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最初に一言説明しておきます。
私の文章の中で使われている“子育て”という言葉は、“親による育て”だけを指しているわけではありません。 そうではなく、全く言葉通りに“子どもを育てること全般”を通して、私は“子育て”という言葉を使っています。 生き物の中には“子育て”を行わない生き物もいっぱいいます。 卵を産んでそれっきり子どもの生命力と、遺伝子の働きと、運命にまかせるのです。そのような生き物は子育てを通して伝えるものがないので、子育てを受けなくてもまた本能に従って子どもを産み、子孫を残すことが出来ます。 でも、哺乳類は未熟な状態で生まれてくるので何らかの保護を必要とします。また、母乳がないと生きていけないのでそれなりの“子育て”が必要になります。 でも、ウサギやネコなどの群れを作らない哺乳類の場合は基本的に“子育て”は母親だけの仕事です。 そして、母親からだけの子育てで“一人前の個体”に成長することができます。 さらに、イヌや猿や象のように群れで生活している哺乳類の場合は子どもがオッパイから離れるような年頃になると群れによる“子育て”が始まります。 そこには二つの意味があって、一つは自分が所属する群れのルールを知り、群れの一員としての資格を得るためということと、そしてもう一つは自分が大人になった時に子どもたちにその群れのルールを教えることが出来るようになるためにです。 よく、“人は自分が育てられたように子育てをする”といいますが、それが群れで生活をする動物たちの基本なんです。 ただし、人間だけが大人になってからでも本を読んだり、講習会などに出たりして子育てを学び直すことが出来ますが、人間以外の動物たちにはそのようなことはできません。 実際に自分が子育てを受けることでしか子育ての方法を学ぶことが出来ないのです。 でも、私が常々面白いなと思っているのは、人間に育てられた猿が子育てが出来ないということなんです。人間に育てられたのですから、それを学習して人間のように子育てをしてもいいように思うのですが、そうではないのです。 基本的に猿は猿の親からしか子育ての方法を学ぶことが出来ないのです。 だから、人間に育てられた動物を野性に返すのが難しいのです。 猿は、自転車に乗ることも、竹馬に乗ることもできます。 でも、猿は自分の子どもにそれらを教えることはしません。 あんなにも知能が高くて、色々な芸を覚えることが出来ても、人間から学んだものを自分の子どもに伝えることはしないのです。 それは、多分猿がそれをやりたくてやっている訳ではないからなのでしょう。 猿でも、象でも、イルカでも餌が欲しくて芸を覚えているだけなのです。 だとすると、自分の子どもに教えても餌がもらえないわけですから子どもに教えるわけがないのです。 ですから、子どもたちにはまた最初から人間が芸を仕込む必要が出てくるわけです。 そして、彼らはどんなにすごい芸が出来ても自然の中では生きていくことが出来ません。自然の中では自分の力で餌をとらなければならないのですが、その方法を学んでいないからです。 結局、彼らは一生人間に依存しないと生きていけないのです。 そして、人間も基本的には猿と同じだろうと思います。 現代の子どもたちは餌を与えられて調教ばかりさせられています。 でも、親の保護から離れて一人で生きていくための学びはほとんどしていません。 ですから、なかなか社会に出ていけません。 そして、自分で配偶者を見つけて結婚することも、収入を得ることも、子どもを育てることも困難な子どもたちも増えています。 親は、他の子より早くわが子を成長させようとします。 子どもは一人一人成長のペースは違うし、また大人の期待通りに育つわけでもありません。 でも、その現実を受け入れることが出来ない人は、餌をちらつかせたり、時にはムチを使ったりして子どもを優秀に育てようと必死になっています。 でも、その結果得た能力はたとえ東大に入れたとしても、その子が自分の人生を生きる時の役に立たないのならそれは“猿の曲芸”と同じです。 そういう子どもは、常に誰かに依存しないと生きていくことが出来ないでしょう。 それと、“人間だけが大人になってからでも本を読んだり、講習会などに出たりして子育てを学び直すことが出来ます”と書きましたが、実際にはこのような方法では見かけだけの子育てしか学ぶことが出来ません。 学びというものは、“いつ”、“誰から”、“どのように”学んだかということが非常に大きな意味を持つのです。 同じことでも、子どもの時に学ぶのと大人になってから学ぶのとではその人の心とからだに全く異なった働きかけをするのです。 また、自分の親から実際にやってもらって学ぶのと、本で学ぶのとも全く異なった働きかけをします。 例えば、“子どもを抱きしめる”ということで考えてみてください。 お母さんにいっぱい抱きしめてもらいながら育った人と、全く抱きしめてもらった体験のない人では、子どもを抱きしめる時に明らかに違いが出ます。 お母さんにいっぱい抱いてもらって育った人は、自分の子どもを抱く時に、無意識のうちにでも自分が抱かれた時の気持ちよさを想い出すでしょう。 つまり、“抱く”ことが、“抱かれる”ことになるのです。 そのようにして、自分が抱かれたように、わが子を抱くのです。 ここで、“自分が育てられたように子どもを育てる”という現象が現れるのです。人間の記憶や能力というものは面白いもので受動と能動が反転するのです。 つまり、“小さい子どもにおはよう”と言い続けていると、子どもは“おはよう”と言うようになります。 でも、子どもは“おはよう”という言葉を聞いていただけです。 喉をどんなふうにして“お・は・よ・う”という音を出していたのかなどと言うことは分かりません。 でも、聞いているだけで喉の使いたかが分かるのです。 なぜ、そんなことが起きるのかというとそれは親と子が共鳴するからなのです。そして、共鳴することで理屈抜きで伝わるのです。 つまり、人間が猿を育てても猿が人間のように育たないのは共鳴しないからなのです。 “子育て”を本で学ぶということは、この例でいうと喉の使い方、息の出し方の説明書を読むことで“おはよう”という言葉を学ぶのと同じことなんです。 確かに、訓練を繰り返すことでそれは可能になるかも知れません。でも、お母さんに笑顔とともに“おはよう”と言われた時の心地よさは得ることが出来ません。 そこにあるのはただの“音”だけで、“想い”や“想い出”とはつながっていないのです。 つまり、本で学んだ知識は形だけなんです。でも、子育てで大切なことは形ではなく、そこに親の想いが込められるかどうかということなのです。 なぜなら“形”ではなく、“親の想い”が子どもを育てるからなのです。 言い方を変えるなら、“子どもと共鳴することだけが子どもの中に伝わっていく”ということなんです。 そして、共鳴してしまったものはそれは喜びであろうと、悲しみであろうと、怒りであろうと子どもの中に伝わっていきます。 そして、その子が親になった時、その共鳴した振動をまた子どもに伝えようとします。 その人がどんなに理想的な子育てをやったとしても、子どもは親の想い、本音だけに共鳴します。他の部分は、曲芸のように学ぶだけです。 ですから、ご自分が充分な子育てを受けてこなくて、子育ての方法が分からない人はかえって子育ての形にはこだわらない方が無難です。 育児書を読むのではなく、自分の想いを子どもと共有するような関わりをすればいいのです。すると、子どもはお母さんと共鳴してちゃんと大切なことを受け止めてくれます。 そして、その子が親になった時それがその子の子育ての方法になるのです。 子どもに子育ての方法を伝えるというのはそのようなことです。 ハウツーは大人になってからでも学べます。でも、この“想い”が込められていないハウツーでは子どもは育ちません。 でも、親の子育てはそのように取り戻すこともできますが、群れによる子育ては群れが存在しない限り取り戻すことはできません。(ここでいう“群れ”とは大人も含みます。) すると、子どもは大人になっても群れの中に出ていくことが出来なくなります。当然、結婚することも、自分の子どもを育てる子も難しくなるでしょう。 本来、人は猿と同じで子育ても群れの中でする生き物だからです。 “子どもに子育ての方法を伝える”ということは、ここまでの広がりの中で考える必要があるのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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