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月のひかり★の部屋

月のひかり★の部屋

小説4 幻想即興曲(2)

幻想即興曲 (2)  2003.7.03.5.21


             
(7)


毎週月曜日のナンバの教会で行われているコーラスの集まりに私は欠かさず参加するようになった.またあの日のように電車に乗っている時などに,ふと五十嵐幻に会えるかもしれないという希望があったし,勿論歌うことがもともと大好きだったから・・
そして,私の希望(祈り)は実によく叶えられた.
 祈りが聞かれると言うこと,それは神が約束して下さっているので当然のことなのだが,普通の人間の常識とか感性というもので考えるとやはりこの上もなく不思議なことであるに違いないし,勿論私にとっても同様であった.
 少年に会いたいが会えず,その為に憂鬱な気分に閉じ込められるということはあの電車に乗っていた時の不思議な体験以後もやはり私にはしばしばあったが,それはもしかすると私の心が先に憂鬱に支配されていて,少年に会えればそれが解消されると言うことが既に判っているので,それ故どうしても少年に会いたくなるという順序であったのかもしれない.しかしそれは〔鶏が先か卵が先か〕と同じくらい無意味なことを考えることになるので,この際はどちらでも良いことにする.
 サウロ王は少年ダビデに会うと心が晴れたと旧約聖書に書かれている.竹取りの翁と媼もかぐや姫が家の中にいるだけで気分が明るくなったと竹取物語に書かれている.だから私が少年に会いたがるのも,とりわけ珍しいことでは無く他にもよくある話なのかもしれない.
 しかし,そんな風に思っている矢先に,テレビを見ていたら動物園のキリンが隣に住んでいる象に恋をしてしまったらしく,境界線の柵のところにぴったりと体を寄せて長い首を振りながら象の方を見ては何とかもっと近くに行きたいと言う態度をしきりに示していた.また,サルの飼育係りの男性に雌ザルが恋をして,他のサルがその人に近づこうとすると,牙をむき出して猛烈に怒っている場面も写っていて,たまには動物でもとんでもない者に恋をすることがあると言う愉快な番組だったが,私もひょっとすると…と思うと,自分ながら可笑しかった.
 それにしても,どうしょうもない辛い憂鬱というものはいったい他の人も経験することがあるのだろうか.そんな時,人は一体どんな風にして過ごしているのか・・私はやりきれなくなるといつも気が付くと神に祈っている.
(神さま,どうかお救い下さい..)と.
すると,間もなく不思議なことが必ず起きた.
 私が自分で何も作為したり無理したりしないにも拘わらず,電車の中とかプラットホームで少年の姿を必ず見つけることが出来た.
 少年は一人でいることが多かったが,友達と複数でいることもあり,極めてまれには嬉しそうに向こうの方から手を上げて合図を送ってくることもあったが,殆どの時は私に気付かないことの方が多かった.
 ある時,コーラスの帰り道に寄らなければならない所があったことを急に思い出したので,私は電車を普通から急行に乗り換え,最初に停まった駅で降りようとしたら何とドアのすぐ傍のプラットホームに他の少年達に混じり五十嵐幻がコミックスを一心に読んで立っていた.
 少年は傍を私が通り過ぎて行ったことなどには全く気付いてはいなかったし私も急いでいたので声も掛けずに通り過ぎたのだったが・・
 どんな出会い方であっても私は充分満足だった.私の心はそれだけで平和になることが出来た.何故なら少年に出会えたという喜びだけではなく,神が自分と共におられるならばそれだけで自分は守られていて大丈夫なのだという事実を知ったからに他ならない.
 神はいつも真実な方であり神のなさることはいつも完全である.
とは言っても,人間に過ぎない私にとって五十嵐幻が次いつ私の家に国語を勉強しに来るかということは,相変わらず私の最も気になるところであった.
               
                 
   ☆ ☆ ☆

 
 或る日,コーラスに行く途中,私は塾で使う問題集を買う為に梅田の地下街にあるK書店に立ち寄った.
混雑した書店の中で必要な問題集をやっと見つけ出して支払いを済ませ,再び書店の正面出入り口から地下街に出て行こうとしていた.
 昼間とはいえ書店の外の人の流れは激しく,人々は絶え間無く交差しながら地下街の中をそれぞれ思い思いの方向に動いていた.
 その群集の流れの中からこちらに向かって歩いて来る一人の少年の姿があった.
 距離が次第に狭まって来るにつれて,私にはその少年が五十嵐幻であることがはっきりと判った.
「まあ,幻君!こんな所で久し振りに出会えるなんて嬉しいわね!毎日元気に学校に行ってるのね!」
少年は少し恥ずかしそうに「はい,元気です.俺,今日は参考書を買いに来たんです」と答えた.
「そうなの・・それで,国語の勉強には来るの?」
「はい・・行きます.もうすぐ行くつもりでいます.」
「そう,来るのね・・では待ってるね.」
 二人はこんなやり取りをして別れた.
 それから,間もなく少年は再び私の家に国語の勉強をしにやって来た.
 今度は母親の車に乗せて貰わないで学校の帰りに制服のまま直接駅から我が家まで歩いて来た.
 気の合う者同志の再会は喜ばしいものである筈だが,(事実,少年と私もそうであったが・・)うまく言葉に表現出来ない二人はどちらも不器用な人であったのかもしれない.
 何はともあれ私達は教科書を開けた.
 芥川龍之介の「羅生門」の文をまず読み,段落ごとに内容を考え,次に問題を解いて,漢字が全部読めて書けるように,出来るだけの勉強をしてその日少年は帰って行った.
 しかし,少年が高校で選んでいる進路は自動車科なので,どちらかと言えば理科や数学の方に力を入れなければならず,高二になれば国語の授業はほんの少しになるとのことで,いずれにしても国語は大して重要では無くなるらしく,数ヶ月立った頃から少年は再び私の所に来なくなってしまった.
 それから後,私は少年の姿を見掛けることは無くなった.
 そして,二年余りの歳月が流れた.
                   
(8)

 塾では他の生徒達数人と由紀ちゃんとの勉強がそれぞれ続いていた.
 由紀ちゃんの高校受験も目の前に近づいていたが,勉強を続けている割りには成績が思うように上がらないので本人も私も少々心配になりそうだったが, 
「神さまがきっと守って下さるからね.」と私が耳元でこっそり言うと由紀ちゃんは「はい,そうですね.」と嬉しそうに頷いていた.
 そして,二人は安心して勉強を続けた.
 しかし,中学校の担任の先生は今の成績のままでは高校に合格することはとても無理なので洋裁の専門学校の試験を受けるようにと勧めてくれているらしく,高校に行きたいと思っている由紀ちゃんにとって,現実はなかなか厳しい状況だった.
 洋裁の専門学校は大阪にあって,家からバスや電車に何度も乗り換えて行かなければならない.そこまで通うには体の丈夫でない由紀ちゃんにとっては負担が大きすぎて無理なので,担任の先生には申し訳ないが私達は神さまに「何とか最初からの希望通り高校に行かせて下さい」とお願いを続けることにした.
                 
                    
 ☆ ☆ ☆

 
 その頃も私は週に一度ナンバの教会で行われているコーラスには相変わらず参加していた.
その時,私は最寄り駅で出発の時間待ちをしている電車の真中くらいの車両の席に坐っていた.乗客はまだ私だけで車内はがらんとしていた.寒いので電車の扉は一箇所だけが開かれその他は全部閉じられていた.
発車するまでにはまだもう少し時間がある.
 一人の制服姿の高校生が入り口から入って来たが,良く見れば何とそれは五十嵐幻だった.幻もすぐ気がついてこちらまで歩いて来ると私の隣に坐った.暫く見ない間にすっかり成長して少年というよりかはどこから見てもすでに立派な若者といった感じだった.
「まあ,幻君,暫くぶりですね!相変わらず元気そうで何よりです.」
「はい,今日は授業が無いのでいつもより少し遅い時間に学校に着けば良いから・・」
「そうなの.だから幻君に出会えた訳なのね.よかった!」
発車の時刻が近づいて来るにつれて電車の中は急に乗客の数が増えて来た.
「皆様,間もなく電車は発車します」というアナウンスがあって,電車がおもむろに動き始めた.
「先生,お願いがあります.」と五十嵐幻が言った.
「え,お願いって何かしら?」
「もうすぐ大学受験があるのでそのことを祈って欲しいんです.無事に合格出来るように・・数学とても難しくて苦労してるので・・」
「そうなの,また受験なのね.しんどいと思うけど大事なことだものね.お祈りしとくからきっと大丈夫よ.」
「ありがとう・・」
二人はそれきり終点の駅に着くまで黙っていた.
私は五十嵐幻とは出会うべき時が来るとこうして必ずまた出会えるということがやはりとても不思議なことで,当たり前などとはどうしても思えなかった.心の中が感謝でいっぱいになった.
これ以上,二人に言葉などどうして必要であろうか・・
その時,幻もやはり私と同じことを考えていたのではなかったかと思う.
 人間の力では無い不思議な力が働いているということを私はよく知っていた・・
 間もなく電車が終点の駅に着くと,「じゃあ・・」と微かに言い残して幻は座席から立ち上がると,まるで私の存在などとっくに忘れてしまったかのように足早に電車を下りて行ってしまった.私がプラットホームに降り立った時にはすでに若者の姿はどこにもなかった.
 まるで幻(まぼろし)が消えるように素早かったので,ひょっとしたら今出会ったのは幻(まぼろし)だったのかもしれない・・イヤ本当に幻(まぼろし)だったのだと思った.
                 
 ☆ ☆ ☆

 コーラスの練習をする前に祈りと証しをする短い時間がある.
 その日は私が当番だったので皆の代表で祈った後,メンバー全員の前で「神様は信じる者の祈りを聞いて下さり必ず御心のことを行われます.」と心から証しを出来たので,その場は感謝で満ち溢れた.そしていつものように練習が始まった.
「カルバリ山の十字架につきて イエスは尊き血潮を流し 
救いの道を開き給へり カルバリの十字架我が為なり
ああ十字架~ああ十字架~ カルバリの十字架我がためなり」
私の好きな聖歌399番である.礼拝室にコーラスの声が明るく響いた.
                   
                    
 (9)

 
 三月の半ばは公立高校に入るための試験があるが(由紀ちゃんは公立高校をやはりどうしても受験出来ないのだろうか?いったいどうなるのか・・)と思っていたら,何とその高校を受験する人数が定員に満たないので,担任の先生が「駄目でもともとだから一応受けて見ますか?」と言ってくれたとかで由紀ちゃんはついに念願の高校を受験することが出来るようになったのであった.
 受験のあった日の夕方,私は由紀ちゃんの家に電話をした.
「試験が無事に済んで良かったわね.問題難しかったでしょう?」と恐る恐る聞いて見ると
「あのね,今日のは簡単だったよ.由紀,だいぶ書けたと思う..」と,いつにない明るい答えが返って来たので私は驚いた.
「まあ,そうなの!・・書けたのね!」
「はい,書けましたよ.」
 由紀ちゃんが幾ら書けたと言っても私はまだ半信半疑だったが何はともあれほっとした.
そして,結果は見事「合格」だった.(@_@)
 済んでしまえば当たり前のような気がするが,それまでの状況を思うとやはり不思議で,嘘のような嬉しい結果であった.「おめでとう,由紀ちゃん!」
                 
                    
(10)


 春めいた明るい昼下がり,食事を済ませた後,リビングの長椅子にゆったりと腰掛けて,私はショパンのピアノ曲をCDで聴いていた.
清らかな水の流れのように繊細で,そうかと思えば強く激しく哀しいまでに美しい「幻想即興曲」のピアノの調べにうっとりと目を閉じて聴き入っていた・・
 ショパンの旋律は聴く者の心をいつの間にかロマンチックな夢の世界にまで誘い込み,美しさの極みの世界でゆったりと遊ばせてくれる.まるで恋をしている時のように甘い気分に浸らせ,それでいて一切の人間的なものを超越していて,その清らかな哀しいまでの美しさが,疲れた心,落ち込んだ心を再び引き上げ回復させてくれる.
 それ故,時間を超え空間を超えて,あらゆる国のあらゆる時代の人々に称賛され愛され続けて来たのである…
 良い気分で音楽を聴いている中につい,うとうとと眠くなり,まどろみそうになり掛けた時,どこか遠くの方でバタバタとバイクの音がして次第にその音が近づいて来たと思ったら,丁度私の家の前辺りに止まった気配がした.
間もなくチャイムが鳴ったので,私は急いで玄関まで走って行きドアを開けて驚いた.
何とまあ!すぐ目の前にヘルメットを手に持って五十嵐幻が立っていたのである.
「まあ,幻君!突然でビックリするやないの!どうしたの?」
 寝ぼけ眼の笑顔で私が聞くと,
「先生,俺ね,大学無事に合格したよ.バイクの免許も取れたから一番先に知らせに来たんやで!」見れば門扉のすぐ横に赤と白色の混じった新しい大きなバイクが停められてある.
「わあ,素敵なバイク!大学も合格したの!おめでとう!せっかく報告に来てくれたんだからちょっと中に入ってお茶でも飲んで行って欲しいけれどどう?」
「実は俺,今から他の塾にも報告に行って来ようと思って出て来たんや.でもお言葉に甘えて少しだけお邪魔します」
 幻は屈託なく言うと,門扉を自分で開けて早速中に入って来た.
私は紅茶を入れる為に急いで薬缶をコンロにかけて御湯を沸かし始めた.
「ほんまにここに来るのは久し振りやなあ・・」と,幻は独り言を言いながら,かって勉強したテーブルの自分の席に座るといかにも懐かしそうに部屋の中を見渡していたが,その横顔には努力して何かをやり終えた者だけの持つ確かな落ち着きと清々しさが,若者らしい気品となって充分に備わっているのが感じられた.
私は紅茶用のカップを戸棚から出して幻の前に置き,ポットから紅茶を注ぎながら,ほど良い色に入ったのを確認すると,ちょうどその時,或る考えがふと,頭に浮かんだ.
「ねえ,幻君,お願いがあるんだけれど・・」
「何ですか?お願いって.先生が俺に頼むようなことってありますか」
「あるのよ.ここに勉強を教えに来て欲しいのよ.どうかしら?」
「え!俺が勉強を?教えるの?」幻は如何にも意外で驚いたという顏をした.(@_@)
「そう,数学を中ニの人に教えて上げて欲しいのよ.二人の生徒が今ここに来て国語を勉強してるのだけど,数学もして欲しいとお母さん達から頼まれていてね.誰か教えてくれる人がいないかと探していたところだったのよ.ちょうど良いところに幻君が来てくれたって訳なのよ」
「へー!そう言うこと.それなら俺ちょっと考えるので待って下さい.明日までに返事しますので・・」
「いいわよ.それで・・」
自分自身はすでにOKでも両親の許可を取ろうと思っているのだと,幻の性格をすでによく知っている私にはすぐに判った.
翌日の朝,幻は約束通り電話で「承知しました.」と連絡をして来た.
 その日の夕方から早速数学の勉強も始まり,我が家は急に学習塾みたいに活気を帯びて来たのだった.数学を幻が一人の生徒に教えている間,もう一人の生徒との国語を私が受け持ち,一時間半立った時,今度は先ほどの生徒と入れ替わってそれぞれの科目を一時間半担当した.幻は長い間,自分自身も塾に行き,家には数学,英語の家庭教師も来て随分苦労しながら勉強を続けてきた経験があるので,生徒の気持ちは痛いほどよく判るに違いない.
 だから教える側の人としてもぴったりだと私は思ったのだがまさにその通りだった.
幻と生徒達は一週間にニ,三度我が家にやって来て,数学と国語の勉強はゆっくりではあるが順調に楽しく続いて行った.生徒も先生も欠席することは滅多に無かった.
何故なら勉強がどんなに難しくてしんどくても,楽しいこともまた他に少なからずあったからに相違ない.
 幻は私にとってはその頃も相変わらずかけがえの無いサウロ王にとってのダビデのような(清涼剤的)存在であったが,中学2年生の少年達にとっても同様に優しくて頼もしい素敵な兄のように魅力溢れる先生であった.
バイクに引き続いて車の免許も取った幻は間も無く,真っ白のスポーツカーに乗って我が家まで来るようになった.
 生徒達が勉強に飽きて疲れてしまうと,幻が皆を車に乗せてドライブに連れて行ってくれることがあった.ミッションの車なので若者らしい急なブレーキになることが度々あり,少年達は大喜びであったが,私は車酔いになって「とめて!とめて!お願いだからとめて!」と自分だけ降りて暫く休憩しなければならない時もあった.
 月の夜,お墓の入り口の辺りに車を停めておいて,皆で一緒にぼんやりとした月明かりのお墓の道を恐る恐る歩いた時は良い年をした私までが真剣に怖くて気味悪く感じた.
 何しろそんな経験は生まれて初めてなので正直言うと,実は怖くても随分楽しかったのだった・・(^_-).私達は大急ぎで勉強部屋に戻ると,それぞれのお母さん達が車で迎えに来られるまで全員何食わぬ顔をして再び勉強の続きに励んだ.
幻は数学の良き先生であると同時に,面白いこともよく知っている遊びの先生でもあったので,いつも人気の的だった.
                  ☆ ☆ ☆
 私の夫はその頃,単身赴任中で普段は家に帰らずガレージが空いていたが,幻は朝学校に行く時,電車の駅に近い私の家まで車に乗って来ることがよくあった.
 ガレージに車を入れると,カバンを肩から横にぶらさげて気楽そうに駅まで歩いて行ったが,後姿を見ながら私はまるで自分にもう一人大学生の息子が出来たように嬉しかった.
コリー犬のララを連れて散歩がてら駅の手前まで一緒に歩いて行ったこともあった.
そんな時,幻は何も言わずただ嬉しそうな顔をしていた.
「では行ってらっしゃい!」と私が言うと
「行って来ます!」と笑顔で片手を上げて駅の中に消えて行った.
 或る朝,私が家の外を掃除していたら幻がやはり車でやって来た.
「今日ね.授業が休校になったと友達が今携帯で知らせて来たんやけど,時間が空いてしまったので俺,午後ニ時頃まで時間たっぷりあるんや.先生がもし良かったら俺がコーヒーおごるから一緒に行けへん?」
「え!私にコーヒーをご馳走してくれるの!」
「うん,わりと近くに俺が行ったことのあるお店あるねんけどね・・」
「わあ!幻君と一緒に行けるなんて嬉しいわね.行く,行く!ちょっと待ってて.すぐ用意して来るから・・」
何だかまるで恋人と一緒に出掛ける時みたいに嬉しくなって胸までドキドキとした.
一体こんな時は何を着たら良いのか判らず,結局は先ほどまで着ていた深い緑色の胸元にビーズとスパンコールの飾りのあるブラウスを着たままスカートだけロングの八枚はぎの青いジーンズのフレヤーにはき替えて,いつものバッグを手に持つと大急ぎで外に出た.
幻はすでに車の運転席に坐っていて,私が来たのを見ると隣の席に坐るようにドアーを開けてくれた.
車が動き出すといつも見慣れている街の風景が車窓から全く違った感じで見えた.
(人生には思いがけずこんな日もあるのだな・・)と思った.
間もなく小さなコーヒーショップの駐車場に車をとめて,二人は店の中に入って行った.
私は普段コーヒーはあまり飲み付けず,たまに飲むとカフエインが合わないのか決まって夜眠れなくなるので滅多に飲まないのだが,今はそんなこと言ってる場合ではないから幻と同じホットのアメリカンを注文した.
 ウエイトレスがコーヒーを持って来てテーブルの上に二人分並べて置きながら,何だかいやに,にこにこと笑うので私はこの人は一体二人のことを何と思っているのか,(母親と息子にしては顔立ちが全く違っているし,恋人にしてはあまりにも年が離れ過ぎだがそれでもひょっとすると・・)などと勘ぐっているのかもしれないな・・と思うと困ったような恥ずかしいような複雑な気持ちになった.そこで,
「幻君がいつも生徒達の勉強をよく見てあげてくれるから,ホントに助かっているのよ」とわざと大きな声で,ウェイトレスがもし疑っているのなら疑いが少しでも晴れれば良いと思って言った.
それなのに幻は一向にお構いなしというように
「わあ,俺,先生とナンパしてしもたわ.これは間違い無くナンパやで!こんなのをナンパと言うんやで.」なんて,普段の話す声より大きな声で如何にも愉快だと言わんばかりに言うので,私は閉口してしまったのだった.が,不思議と悪い気はしなかった.
 先ほどのウェイトレスがどうもこちらを見てまだ笑っているような気がしたが,その視線が決して意地悪そうには見えなかったので,考え過ぎは止めることにした.
 それにしても「ナンパ」と言う言葉のあることを私はその時,初めて知った.一体どんな漢字を書くのか,(難破かな?)大体の察しはつくが正確にはどう言う意味なのか,その中に調べよう,調べようと思いながら今になってもまだ調べていない.
 その時飲んだコーヒーの味がどんなだったか,果たして美味しかったのか不味かったのかもよく覚えていない.
 コーヒーショップを出た時,時計を見ると,間もなくお昼近い時間になっていたので,コーヒーのお礼に今度はお昼の食事を私がご馳走することになった.
 日頃一緒に仕事をする者としての感謝の気持ちも込めて,この辺りではかなりハイクラスの部類に入るレストランに行く事にした.
そこは主人や子供達とも以前何度か一緒に行ったことがあり,少しでも勝手が判っていると何となく行きやすい気がしたので・・
 夾竹桃の紅い花が溢れるほど沢山咲いている長い植え込みの中央辺りにレストランの門があった.白い木製の門を潜ると,ピンクと白のベコニアを両側に配色良く並べて植えてある赤いレンガ敷きの細い道が入り口の扉の方に続いていた.
 幻の後ろから私もゆっくりと扉の中に入って行った.
「いらっしゃいませ」とにこやかにウェイターが私達を出迎えてくれて,テーブルへと案内してくれた.
 ウェイターがメニューをそれぞれに渡して「ご注文は?」と聞いたので幻の方を見ると
「俺,何でも良いよ」と本当に何でも良いという顏で私を見たので
「では本日のランチにして下さい.」と私はウェイターに向かって言った.
幻は肉料理,私は魚料理にした.
ウェイターが向こうに行ってしまうと幻が「俺なんか学生やから滅多にこんな高級なお店で食べること無いよ.大抵もっと小さい店で中華ぐらい食べてるんや.」と言った.
「そうなの.私だってしょっちゅうこんな所にばかり来てる訳じゃあないけど今日は特別なのよ.幻君とはいつも一緒にお仕事していて,色々と助かっているので,たまにはお礼もしたいと私も思っていたので・・」
 私達のテーブルの横は全面ガラス張りの窓になっているので色んな植物が青々と茂っている庭が足元から見えている.白い夏雲の浮かんでいる空もよく見え,幻は私の真向かいに坐っている.まるで夢の中にいるようだった.
こんな時が来るとは予想もしていなかったので私は「人生ってやはり不思議なものだ」と思った.
小さな音量で音楽も流れていた・・クラシックのピアノ曲,よく聴いているとショパンの「幻想即興曲」であった.
「お母はんにこんな所を見つかったらきっと怒られるやろうな・・」と,ふとその時幻が言った.
「そうやね・・多分そうだと私も思うよ,幻君がそう思うのならお母さんには今日のこと話さない方が良いわね」と私は言いながら(子供ってこんな時も経験しながらだんだんと親から離れて行くものなのだな・・)と,ふと自分の子供達のことを考えた.
 間もなく料理が運ばれて来て食事をしたが,お互いにどんなことを話したのかあまりよく覚えていない.きっと大したことは話していなかったに違いないが・・
そう言えば幻が「先生,俺のことを他の人が暴走族なんて言うけど,それは違うよ.土曜日は車で走りに行くけど,夜中に山道走るんやったら他の車の邪魔にもなれへんし迷惑も掛けへんから,面白い乗り方をして車を楽しもうと思う人ばかりそこに来て楽しく乗ってるだけなんや.暴走なんか全然してないから暴走族なんかとは違うんや!」と,そんなことを確か言っていたような気がする.
私は多分「そうね,そうね」と頷いていたに違いない.もっと真剣に聞いてあげたら良かったのに・・と今頃になって思う.
あの時,確かに二人は楽しかったけれども,私にとっては静かなひと時であったとは必ずしも言えない.もしかするとあれは私にとって最も激しく時間が流れた時だったのかもしれないと思う.
或いは,ちょうどその時流れていたショパンの「幻想即興曲」のように最も甘く哀しいほどに美しい時間の流れであったのかもしれないと思う.
                
☆ ☆ ☆

 始めがあれば終りもまた必ずあるものだ.
二年の間,数学と国語の勉強は続いたが,少年達はそれぞれ高校受験に合格して我が家での勉強には来る必要が無くなった.
幻も大学を無事に卒業して,仕事で東京に行くことが決まった.
別れの朝,私は幻を見送りに行った.今度いつ会えるのかは全く判らない.
そして,あの日からいったい何年の歳月が流れただろうか…
                 
(11)

 今朝,老犬ララを連れて散歩していると,私の家からすぐ近くに立ち並ぶマンションの間から一台の車がゆっくり走り出て来た.その車のボデイには「五十嵐自動車」と大きな宣伝の文字が書いてあった.
(あっ)と思って運転席を見ると,以前よりかなり体格が良くなって大人びた五十嵐幻が乗っていた.青年は私の方に一瞬笑顔を向けた.が,そのまま車はスピードを上げて走って行った.
(そうなんだ!幻がまた帰って来たのだ…私の家のすぐ近くに住んでいる.)
 だが本当は近くても遠くても同じことである.
 出会うべき時が来ると神が必ず出会わせて下さるのだから一体何を思い煩う必要があるだろう.
              
              
  ☆ ☆ ☆


いつの間に「幻想即興曲」が止んだのか.もう聞こえて来ない.
 さわやかな風がハナミズキの葉をそよがせ私の頬を撫でながら通り過ぎて行くばかりである.
 私は窓の扉をゆっくりと閉じた.
 塾の講師の仕事は今もまだ続いている.                  
                     
 完 
   



       
               
                               
                             
                  
              



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