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エイトさんのブログから http://dp.tosp.co.jp/index.php?action=blog_view_entry&ocd=user&oid=5129972&eno=329&tno=-1&page=1&guestAuthCode= クリスティーナ・ハン展示販売会 新宿エルタワー30階でこの週末3日間統一協会系販社クリスティーナ・ハンの展示販売会が開かれた。統一協会信者がビデオセンター受講生を来場させ「運気が良くなる」などと宝石・貴金属・絵画など高額商品を買わせる手口。信者の親もカモに。霊感商法は続いている。 今回の会場は、いつものアイランドホールではなく、エルタワー30階のサンスカイルーム。 受付にも青年信者が係員として動員、ただ働きをさせられている。 各ビデオセンターのスケジュールにも、クリスティーナ・ハンの講習が組み込まれていた。クリスティーナ・ハンの指導員がビデオセンターに来て指導していたそうだ。 ≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡ 4月20日~22日の3日間、統一協会主催のクリスティーナ・ハンの宝飾展が開催されてたんだってね。 だけど向学のために、『クリスティーナ・ハンの展示販売会』を見学したい。と希望しても展示販売会へは入れてはくれません。 『クリスティーナ・ハンの展示販売会』というのは完全会員制だから条件を満たしていない人は入れてくれないんだよね。 展示販売会へ入るには、ある条件を満たさなければ入れてはくれません。 1つ、『クリスティーナ・ハンの展示販売会』の【招待状】を持っている統一協会信者が同伴していること。 1つ、前年に『クリスティーナ・ハンの展示販売会』で宝飾品をバカ高い値段で購入させられた信者。もしくは信者予備軍(勧誘対象者)であること。 だから『クリスティーナ・ハンの展示販売会』の招待状は誰にでも渡すというものではないんだよね。 『クリスティーナ・ハンの展示販売会』の招待状を貰う事ができるのは、主に統一協会の信者なんだよね。 そして、受付には、ちゃ~んと、部外者の侵入を防ぐために、これまた統一協会の信者が【招待状】と本人確認(統一協会の信者であるか?勧誘対象者であるか?)のための識別役が控えております。 だから、普通は『招待状』がなければ展示販売会場には入れないはず。だよね。 しかし、たまに顔でフリーパスして展示販売会場に入れる人もいるんだよね。 顔自体が『招待状の代わり』をしている人もいるわけですが。たまにね。 統一協会の上の方に位置する人や、勧誘対象者を連れてきた統一協会信者とかには【特別に許可します】とか言ってね。 完全会員制のはずなのに『?』でしょう? 統一教会と関わりを持った事のない人は知らないだろうが、 『クリスティーナ・ハンの展示販売会』の招待状を持っている人は、ほとんどが統一協会の信者なんだよね。 そして、ほとんどが誰かと顔見知り。なんだよね。 受付で招待状の有無を確認しているのも、もちろん統一協会の信者です。 その地域の統一協会の各支部から受付係りとして派遣されてきているからね。 受付の係りをしている人と、招待状を持ってきた人とが知り合いの場合も多々ある。 だから、『あ!【招待状】を忘れて来た!』と言うても、受付に知り合いの信者がいて、統一協会の信者である事が確認され、“購入対象者を連れてきた。”と言えば【招待状】を持っていなくても展示販売会場に入れてくれます。 (私が統一協会の信者だった時に見た『クリスティーナ・ハンの展示販売会』の受付の様子でした。) にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村
《創世記》 第4章 4:1人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。 4:2彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。 4:3日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。 4:4アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。 4:5しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。 アベルとカインは、それぞれ収穫した中から神に供え物をしたのだけれど、神はアベルの供え物を顧みたけれど、カインの供え物は顧みなかった。 カインもアベルも一生懸命に働いて育てて収穫した物なのにね。 神にシカトされて、カインは可哀想だよね。 何で神はアベルの持ってきた、その群れのういごと肥えたものとを顧みて、 カインと、その供え物とは顧みられなかったのだろうね? 同じ親から生まれた兄弟なのに差別しちゃいけないよね? 同じ親から生まれた兄弟なのに差別されたらグレちゃうよね? カインは、ぐれて、弟のアベルを殺害しちゃったんだけれどね。 何で、そんな事になっちゃったんだろうね? 何が原因だったんだろうね? 殺害されたアベルが可哀想だけれど、グレちゃったカインも可哀想だよね。 でもさ、聖書を、よくよく読んでみると、原因も書いてあるんだよね。 ちょっと遠回しだけれど。 アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。 4:3日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。 4:4アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。 4:5しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。 この中 弟のアベルは牧羊で生計を立て。 お兄ちゃんのカインは農耕で生計を立てていたんだよね。 で・・・収穫の時を迎えて、 お兄ちゃんのカインは、 地の産物を持ってきて、主に供え物とした。 弟のアベルも、 その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。 でも神は、カインが供えた地の産物(農作物)は顧みなかったけれど、 弟のアベルの供えた、その群れのういごと肥えたものとを顧みたんだよね。 アベルは神を《お大切》にして、羊の群れの中から『マル秀印』の羊だけを選んで神に供えたんだよね。 だから、神も「ありがとう。^^」と喜んでくれた。 だけど、アベルよりも先に農作物を神に供えていたカインは面白くなかったんだろうね。 何で、僕が供えた農作物には見向きもしないで、弟の供えた羊を喜ぶんだよー!って。 でもさ、もしカインも神を《お大切》に収穫物の中から『マル秀印』だけを選りだして供えていたら、神も「ありがとう。^^」と喜んでくれたんじゃない? だってさ~、麦の実の山からを1粒ずつ『マル秀印』の麦の実を選り分けるのって豪い作業だよ~。 カインも分かっていたんじゃないのかな? 何で神が、カインと、その供え物とを顧みなかったのかを。 だからカインは大いに憤って顔を伏せたんじゃないのかな? 4:6そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 4:7正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。 カインも神を《お大切》に麦の実の山からを1粒ずつ『マル秀印』の麦の実を選り分けて供えていたなら顔を上げられていたんじゃないのかな?
『聖書』は予言の書である。とか、新約聖書の『黙示録』が予言の書である。とか、怪しい教団の信者さん(統一協会だけでなく)から、よく聞かされたよね。 その外、神秘主義に傾倒している人からも、たまに耳にしたこともありましたわ。 聖書が予言の書である。というのだったら疑問が浮ぶよね? 聖書が予言の書であるなら、何故、人間は悲惨な戦争を繰り返すのか? 飢餓で苦しむ人々が出ないように、何故、それを未然に防げなかったのか? ・・・・・・・・ 数え上げたら限がない。 事が起こり、時が過ぎ去った後で『全ては大昔に聖書に書かれてあった!聖書に予言されていた!』と言っても、それは、こじ付け、でしかないんだよね。 事が未然に防げてこそに予言の価値があるのだから。 予言というのは、防犯・防災対策である。と私は思っているけどね。 予言というから、おかしくなっちゃうんだけどね。 予言。ではなく、助言というべきじゃないかな? 結局は錯覚なんだよね。 聖書の中に現代社会の縮図を見て、そう思いこんでしまう錯覚なんだよね。 何故、現代を生きる人が聖書は予言の書である。という錯覚に陥ってしまうのか? それは、大昔に生きていた人々から、現代を生きる人々に至まで、似たような行いを繰り返してきたからなんだよね。 様々な、文化・文明が発達しても人間の本質は変わらないからだろう。 後ろ向きに考えれば、人間とは何と愚かな生き物なのだろうか?と思うだろうし。 前向きに考えれば、現代人が営んでいる豊かな暮らし向きや、豊富な知識は、先人達が失敗を繰り返しながら積み上げてきた成果ではないのか?と思うのではないのかな。 そして時が止まらないのと同じく、 人間があり続ける限り、それは続くのではないのかな? その時々の事情や形を変化させながら、それは、これから先も延々と続くのではないのかな?
パフォーマンスですから。 『会則』は形だけですから。 守らなかったからと言って、 『断食しろ』 『毎日、氷のように冷たい水で水業しろ』 『毎日、敬拝を何十回しろ』 なんて言いませんから。 私も、 何処かの怪しい教団の霊能者が言っているような、 『私が信者達に代わって、毎日、××××の為の、××××の条件を立てています。』 なんて、言わないし~。 そもそも、条件なんて立てる気もありませ~ん。 イエス様が好きなら誰でも『OK』で~す。 『イエス様ファンクラブ』ですから、一応、宗教的なパフォーマンスを書いてみたただけで~す。
イエス様ファンクラブ『イエスチャン』の会則は、 ・『聖書』を好きなだけ読む。 ・お祈りをする。 ※様々な事情で、お祈りが出来ない時は『主の祈り』を捧げてください。 『主の祈り』 天にまします我らの父よ 願わくは み名をあがめさせたまえ み国を来たらせたまえ み心の天になるごとく地にもなさせたまえ 我らの日用の糧を今日も与えたまえ 我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく 我らの罪をも赦したまえ 我らを試みにあわせず 悪より救いだしたまえ 国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり アーメン。 と、イエス様の祈りを捧げてください。
1、父なる神。 2、御子イエス・キリスト。 3、聖霊(みたま)。 この、3つが合わさって、1つの『神』です。 『三位一体の神』と言っています。 イエス・キリストも聖霊(みたま)も神から出た(神が使わされた)モノであるから、イエス・キリストも聖霊も神である。ということです。 『三位一体の神』で、一番分かり難いものが【聖霊(みたま)】です。 《聖霊の働き》《聖霊が語りかけてくれる》《聖霊の導き》などなど。 しかし、これら全部ひっくるめて【聖霊(みたま)の働き】といます。 【聖霊(みたま)の働き】というのは、 「その場の空気を読む。」とか、 「誰かを通して(誰かと話をしている時に)ハタと気付かされる。」とか、 「それまで分からなかったことが、『ああ、そういうことか・・・』と理解できたり。」 「ただ、神を信じることが出来る。または、できた。」 「日常の出来事の中で、いろいろ気付かされる。」 「落ち込んで、お先真っ暗という心境の中も、突然、それまでの出来事が感謝に変わり希望がうまれる。」といったものでしょうかね。 人間が生きていれば「必ず」と言っていい程に悔やまれる事が度々、起こります。 しかし、時が経つにつれて事情も変わってきます。 いかに悔やまれる出来事に見舞われたとしても、 それを反省し、その体験や経験を他者に活かす事ができたとき、他者だけでなく自分をも生かすことのできる糧となります。 どんなに悔やまれる出来事であっても、それを良いモノに変えてくれるのも【聖霊(みたま)の働き】というものでしょうかね。
日本語というのは、一言でいうと、 『複雑怪奇!』です。 ある1つのモノに対しても細かく名称を付け区分し、 ある現象に対しても微妙なニュアンスで移り行く時を言葉で表現していました。 だから日本語というのは、とても複雑怪奇です。 だけど、繊細な表現が出来るのも日本語の特徴ではないのかなと思います。 だから西洋文化?のキリスト教の『聖書』を日本語で表現するには難しい部分もあるんだよね。 だけど『聖書』に登場する人々も、宇宙人ではなく、地球人なんだよね。 日本人と同じく地球人なんだよね。 生きていた年代と土地柄や生活環境などが違うだけで。 だから人間としてのあり方や、感じ方なども、それほど大きな違いもないのでは?と思います。 私が、そう思うに至ったのも親父の存在があったからなんだけど。 親父はキリスト教の『キ』の字も知りません。 だから『聖書』なんて読んだこともありません。 だけど親父はイエス様の言いつけを守るような生き方をしていました。 『聖書』の中の話を日本語で的確に表現するように話しておりましたから。 だから親父はクリスチャン達から、 『隠れクリスチャン』と思われておりました。 理由:母が極端な偏見と差別意識の持ち主でしたから。 親父の事を、いろいろ思い出していたら『聖書』を日本語で表現できるかも?と思いました。 全部は無理ですよ。 私は牧師さんではありませんから。 でも、今までに牧師さんに教えてもらった話を紹介する事くらいなら出来ますからね。 こちらのブログで、少しずつでも紹介して行けたらいいな。と思います。
ニックネームを、1部、変更しました。 モモン7032
http://www.asahi-net.or.jp/~am6k-kzhr/sokuho.htm 『カルト被害を考える会』 統一協会・カルト問題の=ニュース=から。 *櫻井義秀* 「カルト」から身を守るために*大学入学の原点忘れずに 2012.03.30 北海道新聞夕刊全道 5頁 文化 (全1,789字) 小中高の卒業式には「旅立ちの日に」という歌が似つかわしい。3月は「勇気を翼に込めて希望の風に乗り、この広い大空に夢を託して」(作詞・小嶋登)進む若い人たちの季節だ。 4月、キャンパスであどけない顔つきの新入生を見るたびに存分に学生生活を満喫してほしいと願う。それが勉強であれ、部活であれ、何であってもやりたいことをやりきったものだけが得る経験と、自信をもって卒業してもらえればそれでよい。 ところで、4月から夏休みにかけて大学のキャンパスはカルトの草刈り場となる。なぜなら、親元を離れ、親しい友人もおらず、大学に自分の居場所をまだ確保していない新入生ほど勧誘しやすい若者はいないからだ。 カルトとは、正体を隠した勧誘や承諾誘導の心理的テクニックを用いて市民をメンバーに囲い込み、組織拡大のために勧誘や資金調達に動員させ、それらの違法行為が社会問題とされる団体のことをいう。バイタリティーあふれる若者や資産家の高齢者を狙いうちする団体も多い。心を許せる人がいない人に優しく近づき、この人なら信頼できると思わせておいて活動に誘い込む。 大学では新入生ガイダンスの際に「カルトの勧誘」と注意喚起するが、カルトを名のるカルトはいない。擬装サークルが勧誘してくるので、団体名・活動内容の確認が重要だ。 公安調査庁の調べによると、2011年にオウム真理教(Aleph)が獲得した新規信者200人余りのうち、北海道だけで75人を数えた。信者は青年層が大半とされ、SNS(ブログやミクシィ、フェイスブック等)での書き込みで知り合い、喫茶店で話し込むうちに札幌市の支部に誘われている。オウム事件が風化した現在、この教団に入信する学生や青年が増えているのだ。なぜか? カルトを知らないからだ。オウム事件、統一教会の霊感商法、摂理の教祖による女性信者へのセクハラ等々を知らない学生・大学院生が多い。教団名を出されてもそれがカルトと気づかないのである。 入信の見分け方は難しいが、表面上は礼儀正しくなり、人生観・世界観を級友や親に語り始める学生がいる。短期の旅行と称してカルトのセミナーに参加する。アパートを引き払い、友だち同士で住むと言い出す。学資・生活費と偽って親から金ももらい献金してしまう。組織から友だちを導くようノルマが課され、クラブやクラス、バイト先で勧誘する。そうした姿が友だちや教員に目撃され、大学から連絡を受けた親は驚き、怒り、悲しむ。 親や教員が本人に問い詰めても、物証(カルトの教本や教祖の写真等)がないかぎりメンバーであることは否認される。仮に認めても既にやめたとか、たいしたことがないといい、活動を継続することが少なくない。こうして学生時代をカルトのメンバーとして過ごすとどのような人格が形成され、どのようなリスクを負ってしまうのか? 《1》詐欺、暴力といった違法行為に加担させられる《2》合理的判断能力や市民的規範意識がなくなる《3》自身の全財産を提供するだけでなく、将来も献身・出家と称してカルトの専従者となる《4》教祖や上司に全ての判断を仰ぐ依存的パーソナリティーになる(信仰心と誤解する)可能性が高い-などが挙げられる。 09年、筆者も呼びかけ人となって「全国カルト対策大学ネットワーク」が結成され、現在120大学の教員・学生支援職員がカルトの予防啓発を行っている。学生の信教の自由(特定の宗教を信仰する自由に加えて、宗教を信じない自由および宗教の選択において自己決定権を侵害されない自由も含まれる)を守り、安心して学べるキャンパスを作ることは大学の責務である。また、カルトのメンバーとなった学生を導き、親からの相談にのることも学生相談室の業務である。 カルトに入ってしまった学生には、高校を卒業したとき、大学に入学した時の気持ちを思い起こしてほしい。君は何をしようとしていたのか。その原点こそ、カルトから脱会し、回復する基点になる。 <略歴> さくらい・よしひで 北大大学院教授(宗教社会学)。61年、山形県上山市生まれ。北大文学部を卒業後、同大大学院文学研究科博士課程を中退。04年から現職。著書に「カルトを問い直す」(中公ラクレ)、「霊と金」(新潮新書)、「統一教会」(北大出版会)など多数。 【写真説明】新入生を待つキャンパス。同時に、カルトも新入生を待ち構える 北海道新聞社
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