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元MONOZUKIマスターの独白

元MONOZUKIマスターの独白

第六篇第十七章~二十章

第六篇 労  賃
第十七章 労働力の価値または価格の
          労賃への転化

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 このような矛盾は別として、もし貨幣すなわち対象化された労働と生きている労働とが直接に交換されるとすれば、それは、まさに資本主義的生産を基礎としてはじめて自由に発展する価値法則を廃止するか、または、まさの賃労働によって立つ資本主義的生産そのものを廃止することであろう。12じかんの一労働日は、たとえば6シリングという貨幣価値に表わされる。第一に、等価と等価が交換されるとすれば、労働者は12時間の労働と引き換えに6シリングを受け取る。彼の労働の価格は彼の生産物の価格に等しいであろう。この場合には彼は彼の労働の買い手のために剰余価値を生産しないであろうし、6シリングは資本に転化されないであろうし、資本主義的生産の基礎はなくなってしまうであろうが、まさにこの基礎の上でこそ、彼は自分の労働を売るのであり、彼の労働は賃労働なのである。

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 商品市場では直接に貨幣所持者に向かい合うのは、労働ではなくて労働者である。労働者が売るものは、彼の労働力である。彼の労働が現実に始まれば、それはすでに彼のものではなくなっており、したがってもはや彼によって売られることはできない。労働は、価値の実体であり内在的尺度ではあるが、それ自身は価値をもってはいないのである。
 「労働の価値」という表現では、価値概念はまったく消し去られているだけではなく、その反対物に転倒されている。それは一つの想像的な表現であって、たとえば土地の価値というようなものである。とはいえ、このような想像的な表現は生産関係そのものから生ずる。それらは、本質的な諸関係の現象形態を表わす範疇である。現象では事物が転倒されて現われることがよくあるということは、経済学以外では、どの科学でもかなりよく知られていることである。

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 さらに、人の見るように、一労働日の支払部分すなわち6時間の労働を表わしている3シリングという価値は、支払われない6時間を含む12時間の一労働日全体も価値または価格として現われる。つまり、労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠すのである。
 このことから、労働力の価値と価格が労賃という形態に、すなわち労働そのものの価値と価格に転化することの決定的な重要さがわかるであろう。このような、現実の関係を目に見えなくしてその正反対を示す現象形態にこそ、労働者にも資本家にも共通ないっさいの法律概念、資本主義的生産様式のいっさいの欺瞞、この生産様式のすべての自由幻想、俗流経済学のいっさいの弁護論的空論はもとづいているのである。

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 他方、資本家のほうを見れば、もちろん彼はできるだけ多くの労働をできるだけ少ない貨幣で手に入れようとする。だから、実際に彼が関心をもつのは、ただ労働力の価格と労働力の機能がつくりだす価値との差だけである。だが、彼はどんな商品でもできるだけ安く買おうとするのであって、いつでも、自分の利潤は価値よりも安く買って高く売るという単純な搾取から生ずるのだと考えているのである。それゆえ、もし労働の価値というようなものが現実に存在していて彼がこの価値を現実に支払うのだとすれば、資本というものは存在しないだろうし、彼の貨幣も資本には転化されないだろうということは、彼には考えられないのである。

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 とにかく、「労働の価値及び価格」または「労賃」という現象形態は、現象となって現われる本質的な関係としての労働力の価値および価格とは区別されるのであって、このような現象形態については、すべての現象形態とその背後に隠されているものとについて言えるのと同じことが言えるのである。現象形態のほうは普通の思考形態として直接にひとりでに再生産されるが、その背後にあるものは科学によってはじめて発見されなければならない。古典派経済学は真実の事態にかなり近く迫っているが、それを意識的に定式化することはしていない。古典派経済学は、ブルジョアの皮にくるまれているかぎり、それができないのである。

第十八章 時間賃金
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・・・たとえば、労働力の日価値は3シリングで、これは6労働時間の価値生産物であり、1労働日は12時間だとすれば、1労働時間の価格は3シリング/12=3ペンスである。このようにして見いだされる1労働時間の価格は労働の価格の尺度単位として役だつ。

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 しかし、一般的法則としては次のようになる。日労働や週労働などの量が与えられていれば、日賃金や週賃金は労働の価格によって定まり、労働の価格そのものは、労働力の価値の変動につれて、または労働力の価格が労働力の価値からずれるのにつれて、変動する。反対に、労働の価格が与えられていれば、日賃金や週賃金は日労働や週労働の量によって定まる。

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 もし1時間賃金が、資本家が日賃金や週賃金を支払う約束をしないでただ自分が労働者を働かせたいと思う労働時間の支払だけを約束するという仕方で確定されるならば、資本家は最初に1時間賃金つまり労働の価格の度量単位の算定の基礎になった時間より短く労働者を働かせることができる。この度量単位は 労働力の日価値/与えられた時間数の労働日  という比率によって規定されているのだから、それは、労働日が一定の時間数でなくなれば、もちろんなんの意味もなくなってしまう。支払労働と不払労働との関連はなくされてしまう。今では、資本家は、彼の自己維持のために必要な労働時間をゆるすことなしに、労働者から一定量の剰余労働を取り出すことができる。資本家は、就業の規則性をまったく無視して、ただ便宜や気ままで一時的な利害にしたがって極度の過重労働と相対的または全部的失業とをかわるがわるひき起こすことができる。彼は、「労働の正常な価格」を支払うという口実のもとに、労働日を、労働者には少しも相応の代償を与えることなしに、異常に延長することができる。それだからこそ、このような1時間賃金を押しつけようとする資本家たちの企てに反対して、建築部門で働くロンドンの労働者たちのまったく当然な暴動(1860年)も起きたのである。労働日の法的制限はこのような無法に終末を与える。といっても、もちろん、それは機械の競争や充用労働者の質の変化や部分的恐慌や一般的恐慌などから生ずる過少就業に終末を与えるものではないが。

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 「労働の価格が与えられていれば、日賃金や週賃金は供給される労働の量によって定まる」という法則からは、まず第一に次のことが出てくる。すなわち、労働の価格が低ければ低いほど、労働者が単にみじめな平均賃金を確保するだけのためにも、労働量はますます大きくなければならず、言い換えれば、労働日はますます長くなければならない、ということである。この場合には、労働の価格の低いことが労働時間を長くすることへの刺激として作用するのである。
 ところが、それとは逆に、労働時間の延長もまた労働の価格の低下を、したがってまた日賃金の低下をひき起こす。・・・・・もし1人が11/2人分とか2人分とかの仕事をするとすれば、市場にある労働力の供給は変わらなくても、労働の供給は増大する。このようにして労働者のあいだにひき起こされる競争は、資本家が労働の価格を押し下げることを可能にし、労働の価格の低下は、また逆に資本家が労働時間をさらにいっそう引き延ばすことを可能にする。しかし、このような、異常な、すなわち社会的平均水準を越える不払労働量を自由に利用する力は、やがて、資本家たち自身のあいだの競争手段になる。商品価格の一部分は労働の価格から成っている。労働の価格のうちの支払われない部分は、商品価格では計算しなくてもよい。この部分は商品の買い手にただで贈ってもよい。これは、競争が駆り立てる第一歩である。競争が駆り立てる第二の一歩は、労働日の延長によって生みだされる異常な剰余価値の少なくとも一部分を同様に商品の販売価格から除くことである。このようにして、異常に低い商品の販売価格がまずところどころに形成され、しだいに固定されて、以後はそれが過度な労働時間のもとでのみじめな労賃の不変な基礎になる。

第十九章 出来高賃金

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 出来高賃金は時間賃金の転化形態にほかならないのであって、ちょうど時間賃金が労働力の価値または価格の転化形態にほかならないようなものである。

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 出来高賃金という形態も時間賃金という形態と同じように不合理である。たとえば、2個の商品は、それに消費された生産手段の価値を引き去れば、一定時間の生産物として6ペンスの価値があるのに、労働者はそれにたいして3ペンスという価格を受け取る。出来高賃金は、直接には実際少しも価値関係を表してはいないのである。

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 出来高賃金は、資本家に、労働の強度を計るためのまったく明確な尺度を提供する。ただ、前もって確定され経験的に固定されている商品量に具体化される労働時間だけが、社会的に必要な労働時間と認められて、そういうものとして支払われる。・・・・・
 この場合には、労働の質や強度が労賃の形態そのものによって制御されるのだから、この形態は労働監督の大きな部分を不要にする。したがって、この形態は、前に述べた近代的家内労働の基礎をなすと同時に、搾取と抑圧との階層制的編成された制度の基礎をなすのである。この制度には二つの基本形態がある。出来高賃金は一方では資本家と賃金労働者とのあいだに寄生者が介入すること、すなわち仕事の下請け(subletting of labour)を容易にする。仲介人たちの利得は、ただ、資本家が支払う労働の価格と、この価格のうちから仲介人たちが実際に労働者に渡す部分との差額だけから生ずる。この制度はイギリスではその特色を生かして “Sweating/System”
(苦汁制度)と呼ばれている。他方では出来高賃金は、資本家が主要な労働者――マニュファクチュアでは組長、鉱山では採炭夫など、工場では本来の機械工――と出来高当たり幾らという価格で契約を結び、その価格で主要な労働者自身が自分の補助労働者の募集や賃金支払いを引き受けるということを可能にする。資本による労働者の搾取がこの場合には労働者による労働者の搾取を媒介として実現されるのである。

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・・・・・言い換えれば、同じ時間で生産される個数が増加し、したがって同じ1個に充用される労働時間が減少するのと同じ割合で、出来高賃金は引き下げられるのである。このような出来高賃金の変動は、それだけならば純粋に名目的であるのに、資本家と労働者のあいだに絶えまのない闘争をひき起こす。なぜかといえば、資本家が実際に労働の価格を引き下げるための口実にそれを利用するからであるか、または、労働の生産力の増大には労働の強度の増大が伴っているからである。あるいはまた、出来高賃金の場合にはあたかも労働者は彼の生産物に支払われるのであって彼の労働力に支払われるのではないかのように見える外観を、労働者がほんとうだと思いこみ、したがって、商品の販売価格の引き下げが対応しないような賃金の引き下げには抵抗するからである。
 このような要求を資本は、当然、賃労働の性質についてのひどい考え違いとしてかたづけてしまう。資本は、このような、産業の進歩に課税しようとする思い上がりに怒声を浴びせて、労働の生産性は労働者におよそなんの関係もないのだときっぱり言い切るのである。

第二十章 労賃の国民的相違

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 ある一国で資本主義的生産が発達していれば、それと同じ度合いでそこでは労働の国民的な強度も生産性も国際的水準の上に出ている。だから、違った国々で同じ労働時間に生産される同種商品のいろいろに違った分量は、不等な国際的価値をもっており、これらの価値は、いろいろに違った価格で、すなわち国際的価値の創意に従って違う貨幣額で、表現されるのである。だから、貨幣の相対的価値は、資本主義的生産様式がより高く発展している国民のもとでは、それがあまり発展していない国民のもとでよりも小さいのである。したがって、名目賃金、すなわち貨幣で表現された労働力の等価も、第一の国民のもとでは第二の国民のもとでよりも高いであろうということになる。といっても、このことが現実の賃金にも、すなわち労働者が自由に処分しうる生活手段にもあてはまる、という意味ではけっしてないのである。
 しかし、違った国々での貨幣価値のこのような相対的相違は別としても、しばしば見られるように、日賃金や週賃金などは第一の国民のもとでは第二の国民のもとでよりも高いが、相対的な労働の価格、すなわち剰余価値に比べての労働の価格も、生産物に比べての労働の価格も、第二の国民のもとでのほうが第一の国民のもとでよりも高いのである。



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