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世の中には「人間は生まれつき善の資質を持っている存在だ」という「性善説」と、その逆に「人間は生まれつき規則や教育や罰則で管理しないと悪いことをしてしまう資質を持っている存在だ」という「性悪説」と呼ばれるものがあります。 「子どもはのびのびと育てるべきだ」という考え方は「性善説的な感覚」がその背景にあり、「子どもは厳しく育てないと困った人間になってしまう」という考え方は「性悪説的な感覚」がその背景にあります。 中国を舞台にした長編小説「大地」を書いたパール・S・バックは若いころは性善説を信じていたけど、年を取ってくると色々な体験を通して性悪説に変化したそうです。それだけ苦しい体験をいっぱいしたのでしょう。 確かに世の中には「良いことをして喜ぶ人たち」もいますが、逆に「悪いことをして喜ぶ人たち」もいます。 そのような人に「悪いことを止めよう」などと言っても無駄です。善悪の基準が違うのですから。 ただ実際には、そこまで「悪い人」はそれほど多くはありません。でも、私たちはゆとりがある時には「人のために」という活動をすることが出来ますが、ゆとりがなくなってくると自分を守ることだけに夢中になってしまいます。 苦しい状況の中で、自分を犠牲にしてまで他の人のために尽くそうとする人はそれほど多くありません。 また一般的に、禁止されていることはやらなくても、禁止されていないことに関しては自分の欲望を優先して行動してしまう人はいっぱいいます。 禁止されていることでも、誰も見ていなければやってしまう人もいっぱいいます。 子どももまた自分の欲望に従って行動しています。 だからこそ、「人間がちゃんと社会を維持して、その社会で人間らしく生きるためには規則や罰則が必要なのだ」と考えるわけです。 それが「性悪説」の根拠です。 石原慎太郎などはこの考えのようです。そして、「子どもは規則でしばり、しっかりと管理していないとちゃんと育たない」と思い込んでいる人も、「性悪説」の信者です。 でも、人間には生まれつき「愛すること」と「愛されること」に喜びを感じる感性が備わっています。 仲間とつながりたいという感性も、人に喜ばれることを喜ぶ感性も、美しいものや調和を喜ぶ感性も、成長を喜ぶ感性も備わっています。 自分は人のために犠牲になることが出来なくても、他の人のそのような行為に涙することが出来る感性は持っています。 確かに子どもは自分の欲望に従って行動しています。でも、それは大人にとっては「困ったこと」ではあっても、子どもにとっては「必要なこと」であって、「悪いこと」ではありません。 どうしてそれが「悪いこと」になってしまうのかと言うと、大人たちが善悪の基準を「社会的価値観」に求めてしまっているからです。 子どもたちは「生命の働き」には素直に従いますが、「社会的価値観」に従う感性は持っていません。なぜなら、子どもたちにとって一番大切なことは「自分自身の成長」であって、大人たちのご機嫌をとることではないからです。 善悪の基準を社会的価値観に求めている人たちは、戦争で人を殺すことも「善」として考えます。 ナチスドイツの時代は、ユダヤ人を殺すことも「善」として考えられていました。今では「悪」として認知されていることでも当時の現場にいた人たちにとっては「善」だったのです。 それに対して、「性善説」の人たちの「善」は変化しません。なぜなら最初から「人間の本質」や、「生命の本質」や、「自然」というような「変化しないもの」を「善」の基準にしてしまっているからです。 ですから、どんなに社会や時代が変わっても「性善説」の人は「人が人を殺すのはよくない」と考えます。 また子どもは「善なる存在」だと考えます。 まただから、国や文化や宗教が違っても「良き行い」には素直に共感することが出来るし、お互いに理解し合うことも出来るわけです。 そして、子どもの時に、その「人間の本質」や、「生命の本質」や、「自然」というものの素晴らしさを実感できなかった人が、「性善説」を肯定することが出来ずに、「善」の基準を「社会」に求めるのだと思います。 でも、それは「自分の生命を支えている働き」を肯定することが出来ないということでもあるので、そのような人は子どもの時に感じていた「根拠のない自己肯定感」を失うことになります。 そして、社会に認められることで自己肯定感を得ようとします。 ちなみに「性善説」を信じている人たちの根拠は、この「根拠のない自己肯定感」です。 ですから、「性善説」を信じていない人たちに「性善説の正しさ」を説得するのは困難です。
今私たちが直面しているのは「文明と言う病」です。これは文明というものが不可避的に持っている負の側面です。 「文明」は本質的にピラミッド型構造でしか存在することが出来ないので、その内部での循環が停止し、新陳代謝が困難になり、その結果老化が進み、内部から崩壊して行くのです。 それに対して、「文化」は循環によって支えられています。だから、文明が進み過ぎると文化が崩壊するのです。今、私たちが向き合っている「心の崩壊」は「文化の崩壊」の表れでもあるのです。「心」を支えているのが「文化」だからです。 その文明社会の老化は、外部に敵が存在しなくなったり、共通の目標を失った段階で急激に進行します。 外部に敵が存在していたり、全員が共通の目標を持っている時には、その敵と戦ったり、目的を達成するために「文明の力」を必要としているため、内部の結束が強まるのですが、そういうものが消えてしまうと底辺に存在している人々にとってはみんなを支えなければならない理由が存在しなくなってしまうのです。 今、安易に年金を受給しようとする人たちが増えて問題になっていますが、彼らにとっては「ただでもらえるものをもらわない理由」など存在していないのです。 倫理、道徳、恥、常識・・・・そういうものは何らかの「希望」を持つことが出来る人たちの概念です。 生まれた時から社会の底辺で生きていて、満足な教育も受けることが出来ず、毎日生きるか死ぬかという生活を行っている人たちや、教育は受けていても小さい時から否定され続けて、自己肯定感と希望を失ってしまった人たちにはなんの関係もない概念です。 幼いころから、誰からも愛されず、誰からも大切にされてこなかった人たち、社会から見捨てられた人たちに、「そんな自分勝手なことをしたらみんなが困るだろう」など常識的なことを言っても、鼻の先で笑われるだけです。 よく、電信柱などに「暴走行為はみんなが困りますからやめましょう」などと書いてあるのを見かけますが、あれは全くナンセンスです。 暴走行為をしている人たちは、みんなが困るのを見て喜んでいるのですから。 「生命を大切にしよう」という言葉も同じです。「生命」というものの大切さを感じることが出来ない人に、「生命を大切にしよう」と呼びかけても無意味なんです。 「倫理」や「道徳」や「恥」といったようなものは、「文明」というピラミッドが壊れてしまっては困る人たちの概念なんです。それを、ピラミッドに苦しめられて、ピラミッドが崩壊することを望んでいる人たちに求めるのは全くのナンセンスです。 「死刑になりたいから人を殺した」という人に、「生命の大切さ」を説いても無意味です。 「自分には価値がない」と思っている人たちに、「自分を大切にしなさい」などと言っても無意味です。 じゃあ、どうしたらいいのかということですが、一人ひとりが「自分を大切にする」ことに目覚めていくしかないのです。他の人が教えたり、押しつけるのではなく、自分自身で目覚めて行くしかないのです。 その時、「芸術的な活動」(創造的な活動)や、人から人へと直接「受け継ぐ」「手渡す」というつながりが非常に大きな働きをするのです。 心をこめて何かを創り出すと、その何かは「宝物」になります。すると、今度はその宝物によって、自分が「大切な存在」になるのです。 心をこめて子育てをしていると、子どもが宝物になります。すると、その子どもによって自分が大切な存在になるのです。ただしこれは、「子どもがそう思う」ということではなく、自分にとって自分が「大切な存在」になるということです。 人は自分が守っているものに守られ、創るものに創られ、育てているものに育てられ、愛する者に愛され、教えているものに教えられるのです。 子どもが泥団子を一生懸命に磨いてピカピカにした時、子どもはその泥団子によってピカピカに磨かれたのです。 言っている意味が分かりますか。 だから上手・下手を競わせてはいけないのです。 そして、ここが非常に重要な所なんですが、「文明」が生まれるためにはピラミッド構造が作れるくらいの沢山の人数と、その沢山の人数の人々が暮らすことが出来るほどの広くて豊かな土地が必要ですが、「芸術」や「文化」は個人や家族や地域や仲間の中からでも創り出すことが出来るということです。
現代社会は競争社会です。日本でもかなりすごいのに、話に聞くと韓国やシンガポールなどはもっともっとすごいようです。 当然のことながら、競争意識が強い国では小さい時から子どもを追い立てます。子どもが嫌がっても、追い立てて他の子よりも早く社会的に有利な能力を身につけさせないと、落ちこぼれてしまい、不幸になってしまうという不安があるからなのでしょう。 シンガポールの病院で赤ちゃんを産んだ人の話では、生まれたばかりの赤ちゃんにも「頭が良くなる薬?」を飲ませているようです。それでその人がその薬を拒否したら、「赤ちゃんの時から競争は始まっているのよ」と脅かされたそうです。 子育てにおいては子どもを追い立てても決していいことはありません。確かに、早期教育をすれば、お金を得るための能力は身につくかもしれませんが、心もからだも不安定になり、「幸せを感じる能力」や「幸せに生きるための能力」は確実に育たなくなるでしょう。 もっとも、競争意識が身についてしまっている人は「お金こそが幸せなんだ」「お金がなくても幸せだなんて嘘だ」と思い込んでいるでしょうから、『「幸せを感じる能力」や「幸せに生きるための能力」など誤魔化しだ』と言うでしょうけど・・・。 そのような人は「お金こそ幸せ」なんでしょうから、それはそれでいいのかも知れませんが、ただ確実に言えることは、競争社会では一部の人しか「幸せ」を手に入れることが出来ないということです。 競争社会では勝ち組は少数しか存在することが出来ないのです。逆に言うと、そのことを知っているから、みんな競争するわけです。 それはつまり、少数の「勝ち組の幸せ」は多数の「負け組の不幸」の上に成り立っているということです。 私にはそれ自体が不幸な状態だと思えるのですが、「お金がすべて」という価値観の人は「自分さえよければOK」と思い込んでいるのでしょう。 そのように過度の競争意識に支配されてしまっている国に共通しているのは、自分の国の歴史や文化を喪失してしまっているということです。 具体的に言うと、欧米化される以前の歴史や文化が消えてしまっているのです。なぜなら、それ以前の歴史や文化を否定する形で欧米化を進めてきたのですから。 自国の歴史や文化を否定しないことには欧米に追い付くことが出来ない、という焦りがあったのです。日本でも明治維新の時や戦後それは徹底して行われました。 「風の交響曲」という大好きな映画があるのですが、その映画の中ではタイの民族楽器やそれにつながる文化を守ろうとする人々の姿が描かれています。 タイでも、戦争中は徹底的に「古いもの」は否定されたのです。音楽や楽器すら否定されたのです。 ただ、日本と違うのは(映画を見る限り)タイでは軍部の圧力で「古いもの」を捨てさせたのに、日本では日本人自らが喜んで「古いもの」を捨ててしまったということです。 日本人は自ら進んで「根なし草」になったのです。その根なし草は、競争に勝つことによってしか、自分の位置を固定させることが出来ません。 足場として存在していた大地を失ってしまったため、今度は仲間を足場にするのです。それはつまり、他者の犠牲の上にしか自分の立場を築くことが出来ないということです。 ヨーロッパに行って感じるのは、300年前の人たちの生活と、現代人の生活がつながっているということです。田舎の方に行くと町の風景すらも300年前からそれほど大きく変化していません。 そこでは、人から人へとちゃんと歴史や文化がつながっているのです。 そのような社会では過度の競争は起きません。なぜなら、過度の競争は人と人のつながりや、社会や文化の多様性を崩壊させ、せっかく守ってきた歴史や文化を失うことになってしまうからです。 「守るべきもの」を受け継ぎ、伝えようとする意識を持っている社会の人々は無駄な競争などしないのです。 言い換えると、いくら「競争をやめよう」と訴えても、「守るべきもの」が存在していない社会や状況では競争はなくならないということです。 これは個人でも同じで、「守るべきもの」を受け継いでいる人は無駄な競争などしないのです。「守るべきもの」を持っていない人は自分自身のアイデンティティーにおいて不安だから競争するのです。 だから誰かを競争させようとする人は、その人が大切にしていることを否定するのです。 そして、子どもを競争に追い立てている人は、「子どもが大切にしているもの」を否定するのです。 この競争社会を終わらせるためには、子どもが大切にしていることを大切にしてあげることです。それが「幸せな社会」を作るための第一歩です。 そして、自分自身もまた「本当に大切なこと」に目覚めることです。それが「幸せな人生」を生きるための第一歩です。
マーチさんから 初めての幼稚園の運動会であまりの完成度の高さに違和感を感じました。ダンスも衣装も太鼓もかけっこも本当にすばらしいのです。きっと何度も練習して、先生がつきっきりで教えたのだろうとありがたくも思いましたが、、、、何ていえばいいか、分からない違和感がありました。お友達のお母さんは、「小学校の運動会は完成度が低いのよ」と言っていました。私は幼稚園や小学校の運動会は少しくらい失敗やぐちゃぐちゃがあってもいいと思うのですが、皆さん完成されたshowを期待しているのだなとなんだか違和感を感じました。森の声さんはどう思われますか? というコメントを頂きましたので、これに答えさせていただきます。 子ども達が求めるのは「達成感」であって「完成度」ではありません。 造形なんかでも、一生懸命に作って、すごい作品が出来たのに、最後はみんなで遊んで、ボロボロになってしまうこともありますが、“あー、楽しかった”と言うばかりで、ボロボロになってしまったことなど気にしません。 でも、大人は目に見える形での完成度を求めます。それは「安心」が欲しいからです。 そこに、子どもと大人の悲しいすれ違いがあります。 その達成感を得るためには自由意思に基づく能動的な行動がなければなりません。 その場合、親や先生は指示命令によって子どもを指導し、完成度の高い作品を作らせるのではなく、子どものやる気を引き出し、より自由に、より能動的に活動できるように支えてあげることが必要になります。 指示命令によってどんなに立派な作品が出来あがっても、自分の自由意思に基づく能動的な行為の結果でなければ、子どもはその作品を誇ることが出来ません。当然のことながら達成感を得ることも出来ません。却って、無力感を感じるばかりです。 でも、幼稚園などの発表会で親が見ることが出来るのはその「作品」だけです。そして親は、その作品の出来、不出来によって先生や幼稚園の努力を評価します。 だから先生や幼稚園は必死になって「立派な作品」を作らせようとします。 つまり、マーチさんがご指摘くださったことは「幼稚園の問題」ではなく「親の問題」なのです。幼稚園は「親のニーズ」に答えているだけなのです。 その「親のニーズ」の背景には、「不安」があります。 我が子の「子どもらしさ」を認め、受け入れてしまったら、落ちこぼれてしまうのではないか、という不安です。 お母さんが「親」として落ちこぼれてしまうことへの不安もあるでしょう。 そしてこれは、多様性を失った社会に生きている現代人の宿命みたいなものです。多様性が失われた世界では必然的に比較や競争が起きるのです。 そして落ちこぼれることに対する不安も生まれます。 でも、多様性に支えられている社会では、比較し、競争することには意味がありません。トンボとチョウチョを比較しても意味がないのです。 でも、全部がトンボの世界では、競争が起きます。餌も、テリトリーも、行動パターンも一緒だからです。 マーチさんが感じられた違和感の背景にはこの「多様性の喪失」の問題があるのです。そして、この視点から論じないことには、本当の問題点も見えてきません。 そうでないと、マーチさんが「なんか変だ」と言っても、他の人からは「変なのはあなたの方でしょ」とか、「それはあんたの個人的な趣味でしょ」など言われるばかりです。 でも、この問題は単に「趣味の違い」で済ますことが出来るようなレベルの問題ではありません。 多様性を失ってしまった種や社会は活力を失い、やがて滅びてしまうのが自然の摂理だからです。 また、多様性のない環境に育った子どもは自分の可能性を広げることが出来ません。そして、他の人の目ばかり意識して、競争することばかりを考えるようになるでしょう。 そのように育ってしまった親がまた幼稚園に同じことを望むのです。 じゃあどうやったら多様性を取る戻すことが出来るのかと言うと、一人ひとりが「自分」に目覚めるしかないのです。そのためには「感覚の目覚め」が必要になります。そして感覚が目覚めるためには「芸術的な活動」が必要になります。 芸術には「個のめざめ」を助け、そしてその「個」と「個」をつなぐ働きがあるのです。 芸術はそれ自体は何の役にも立ちませんが、子どもの成長を促す「触媒」として働くのです。
私は色々な活動をしていますが、その出発点は造形教室です。その造形教室ではテーマは自由で、絵を描いたり、木で何か作ったり、モーターを使ったり、陶芸をしたり、子どもがやりたいことを何でも自由にやらせています。 どうしたらいいのか分からない子には色々なものを見せ、色々なものを提案し、一緒に考えます。 このような活動を20年以上やっているのですが、その20年の間に子どもたちが大きく変わって来ました。 簡単に言うと、「買っちゃえばいいのに、なんでわざわざ時間と手間暇かけてそんなことするの?」という感性の子が非常に増えてきたのです。 生徒もだいぶ減って来ました。 そもそも、子どもたちが「自分で作るってどういうこと」ということ自体が分からなくなって来ています。 見たことも聞いたことも、もちろん体験したこともないことですから。当然、「作る」ということに対する興味もありません。 昔は生活の中に「作る」という行為がありました。古くなったセーターは糸をほどき編み直しました。電子レンジなどありませんでしたから、毎日のお料理は最初から全部自分で作りました。ズボンに穴があけば布を当て、ほつれれば縫いました。棚やちょっとした物はお父さんがトンカチとノコギリで作りました。 子どもの遊びの中でも、子どもたちはみんなナイフを持っていて、遊び道具を自分たちで作っていました。 ビニールでできた凧など売っていなかったし、買ってもらえなかったので、自分で竹を割いて竹ヒゴを作る所から凧を作り始めました。 でも、今の子どもたちが一番知っているのか「買う」という行為だけです。そして、「作る」ということに関してはテレビで見る「ワクワクさん」ぐらいです。 そのため、教室に来た子は最初みんな、「何でも簡単に作れる」と思い込んでいます。しかも、お店で売っているように上手できれいなものが。 そのため、「ここは自分で作りたいものを自由に作っていいんだよ」と言うと、ノコギリも使えないような子が、全くとんでもないものを作りたいと言います。 それで、「それは君にはまだ無理だと思うよ」と言うのですが、「作る」ということを見たことも、聞いたこともないわけですから、「無理」ということの意味すらも分からないのです。 それで「先生が教えてくれれば出来るからやりたい」などと言います。 養老さんの「バカの壁」ではないですが、世の中には教えてもらっても出来ないこと、分からないことは山ほどあるのに、あまりに生活体験が少ないためそれ自体が分からないのです。 ゲームの中ではアイテムさえあれば何でもできるので、その感覚なのかもしれません。 それで、とりあえずやらせてみるのですが、当然のことながら始めてすぐに自分の予想とは違うことに気づきます。 「○○を作りたい」と言う子に、「○○の作り方」を説明するのですが、「何でこんな説明を聞かなければならないのか」ということすら分かりません。だから「作り方」を教えているのに、「そんなんことはどうでもいいから作り方を教えて」と言うのです。 「だからそれを今教えているんだ」と言うのですが、「私が言っていること」と、「自分がやりたいこと」や、「自分がやらなければならないこと」が子どもの頭の中でつながらないのです。 どうも、「作る」ということを「電子レンジに入れてチンする」ような感覚で理解しているようなのです。 そして子どもは、「作る」ということが「こんなにも時間がかかって、こんなにもかったるくって、こんなにも難しくって、しかも下手くそなものしか出来ない」という現実を知ります。 ある子どもは自分が作ったものを見て「こんな下手なものしか出来ないんだったら買った方が良かった」と言いました。 それで、教室に来た最初は「あれも作りたい、これも作りたい、ぼく作るの好きなんだ」と言っていた子が、急に「作りたいものがない」と言いだします。 そこから何年もかかって、「自分で作る」ということに目覚めていく子もいますが、「スポーツ教室などに行く」と言ってやめて行く子もいます。昔は6年生までいる子がいっぱいいたのですが、最近では高学年になるとやめていく子の方が多いです。 6年生頃になれば、「作る」ということを理解し、体験のなさを知識や思考力で補って、それなりに「作る」ということに目覚めていくのですが、今の子どもたちは、そこまで行く前にやめてしまうのです。 でも実は、それは子どもたちの問題以上に、お母さんの問題なのです。 今、サッカーやピアノや英語などには価値を感じても、造形(作るということ)に対して価値を感じているお母さんは多くないのです。 そして、お母さんが造形に興味のない子どもほど「作ること」に対する興味も感性もありません。 子どもが下手くそなものしか作ることが出来なくても、時には何も作らなくても、とにかく作ることの大切さを子どもに伝えたいと願って辞めさせずに教室に通わせてくれているお母さんの子は、最初はどうしていいのか分からなくても、次第に作ることに目覚めていくのです。 と、長いですがここまでが前置きです。 「作る」という体験から「買う」という体験に移行するのは簡単です。でも、「買う」という体験が先に来てしまうと、「作る」という体験が出来なくなってしまうのです。 「歩く」という体験から「自動車に乗る」という体験に移行するのは簡単です。でも、先に自動車に乗ることに慣れてしまった子は歩かなくなります。 「手を使う」ことから「機械を使う」ことに移行するのは簡単ですが、その逆は困難です。 子どもは自然が豊かで強い刺激がなく、落ち着いた環境の中で豊かな感性を育てていきます。 そのような子でも、思春期が来れば刺激が強い都会の中でも生活できるようになります。でも、その逆は困難です。小さい時から強い刺激の中で育った子は静かな環境の中では暮らすことが出来ないのです。 子どもの成長には順序があって、1,2,3,4,5、6・・・・と連なっている成長を、1からではなく、最初に5を入れてしまうと、次には6以降しか入れることが出来なくなってしまうのです。 あとから、1,2,3,4を取り戻そうとしても、取り戻せないのです。それは、家を作る時に、柱を立ててしまってからでは基礎を直すことが出来ないのと同じです。 さらに困ったことに、6以降の多くは失ってしまった1,2,3,4を前提としていることが多いということです。 それでも、家が建ってしまえば基礎の部分は見えなくなります。また、基礎がいい加減でも見かけは立派な建物を建てることが出来ます。ても、強い地震(困難)に耐えることが出来ません。それが今の若者たちの状態です。 自分の人生を自分自身のものとして造形する能力が育っていないのです。 自分の人生を自分自身のものとして生きるということは、自分の人生を造形することと同じなのです。この造形だけは「買って済ませる」とか、「機械にやらせる」とか、「レンジでチン」というわけにはいかないのです。 自分の頭で考え、自分の心と感覚で感じ、汗水たらして自分の手とからだで作り上げなければならないのです。それは、子どもの時の造形の体験と同じなのです。 あと、これは最も大切なことなんですが、赤ちゃんが生まれたら、とにかく「生まれてきてよかった」という体験をいっぱいさせてあげることです。 ここから全てが始まるのです。 知的な能力は後からでも育ちますが、この体験によって育つものだけは後からでは取り返すことが出来ないのです。
今日の文章は「横浜自然育児の会」の会報のために書いたものですが、亮月さんさんからのコメントとも関係していると思われるので、ここでもご紹介させていただきます。 「トロル」とは毎月やっている外遊びの会のことです。 ************************ 5月のトロルは「色水遊び」でした。食紅で作った「赤・青・黄」の三色の色水を混ぜて「自分の色」を作って遊ぶ遊びです。ちなみに食紅を使う理由は、小さい子は色水を時々飲んでしまう子がいるのと、混色がきれいだからです。 その「色水遊び」をすると、3才前後の小さい子のほとんどが全ての色を混ぜてしまい、茶色か黒っぽい色になってしまいます。そのため、いっぱい色水を作っても全部同じ色になってしまいます。計画的にきれいな色を作ることが出来るのは年長さんぐらいからのような気がします。 それでお母さんとしては、「そんなに全部は混ぜないの」とか「もうそこでやめよう」とか言って、きれいな状態の色水を作らせようとします。でも私は「好きにやらせてあげて」と言います。なぜなら、全部の色を混ぜてしまう状態の子はまだ「きれいな色」には興味がないからです。興味がないことを求められればそれは強制になるし、楽しくないし、またその体験から学ぶことも出来なくなるでしょう。 子どもだけでなく大人もそうなのですが、人間は興味があることをやっている時にしか発見もないし、学ぶことも出来ないのです。 実は、その年齢の子どもたちが興味あるのは結果としての「きれいな色」ではなく、過程における「色を混ぜること」や「色が変化すること」の方なのです。もっと小さい子の場合は単なる水遊びですが、それもまたそれを楽しむことが出来る子どもにとっては大切な遊びです。 大人がどんなに大事なことだと思っても、子どもがそれを能動的に楽しむことがなければそれは子どもにとっては無用なものであり、そこから何も学ぶことはできないのです。むしろ、「押しつけられた」という否定的な記憶しか残りません。 実は、「能動的に楽しむことが出来る」ということがそのまま「必要なことである」ということの表れでもあり、またその体験が子どもの能動性を育ててもいるのです。 幼い子どもの心とからだの内側はものすごい勢いで変化しています。そのため、子どもの心とからだはその「変化」と共鳴するようなものに強く惹かれます。逆に、年を取ってくると心とからだの内側が変化しなくなります。だから「変化しないもの」と共鳴しやすくなり、「変化しないもの」に惹かれるようになります。人間は自分の「内側」と共鳴するものを「外側」にも求めるのです。ですから、その人がどのようなものを求め、どのようなものを楽しんでいるのかということを知れば、その人の心とからだの中の状態を知ることが出来ます。 ただ、年を取ってきて「変化しないもの」に惹かれるようになったとしても、その人の意識が単に「保守的な生活」や、「保守的な考え方」に固執するようになるのか、もしくは「普遍的真理」に向かうのかは、その人の生き方の問題です。 小さい時にはグチャグチャやっていた子でも、年中さん、年長さんぐらいになるとちゃんと色を作るようになります。それは、偶然による変化を楽しむことから、能動的、意図的に変化を創り出すことの方を楽しむようになるからです。ただしそれは、それ以前にグチャグチャ遊びを体験していた子の場合です。グチャグチャ遊びを体験したことがないまま、年長さんや小学生になった子に色水遊びをさせると、年長さんや小学生でもグチャグチャ始めるか、知識に従って色を作るだけです。そして、なかなか能動的、意図的に変化を創り出す段階に移行しません。 一般的にそのような子どもたちは、ただ大騒ぎをするか、すぐに飽きてしまいます。なぜならまだ「能動的意志」が目覚めていないからです。 「能動的意志」というものは自由意思に基づく、自由な行動によって目覚めるため、それを簡単に目覚めさせることが出来るのは、知識や常識にとらわれる以前の子どもたちだけなのです。知識や常識を気にするようになってしまってからでは自由に活動することが出来なくなってしまうため、能動的意志を目覚めさせるのが困難になってしまうのです。 ちなみに、大人になってからでも自我の働きによってそれを目覚めさせることは可能ですが、実際にはかなり困難です。子どものように「楽しみながら」というわけにはいきません。なぜなら、知識や常識によって固まってしまった自分を壊さなければならないからです。そのため「修行」が必要になります。 グチャグチャにはそういう意味があり、だからこそ必要な体験でもあるのです。でも、知識や常識に捉われない状態での活動ですから、必然的に知識や常識に縛られている大人が好まないような結果になります。それで大人はそのような活動を止めようとしたり、丁寧に教えようとするのですが、その結果子どもは「自由」を体験できなくなり、能動的意志に目覚めることが困難になってしまうのです。 そんな時は子どもの行為を止めたり、指導したりするのではなく、子どものそばでお母さんが色作りをして楽しんでください。そうすると、そのお母さんの活動が目標になって、子どもの能動的意志が目覚めやすくなるのです。実は、能動的な意志が目覚めるためには自由意思に基づく体験だけでなく「お手本」や「目標」も必要なのです。 昔、子どもたちが異年齢の群れで遊んでいた頃には年上のお兄ちゃんやお姉ちゃんがその「お手本」や「目標」になっていましたが、一般的に今では「お母さん」しかその役割をこなせる人がいないのです。 このようなことは「色水遊び」だけでなく、子どもの活動全般に言うことが出来ます。子どもに伝えたいことがあったら、言葉で指導するのではなく、お母さんが楽しくお手本を見せるのです。「仲良く遊びなさい」と叱るのではなく、お母さんが仲間と仲良く遊んでいる姿を見せ、実際に我が子とも仲良く遊ぶのです。 子どもは見て学び、体験して学ぶ生き物です。言葉で説明しても学ぶことは出来ません。その扉が一番大きく開いているのがグチャグチャやっている時期なのです。
水はある時は液体であり、気体であり、個体でもあります。この三つの状態を持っているのが「水」です。でも、液体である時は気体や固体の状態の水を見ることは出来ません。気体である時は液体や固体である時の状態の見ることは出来ません。固体である時も同じです。 水は液体でもあり、気体でもあり、固体でもあるのですが、でも、水は液体ではありません。気体でも、固体でもありません。 今どのような状態であるのかは、その水が存在している状態が分からない限り言い表すことが出来ないのです。 ですから「水」というものの特徴を一言で言い表すことは出来ません。「ある時は、またある時は・・・」というように時空に限定された表現でないと言い表すことが出来ないのです。 でも、「水本体」はそのような「限定された時空」を超えた存在です。 ですから、時空を超えた世界に意識を向けることが出来ない人には、「液体としての水」、「気体としての水」、「固定としての水」が統合されることなく、この三つのものは「一つのもの」としてではなく、「三つのもの」として扱われます。 でも、時空に束縛されていない世界ではたった一つの存在です。それを科学ではH2Oと書き表します。でも、この記号を見て、水であり、気体であり、固体である水をイメージすることは困難です。 わけのわからないことを書いていますが、何が言いたいのかというと「真理」とは常に「時空を超えた所に存在している」ということです。 仏像には顔をいくつも持っている仏像も少なくありません。先日、奈良の興福寺で「阿修羅像」を見てきましたが、阿修羅像も顔をいくつも持っています。不動明王や観音様も顔をいっぱい持っています。 常識的には顔がいくつもあるなんてありえませんから、その姿に異様なものを感じますが、でも、時空を超えた世界に存在している真理を、無理やり現世的な表現にしてしまうと、あのような表現にせざるおえないのです。 それは「水」という神様の像を作るとしたら、中央に「H2O」の象徴としての像を作り、その側面や背面に「液体」や、「気体」や、「固体」としての姿を象徴するものをくっつけるのと同じです。 あの千手観音の異様な姿は「観音」という仏について説明した「説明像」なのです。あのような姿の仏様が存在しているなどと考えていたわけではないのです。 「真・善・美」という言葉があります。それで、私たちはこの世界には「真」と「善」と「美」という三つの大切なことがあるのだな、と理解します。 でも、それは違います。「本当に大切なこと」はたった一つなのです。その「たった一つのこと」がある時には「真」として現れ、またある時には「善」や「美」として現れるのです。 「心」と「からだ」も同じです。よく、「心とからだはつながっている」と言われますが、つながっているのではなく、もともと一つのものの現れなんです。それは「水」において、液体の水と気体の水と固体の水はつながっている」という表現と同じです。 こんなことを書いていると「だから何なんだ」とおしかりを受けそうですが、実はこのようなことは子育てや教育にも関係しているのです。 人間は「知・情・意・体」の四つの要素によって構成されている考え方があります。それで、私たちはそれぞれの要素を別々に育てようとしています。「知」はお勉強で、「情」は情操教育で、「体」は体育でなどというようにです。これは欧米的、科学的な思考方法なのでしょう。 でも、「意」だけは育て方が分かりません。 なぜ「意」の育て方が分からないのかというと、これらを別々のものとして考えてしまっているからです。 そして実は、これらを別々のものとして考えてしまっていては「知」も「情」も「体」も育てることが出来ないのです。 子どもは「知」「情」「意」「体」の寄せ集めではありません。子どもは「子ども」という一人の人間です。ただ、その「子ども」は「知」「情」「意」「体」という四つの顔を持っているということです。 だから、子育てや教育の場面では、「知」「情」「意」「体」に対してではなく、常に「子どもの本体」に働きかけるという意識が必要なのです。 お勉強を教える時も、情操的な活動をする時も、体操をする時も、「子どもの本体」に働きかけるようにするのです。すると結果として「意」も育つのです。 その「子ども本体」を「丸ごとの子ども」と言い表すことも出来ます。 でも、このようなことは、素朴な心で子どもと向き合っている人には言う必要がないことです。素朴な心の人はいつも「子どもの本体」と向き合っているからです。 そのような人はいつも「丸ごとの自分」で「丸ごとの子ども」と向き合っているのです。だから共鳴が起き、「知」「情」「意」「体」の全てが同時に育つのです。 それが「芸術的な子育て」であり、「芸術的な教育」なのです。 分析的、科学的、論理的な方法では「子どもの能力」を育てることは出来ても、「丸ごとの子ども」を育てることは出来ないのです。そのため「意」も育てることが出来ません。 ただし、それが出来るためには「丸ごとの自分」を感じ、受け入れ、肯定する必要があります。
私は、「芸術とは何か」ということを考えることは「幸せとは何か」ということを考えることとつながっているのではないかと思っています。 その「幸せの形」が昔と今とでは変わってしまったため「芸術の形」も変わってしまったのでしょう。 現代人が求めている「幸せの形」は自分の要求が満たされることです。現代人は、望むものが手に入れば幸せなんです。 そこでは「創造的であること」は意味を持ちません。それよりも「望むもの」を手に入れるためのお金や、権力や、情報の方が必要になります。 確かに、昔の人にとっても「望むもの」を手に入れることは「幸せ」の一つの形ではありました。だからお金や権力に執着する人もいっぱいいたのでしょう。その点に関しては今も昔も、東洋も西洋も同じです。 でも、それと同時に昔の人はその虚しさも知っていました。どんなにお金持ちになっても、どんなに権力者になっても「死」は必ず訪れます。そして、死ぬ時は生まれた時と同じように無一物です。 生まれた時は「からだ」を得ましたが、死ぬ時はその「からだ」すら捨てなければなりません。 その不安と恐怖が、人を「永遠なるものとのつながり」へと向かわせました。 神様や仏様を信じることも、その「永遠とのつながり」を得るための一つの方法でした。 さらに、権力者はお寺や教会を建てたり、多額の献金をしたりしました。また、「美」を求めました。「美」は人に永遠を感じさせてくれるからです。 昔の人は、ただ自分の要求を満たすだけでなく、「永遠なるもの」との一体化にも幸せを求めたのです。 これは全く不思議なことなんですが、人は「美」に永遠を感じるのです。だから「美」を求め、「美」に飽きることがないのです。 人間は飽きっぽい動物なので、色々なことにすぐに飽きてしまいます。だからファッションでも、車でも、家でも、流行やモデルチェンジがあるのです。 でも、夕日や花の美しさには飽きません。 名画や名曲にも飽きません。 絵描きは毎日絵を描いていても飽きません。 陶芸を作る人も、毎日陶芸を作っていても飽きません。 「人はなぜ、美に対しては飽きないのか」、これは「人間とは何か」ということを考えるための非常に大きなテーマです。 ファッションなどにはすぐ飽きてしまうということは、そこに「変化する楽しさ」はあっても「美」がないからなのでしょう。 現代人は「永遠」や「普遍的な美」を求めるのではなく、現世的、日常的な「変化」を求めています。そしてその「変化」によって経済活動が支えられています。「永遠」や「普遍的な美」を味わうためにお金は不要ですが、「変化」を楽しむためには「お金」が必要になります。 また、変化の中に幸せを求める生き方は必然的に消費を増大させます。破壊も進行します。どんなにリサイクルをしても、リサイクルの過程で自然を破壊しているので、長い目で見たら結果は同じ所に行きつきます。 このままでは地球上から人間が消えるという限界まで行ってしまう恐れがあります。 でも、人類の滅亡は人類にとっては絶望ですが、他の動物たちにとっては希望になるでしょう。皮肉なことに、人類は今、地球にとってそのような存在になってしまっているのです。 子どもたちが自然の中で仲間と遊んでいる姿は、それはそれは美しいものです。デパートの中で走り回っている子どもには困惑しますが、森の中で走り回っている子どもは美しいのです。 私は、人間は「自然と共に」という生き方が一番合っているような気がするのです。とにかく、その状態が一番美しく感じるからです。 その「自然と共に」という生き方に目覚めるためには、もう一度「美を求める心」を取り戻す必要があるのではないかと思うのです。 その「美」は自然からやってくるのです。人間には自然に「美」を感じる本能が埋め込まれているのです。それを無視しているからおかしくなってしまっているのです。 ですから「美」を大切にする人たちは、自然も大切にします。「資源」だから大切にするのではなく、「美しい」から大切にするのです。 でも、経済優先の人たちにはどうしてもその感覚が通じません。
私は「芸術的である」ということと「創造的である」ということを分けていません。いわゆる「芸術」と呼ばれているような絵画や音楽の分野でも、「芸術もどき」のものはいっぱい存在するし、一見芸術とは無関係なような分野でも「芸術的な仕事」は存在しているからです。 R.シュタイナーは「教育芸術」という言葉を使いました。「芸術教育」ではありません。「芸術のような教育」ということです。 宮沢賢治は農業を芸術にしようとしました。 ですから、「芸術的である」ということと、社会的ジャンルとしての「芸術」は異なるのです。 そして私が重要視しているのは「芸術的であること」の方です。幼い子どもは「芸術」には興味ありませんが、毎日芸術的に活動をしています。 その「芸術的である」ということは「創造的である」ということです。 幼い子どもには「無から有を創り出す能力」があります。それは「信じる力」と、「発見する能力」と、「イメージする能力」と、「楽しむ能力」を持っているからです。 でも、大人はその逆の能力を持っています。「有を無に帰する能力」です。それは、信じず、発見しようとせず、イメージせず、楽しまないからです。 大人はすでに知っていること、出来ること、持っているものを組み合わせて対応するだけで、無から有を創り出すようなことはしません。それは単なる作業であり、お仕事です。でも、だから楽しむことが出来ないのです。 ただ、「創造的であるということはどういうことなのか」ということが、創造的ではない人には伝わりにくいのです。 太極拳の動きは決まっています。ですから毎日太極拳をやっている人は毎日同じ動きを繰り返すことになります。でも、その同じ動きの繰り返しでも創造的に動くことが出来る人と、単なる作業のように動く人がいます。 この両者の違いは感覚的な違いなので機械で測ることは出来ません。この違いをマニュアル化することも出来ません。そして、創造的に動くことが出来る人が見れば、この両者の動きは全く異なる動きに見えますが、創造的に動くことが出来ない人にはその違いは見えません。 その違いは触れてみれば分かりやすいですが、見ているだけではなかなか分かりません。私の先生もよく触れさせました。 簡単に言うと、作業的に動いているだけの時には表面だけが動き、中は止まっているのです。でも、創造的に動いている時には内側が動き、外側は結果として動いているだけです。 腕一本動かすだけでも、「作業的動き」と、「創造的な動き」の両方が可能なのです。作業的に動かしているだけの腕は単なる「物」ですが、創造的に動かしている腕には「生命」がこもっています。 鉛筆や筆で一本の線を引くだけの時でもこの違いは現れます。作業的にひかれた線は記号のようであり、創造的にひかれた線は生き物のようです。 森光子主演の『放浪記』(ほうろうき)という舞台は2000回以上も上演されました。当然のことながら森光子は2000回同じ役をやり、同じセリフを言い、同じ動きをしました。でも、2000回も続いているということは毎回初演のように演じることが出来ていたということでもあります。 なぜなら、同じ作業の繰り返しになったとたん舞台は色あせ、退屈になり、お客が来なくなり、2000回も続くわけがないからです。 リピーターもいっぱいいたでしょう。そのような人は毎回同じ芝居を見るのです。でも、毎回感動するのです。だからリピーターになるのです。 名画と呼ばれるものも同じです。毎日見ても見あきないのが名画なのです。 それが創造的であるということであり、同時に芸術的であるということなのです。 見かけ的には全く同じでも、人間は本能的に「創造的な活動」には「生命」を感じ、単なる「作業」には「死」を感じるのです。だから子どもの遊びにも生命を感じるのです。 大人の目には子どもは毎日「同じこと」を繰り返しているように見えますが、子どもは毎日「新しいこと」をやっているのです。新しいことだから毎日楽しいのです。そこに気づかないと子どもの心を感じることは出来ません。 大人も毎日を「新しい日」として迎えることが出来るようになれば、毎日が楽しくなるのです。昨日の繰り返しだと思うから退屈するのです。 でも、この違いを理解し、実際に創造的に動くのは非常に困難です。 私も意識していれば出来ますが、意識していなければ出来ません。それが、子どものようにいつでも無意識にできるようになったら達人です。 偉大な芸術家でも、年を取ってくると次第に慣れが働き、「創作」が「作業」になってしまい、作品が退屈になってしまうことも多いのです。
マシュマロさんが 学級崩壊もイジメも引きこもりもニートも生活保護も、表面上は「問題」ですけど、その必然性はあると感じます。 と書いて下さいましたが、確かにその通りです。 簡単に生活保護に依存してしまう若者にも必然性はあり、それは必ずしも彼らだけの責任ではありません。 野菜を育てていて、その野菜の出来が悪かったとしてもそれはその野菜のせいではないのと同じです。だから私はそのような若者を責めているのではありません。そのような若者が増えてきていることの問題点を指摘しているだけです。 (これはマシュマロさんに対して書いているのではなく、結構そのように受け取ってしまう人が多いので一応書いています。) 野菜の例でいうと、それは育て方の問題かもしれません。雨が少なかったり、多かったり、雨が降る時期が悪かったり、寒すぎたり、熱すぎたりしたせいかもしれません。また、もっと別の原因があるのかもしれません。 このような問題を「個人責任」にすり替えてしまうと、本質的な問題を解決できなくなります。でも、そのような問題にしっかりと目を向け、「この葉っぱは色がおかしい」とか「この実には○○虫がついている」というように、個々の状態の問題点を検証して行かないことには「本当の原因」は見えてきません。 でもそれは「個」を非難するためではありません。そうではなく、「個」を救うためにです。 「他の野菜にはトラブルがないのに、この野菜にだけトラブルがある」というような場合は、その問題は「個」の問題です。でも、ある地帯全部の野菜に異常があるとしたら、それは「個」の問題ではありません。 日本中でそのような状態が進行しているとしたら、それは日本という国の問題か、その日本を含む世界全体の問題です。 そして私はこの若者の問題は、人類の未来に関わる「世界全体の問題」だと思っています。その証明をするために、「個」の状態を検証しているのです。 ですからもし、2,30代で生活保護を受けていらっしゃる方がこのブログをお読みになっても「おれたちを馬鹿にするな」などとお怒りにならないようにお願いします。 今、「遊んでくれる何か」がないと遊ぶことが出来ない子どもがどんどん増えています。森や野原に連れて行っても、ボールやゲーム機や遊びを指導してくれる大人がいないと遊ぶことが出来ないのです。 そして、目の前に広がる自然と関わろうとせず「退屈だ」と繰り返します。 うちの教室では「これをやりなさい」という指示は出しません。基本的に自由に作らせています。そのため、造形関係の本も山ほど置いてあるし、見本などもいっぱいあります。 それで昔は「ここは何でもできるから楽しい」という子がいっぱいいました。それでこちらが困るようなことまで勝手にやってしまう子も結構いて、「それはやめてくれ」というような場面もよくありました。 造形教室なのに穴掘りや焚火に夢中になる子もいました。 でも、10年ぐらい前あたりから自信がなく無気力な子どもたちが増えてきました。 (20年前ぐらいから、子どもと関わる現場で働いている人から「子どもたちがおかしくなってきた」という話は聞いていました。今、その時の子どもたちが親になっています。) それ以前は「そこまでやるな」と注意しなければならないような元気な子がいっぱいいたのに、その頃から「わかんない」「できない」「先生やって」を連発する自己肯定感が低く、無気力な子が増えてきて、「大丈夫 頑張ればできるから」「先生が手助けしてあげるからやってみよう」などと励まさなければ活動できない子どもたちが増えてきたのです。 1991年に「大事MANブラザースバンド」が「それが大事」という以下の歌詞の歌を発表しましたが、これもそのような子どもたちの増加と関係しているのではないかと思います。 負けない事・投げ出さない事・逃げ出さない事・信じ抜く事 駄目になりそうな時 それが一番大事 負けない事・投げ出さない事・逃げ出さない事・信じ抜く事 涙見せてもいいよ それを忘れなければ 今では「負けるな」というような「励まし歌」ではなく、「それでいいんだよ」というような「慰め歌」がいっぱい流行っています。SMAPの「世界に一つだけの花」も「慰め歌」の一つです。 当然、そのような状態では創造的な活動は出来ません。ただ、言われたことをやるだけです。でも、それでは退屈なので「退屈だ」を繰り返します。 「退屈ならなんかやったら」と言っても「何をやったらいいのか分からない」と言うのです。それで「こんなことも出来るよ」などと色々と教えるのですが、能動的に動くこと自体が困難な状態なようで、「それはやだ」というばかりで何もしません。おもちゃやゲーム機がないと何もできないのです。 偶然かどうか分かりませんがそれと同じ頃から発達障害の子どもたちも増えてきました。(診断を受けている子も数人いますが、それと同じ程度かもっと状態の悪い子の方が多いです。) よく、「昔もいたけど、今のように障害に対する関心が薄かったから発達障害に気づかなかっただけだ」などという人がいますが、明らかにそれだけの問題ではありません。 私が子どもの頃は1クラス50人以上いましたが、(先生が厳しくなくても)クラスが混乱することなど全くなかったからです。 一人、授業中フラフラしている子もいましたが、それはその子だけでした。 でも今、自分で自分をコントロールすることが出来ない子どもたちが急増しています。そのような子は、誰かがフラフラすると、つられてフラフラ始めてしまうのです。その結果学級全体が崩壊します。 その背景には発達障害の子の増加もありますが、それだけではありません。 そのような子の一番大きな特徴は「無気力だ」ということです。無気力な子は発達障害でなくても、集中できなくなってしまうため、ちょっとの刺激にも振り回されてしまうのです。そしていつも「刺激」を求めています。 私には「発達障害的な素質」+「無気力」が状態をさらに悪化させているのではないかと思えるのです。うちの教室の子どもたちを見ていても、発達障害の診断を受けている子でも無気力でない子の場合はそれなりに仲間とうまくやっているし、それなりに落ち着いてもいます。 そのような子のお母さんは、「その子らしさ」を肯定した子育てをして、また子どもが強い刺激に触れないように注意しています。 今、その無気力な子どもたちが増えてきていますが、その「無気力」を作り出しているのは社会や子育てのあり方です。「発達障害」そのものは、子育てや社会のせいではありませんが、発達障害を悪化させているのは子育てや社会のあり方だということです。 確かに昔も「発達障害的な素質」を持った子はいっぱいいたと思います。でも、小さい時から自然の中で仲間とからだいっぱい遊んでいたので、無気力にはならなかったのでしょう。 それで、素質はあっても状態が悪化することなく、小学校に上がる頃にはそれなりに落ち着いて行ったのではないかと思います。 子どもたち本来の遊びは、非常に創造的、芸術的です。それは我が子たちを見ていても強く感じました。 いつでも遊びを発見していました。何かがなければ遊べないなどということはありませんでした。 そんな遊びを通して子どもたちは「元気」を育てていました。でも今、その「元気を育てる遊び」が消失してしまいました。だから子どもたちが無気力になっているのではないかと思うのです。 ちなみに、大人は「遊び」と「芸術」を分けますが、子どもたちにとってはそれらは同じものです。 │<< 前のページへ │一覧 │ 一番上に戻る │ |
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