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1935 (昭和10) 年2月18日。
帝都 ・ 東京。
国家学説のうちに、 国家法人説 というものがある。
これは、 国家を法律上ひとつの 法人 だと見る。
国家が法人だとすると、 君主や、 議会や、 裁判所は、 国家というひとつの法人の 機関 だということになる。
この説明を日本にあてはめると、 日本国家は法律上はひとつの 法人 であり、 その結果として、 天皇は、 法人たる日本国家の 機関 だということになる。
・・・これがいわゆる 天皇機関説 または単に 機関説 である。
(宮沢俊輔 『天皇機関説事件』 から)
↑ 画像は、 発禁処分に付された美濃部達吉博士の著書 『憲法撮要』
大日本帝国が 立憲君主制国家 として、 ともかくも正常に機能していた時代・・・。
議会の権能を保障し、 政党政治を可能ならしめる、 法理論上の根拠とされていたのが、 美濃部達吉博士 の唱導する憲法学説でした。
同学説は、 日本の憲法学会に在って、 三十年余に渡って主流を成していたもので、 昭和天皇 も支持者の一人であったとされていますが、 是の日・・・。
貴族院本会議場に於いて、 天皇機関説 は極めて遺憾であるとする、 排撃運動の狼煙が上がりました。
神聖不可侵の存在 である天皇を、 国家の一機関と定義する学説など、 日本の国体に適合しないとする、 国家主義的立場から成された論難でした。
そして、 斯かる不逞の論を成す者は 叛逆者 ・ 謀反人 に他ならないと、 矯激な・・・時代錯誤の言辞を用いて、 美濃部博士個人 (貴族院議員の一人でもある) をも糾弾します。
戦前の国内政治から、 社会 ・ 思想 ・ 教育 ・ 文化に至るまで、 国民生活を一変させてしまった (・・・と云っても過言ではない) 天皇機関説事件 の端緒でした。
是の事件は、 議会制度を無力化させ、 国民の権利を抑圧し、 自由主義的な思想 ・ 言論を根絶しようとする勢力にとって、 突破口を開く為の、 絶好の機会となります。
反動政治団体 や 在郷軍人会 を主要な担い手とする機関説排撃運動の炎が、 凄まじい勢いで、 全国へ燃え広がっていくのです。
そうした最中・・・。
一身上の弁明に立った美濃部博士は、 憲政史上に語り継がれる名弁論を披瀝し、 論敵を退けますが、 結局・・・皇室に対する不敬の罪を犯したとして、 告訴されるに至ります。
恐らく、 皇室の藩屏たる貴族院議員の中でも、 美濃部博士程に尊皇の志の厚い人物は稀であったろうと推量されるのですが・・・。
昭和天皇は 侍従長 ・ 鈴木貫太郎 に対して、 次の様に語っています。
・・・美濃部のことをかれこれ言ふけれども、 美濃部は決して不忠な者ではないと自分は思ふ。
今日、 美濃部ほどの人が一体何人日本にをるか。
あゝいふ学者を葬ることは頗る惜しいもんだ
(原田熊雄 『西園寺公と政局』 )
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