの調子が抜群によかったこともあるが、なんといっても表現力が飛躍的に進歩していた。今は「クール・ビューティ」と言われている荒川選手だが、10代のころさかんに言われていたのは、「笑顔がなく、表情に乏しい」ということ。フリーの長丁場になると、だんだん顔から表情がなくなり、まるで能面が滑っているようになってしまう。長野オリンピックのフリーでは、かわいらしい彼女のルックスにふさわしい――と振付師が思ったのだろう――夢見る少女のような可憐な振り付けがされたのだが、これがさっぱりしーちゃんの個性に合わず、表現力の未熟さばかりが目立った。同世代にクワンもいて、10代のころは逆立ちしたってクワンにはかなわない印象だったのだ。実際、長野ではクワンは優勝候補だったが、ほぼ同世代のしーちゃんは目標が10位。だが、フリーの最後にジャンプでコケる当時の「荒川静香のお約束」を見事に果たしてしまい、結局目標の順位にはほど遠い結果。とてもとても世界チャンピオンまで行くなんて、誰も想像もしていなかったのだ。 だが、そのパッとしなかった荒川静香が、「あれ? しーちゃん、まだやってたの、スケート? 大学卒業まで?」状態だった荒川静香が、タラソワについたとたん、氷のようでありながら、心に情熱を秘めた高貴なお姫様になりきってみせたのだ。そこにいたるまで、荒川選手自身が、さまざまな苦難を乗り越えて精神的に成熟したというのもあったのだろうが、ドルトムントでのしーちゃんは、ジャンプも完璧だったが、表現力が圧倒的だった。顔の表情や腕の動かし方が以前の彼女とはまったく違った。もともと長身だから、その世界に入り込んでダイナミックな表現ができれば迫力がある。 あのころの世界選手権の放送は本当に地味だった(苦笑)。しーちゃんが優勝しても(決まったのは日本時間で夜中か未明かだったと思う)、ブログはまだなかったし、喜んで祝福していたのは「2ちゃんねらー」ぐらい(再苦笑)。メディアもそれほど注目しなかった。世界相手に戦うフィギュアより、国内の高校生がやる野球のほうがスポーツ紙の扱いが大きいような状況だったのだ。 このタラソワマジックには舌を巻くしかないのだが、タラソワが世界一のコーチとして文字通りフィギュア界に君臨していたのは、あくまで旧採点システムの時代なのだ。タラソワのプログラムの特長は、今季の浅田選手の『仮面舞踏会』に見るように、要素と要素の間の表現密度を異様なほど濃くして、芸術性を高めることにある。 一方、エレメンツの出来を1つ1つ点数にしていく新採点システム――しかも今年からはよりその傾向が高まり、ちょっとしたミスで厳しく減点される――では、タラソワスタイルは選手には過重な負担を強いる。昨シーズンのタラソワ振り付けの浅田選手のショートプログラムは、冒頭から回転動作や凝った振りが入っている難しいものだった。ジャンプが不調だった浅田選手は、シーズン途中から冒頭の振りを全部すっとばして省略した。するとジャンプに集中できたようで、だんだんジャンプがよくなり、点数は上がった。だが、その結果、キム選手同様、ジャンプまでは、ほとんどただ滑っているだけの平板なプログラムになってしまった。ルッツにからめた回転動作も段々に回数を減らし、スピードを落としていた。だが、そうやってタラソワオリジナルを簡略化することで、点数に直結するエレメンツに注力したほうが、結果はよかったのだ。もちろん、ジャンプをすべて決めたうえで、振りも省略しないですめば完璧だが、浅田選手の実力ではそれは不可能だったということだ。 旧採点システムでは、着氷がちょっとツーフット気味でも、少しばかり回転不足でも、誰も気にしなかった。それよりは全体の密度や完成度が重要だったのだ。ところが今は、中野選手がスタンディングオベーションを受ける演技を披露しても、明らかなミスのあった選手に負けてしまう。成功させたように見えたトリプルアクセルが、実は回転不足判定でダウングレードされ、GOEでも減点され、ほとんど点にならなかった。武器のはずの大技が――一般人には決めたように見えた場合ですら――しばしば足をひっぱってしまうのが、現行の採点システムなのだ。 タラソワスタイルは、旧採点システムでは抜群の評価を得てきた。だが、新採点システムでは? それは未知数だ。しかも、浅田選手の「お約束」(セカンドジャンプの回転不足、着氷時のツーフット)には、まるで狙い撃ちをしたかのような苛烈な減点が待っている。おまけにタラソワは高齢だ。言われているほど体調は悪くなさそうに見えるが、絶頂期のタラソワとまったく同じというわけにはいかないだろう。 もう1つ、タラソワという人は多くの名選手を育てたが、案外ロシア人以外とは長続きしない。オリンピックチャンピオンまでもっていった選手は、いずれもロシア(旧ソ連)の選手だ。コーエン選手は短期間ついただけだったし、荒川選手も結局はタラソワより、直接氷の上で教えてもらえるモロゾフを選んだ。タラソワ自身が非常にのめりこんで教えた選手はすべて、同じ文化背景をもち、言葉の通じる旧ソ連の選手なのだ。 浅田選手が練習するなら、今のロシアよりも日本のほうが環境も設備もいいだろう。一方、高齢のタラソワがロシアを離れて日本で暮らすなんて無理な話だ。言葉も通じないから通訳を介さないといけない。だから、浅田&タラソワの師弟関係は、どうしてもかつてのヤグディンやクーリックのような親密さや緊密さが築きにくい。 <文字数制限をオーバーしたので、続きは明日> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.11.27 06:56:34
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