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月のひかり★の部屋

月のひかり★の部屋

エッセイ

         お正月に出会った日
  
 それは日本が戦争をしている真っ最中の頃であった。母は三歳の私と生まれて数ヶ月の妹を連れて殆どの家財道具を大阪に残したまま、母の両親の郷里である奈良県吉野郡天川村の洞川と言う地に疎開した。父は戦争に行ってまだ帰って来ていなかった。今では季節を問わず大峰山の登山が盛んで、だいぶ観光的になっているが、その頃はバスも無かったのか、私は親戚の初対面の若者に負ぶって貰って、くねくね曲がった長い山道を洞川に向かって進んで行ったことを記憶している。私達親子の住まいは集落から少し外れた川縁にあった。何でも私達の前には韓国人の家族が住んでいたと言うことで、それは一軒の家と言うよりは一軒の小屋と呼ぶ方がふさわしかったのかもしれない。娘時代からずっと何不自由無い暮らしをして来た都会育ちでお嬢様育ちであった母にとっては生まれて初めての試練だったかもしれない。ここで私達親子は父が戦争から帰って来るまでの数年間を細々と暮らした。この頃の記憶は今では私の脳裏の奥にかなり風化して、ぼんやりと霧のかかったようなかすかに動く画像として蔵われている。
そして、ここでの生活は私のそれから後の長い人生、とりわけ私の感性に少なからざる影響を与えたのではないかと思われる。戦争で或いは死ぬかもしれないと言う恐れと戦いながら、「今か今か」と夫の帰りをひたすら待つ若き妻は何かと慣れない地と言う事も重なって、さぞかし心細く淋しかったことであろう。 母がそうならその子も同様に心細く淋しいものである。 あの頃は食料も乏しかった。毎日ジャガイモの入ったご飯ばかりで、ご飯と言ってもご飯粒がほんの少しお芋のぐるりに引っ付いている程度で、私は母にお芋だけを取り除いてくれるように無理ばかり言っては困らせた。時には野に生えている草を食べたこともあった。あのほろ苦い草の味が忘れられず、飽食の時代の今となっては、もう一度食べて見たいような懐かしい気持さえする。赤ん坊の妹に飲ませる配給の粉ミルクを母は時々私の口の中に一匙か二匙入れてくれたが、それは何とも言えず甘くて美味しくて、嬉しくなった私は思わずはしゃいだ。                                       
 冬は寒さが特に厳しかった。雪が限りなく舞い降りて、野も山も畑も道も一面銀色の世界になった。その静寂の中をサラサラと川は音を立てながら光りつつ流れていた。あまりに冷えて寒かったからか私は肛門から腸が外に出る脱肛と言う状態になり母がずいぶん困って心配したらしいが、幸いなことにいつの間にか良くなった。                               
 雪が止むと眩く陽が射した。軒先に50センチ程もあるツララが幾本も下がって、それが朝陽を浴び湯気を上げながら、ポトポトと雫を落とし、キラキラと鋭く輝いているのを見上げていた時、子供心にとても美しいと感じた。私が宝石に何故か心を奪われることの無いのは、きっとあの時のキラキラ輝くツララがいつも心の隅に残っているからであろうか。               
 華やかな物は何一つとして縁の無い疎開地では玩具も勿論無く、自然がそのまま子供の遊び道具になった。川原ではその地方で通称「コメコメ」と呼ぶ白っぽい石を地面に打ちつけては砕き粉にして、ままごと遊びの真似事をした。 時折、村人の子供である私より一つ年上の久ちゃんと言う子と遊んだが、その久ちゃんはいつだったか大雨の降った後の川に橋の上から落ち、流されて死んだ。久ちゃんの母親は気違いのようになって、流れて行くわが子を追いかけたが、ついに間に合わず、やっと抱き上げた時にはもう駄目だったと言う。赤い服が浮いたり沈んだりしながら川を流れて行くのが見えていたそうだ。大人達がこんな話をしていたのかどうか定かではないが、赤い花柄の服を着た小さな久ちゃんの体がどんどん川を流されて行く光景が、幻のように眼裏に浮かぶ度に私は今でも何とも言えず悲しい気持ちになる。
 或る日、川の向こうで大火事があった。川を挟んで距離がだいぶあるはずなのに、頬が燃えるように熱かった。メラメラと物凄い勢いの炎が村の家々を被い尽くして行くのを見ていた時幼い私がどんな気持だったのかはっきりとは今思い出せない。


 山奥のことゆえ、直接被害を受けると言う戦争の被害は無かったが、時折B29と言うアメリカの飛行機が上空を不気味な恐ろしい爆音を立てて通過する時はガラス窓も小刻みに震える程で、命の危険を感じ、身も縮まるように緊張した。夜は灯りに注意して警戒警報のサイレンが鳴り響くと即座に消灯して真っ暗にしなければならなかった。母を真中に私達三人は体を寄せ合って眠った。あの時の母の体の温もりが私はいまだに懐かしい。母の温もりさえあればどんな心細い状況の中であっても、子供は安心して無事に育つものだとしみじみ思う。
 母は毎朝川まで水を汲みに行くのが日課であった。雪道を一歩一歩と川まで行って帰って来る姿を、私は窓からじっとよく眺めていた。その母は去年の秋、7年前に召された父の後を追うようにして86歳で安らかに天に召された。「母はどちらかと言えば暢気な人やね」と妹と生前話すこともあったが、あの戦争中の頃のことを思い出すと「よく耐えていたな」と感心する。
 
 或る日、母は私に「もうすぐお正月が来るよ。」と言った。「お正月はね。綺麗な赤いおべべを着て可愛いリボンを付けてね。羽子板で羽根突きをして遊ぶのよ。」幼い私の心の中はその時、まるで灯りでも灯したように明るくなった。「お正月が来る!お正月が来る!」と喜びはしゃいだ。
 
 その夜、いつものように寝ようとして一人で部屋の蒲団の上に坐っていると枕の置いてある傍に今までに見た事のない30センチ程の小さな人形のような女の子が立っていた。可愛い花模様の赤い着物を着て金色の帯を結び、手には羽子板を持って私の方を見てにこにこ笑っている。私は「あ!お正月だ。」と叫び、あまりに女の子が美しくて可愛いので暫くうっとりと見惚れていた。身も心もほのぼのと温かかった。女の子はすぐに見えなくなった。
 「今ね、お正月が来たのよ。」と部屋に入って来た母に言うと「そう」と母は笑っていた。
 
 あの夜、私は確かにお正月に出会ったのである。あれが私の初めて見た幻であったと知ったのはいつ頃のことであっただろうか。もしかすると、私は幻を追って生きる人間かもしれないと時たま思うことがある。完



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