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昨日、
精神的に自立して生きるためには「評価に依存しない自信」が必要なのです。それが「消えない希望」の原動力になります。 でも、物語を失ってしまった現代人は「評価されることによって得ることが出来る自信」と「与えてもらう希望」しか知りません。 と書きました。 実際、今日本人は「評価に依存しない自信」や、「自分で見つける希望」ということが分からなくなってしまっているように感じます。もしかしたらそれは日本人の文化的な感性も影響しているのかも知れません。 教育や子育ての場では「褒めて自信を付けさせる」という考え方が主流です。多くの子育て本でもそのように書かれているようです。確かに、叱ったり、否定したりばかりしていたら自信も自尊感情も育ちません。そして、褒められれば嬉しいし、それなりに自信もついてきます。 また、何らかの知識や技術を学ばせることで自信を付けさせようという考え方もよく見かけられます。 でも、これらは全て子どもの自信を付けるために大人が意識的に行っていることです。つまり、「親心」や「親切心」からかも知れませんがそこには下心があり、子どもを自分たちの仲間としては扱っていないということでもあります。 それは、言い方は悪いですが、家畜などの飼育の仕方を考える時の発想と同じです。また、工場で「良い製品をどのようにして作るのか」と考える時の発想と同じです。教育や子育てが「生産」になってしまっているのです。 そして、本屋さんに行くと、「よりよい製品を作るための子育て本」がいっぱい並んでいます。 子どもは育てるものではありません。大人とかかわり、大人を模倣しながら、自分の力で育つものです。大人がその意志に共感し、その意志を尊重して、その意志を支えてあげれば子どもは自分の力で育っていくのです。 その時、大人の意識として大切なことは「自分たちが受け継いできたものを子どもに手渡す」ということです。そして、それらを受け継ぐことが出来る器として子どもを育てることです。つまり、カエルはカエルの子を育て、スズメはスズメの子を育てればいいのです。 それを、スズメが鷹を育てようなどとするから子育てが個人的な作業になってしまい、マニュアルが必要になるのです。子育てにおいては「優秀な子どもを育てる」などという発想は必要ないのです。子育ては、子どもが自分と同じ程度の人間に育てば充分なんです。ちょっとでも親よりも優秀になれば大成功です。 そもそも、優秀でない大人が優秀な子どもを育てられるわけがないのです。 優秀な子どもを育てるためにはあれこれ子どもの行動をチェックする必要があります。そして、なるべく人工的で無菌室のような状態で、効率よく子どもを育てようとします。農業でも同じことをやっていますが、そのように育てれば巨大で甘いトマトなどを作ることが出来ます。 でも、トマトは消費されるだけの存在です。それに、このように育ったトマトには子孫を残す力がありません。それだけでなく、人間に管理されないとすぐに枯れてしまいます。 生産者は喜びますが、もしトマトに心があったらそれを喜ぶかどうかは不明です。 先日の朝日新聞に、人工授精によって生まれた子どもたちの心の苦しみが書かれていました。父親の精子に何らかのトラブルがあるため、他人の精子を使って生まれてきた子どもたちです。 その子たちが大人になって、自分のアイデンティティーを確立出来なくて苦しんでいるというのです。 親は子どもが産まれれば素直に喜びます。医者も喜んでくれる人がいれば自分たちの行為を「良いこと」だと認識します。 でも、そのようにして生まれてくる子どもの視点からの議論はあまり目にしません。ほとんどが大人の側からの都合で決められてしまっています。 クローン人間の是非も、倫理的、道徳的、宗教的なテーマとして語られることは多いですが、生まれてくる子どもの心の問題として語られることは多くないように感じます。 「優秀な子ども」を育てようとすることも同じです。親が自分の子どもを「優秀な子ども」に育てたいと願うことは当たり前のことのようになっていますが、でも、そのように育てることの是非を、育てられる側の子どもの視点で考える人はあまり多くありません。 一般的な大人の考え方としては、「優秀な子ども」とは「優秀な評価を得ることが出来る子ども」のことです。ですから、そのような子どもは常に評価の対象として扱われているということです。 実際には優秀でなくても親が子どもの成績ばかり気にしていればそれは子どもを「評価の対象」としてしか見ていないと言うことです。 そのような親は理想論、建前論ばかり語り、自分の素直な心を語りません。自分では勉強なんかしていないのに、子どもには勉強の大切さを語ります。(日本の政治家も全く同じです。) また、子どもも自分のことを親に語りません。自分のことを評価しようとしてばかりいる人間に、自分のことを語っても無意味だからです。親もまた自分のことを語らないのですからそれが当然の親子関係になります。 「親の期待通りの優秀な人間」になりたいなどと思っている子どもはいないのです。いたとしても、間違いなくやがて挫折します。それは、頑張って成績を上げても、それに合わせて親の要求も高くなってしまうからです。 60点の子が頑張って70点をとれば、親は「次は80点だね」と要求します。100点とっても「次も100点だね」と要求されます。親の欲にはキリがないのです。 当然子どもは途中で挫折します。100点まで行かなくて50点くらいで挫折してしまう子も多いでしょう。挫折すると無理をしなくてもよくなるので楽になるのです。 でも、挫折した時点で親とのつながりが切れて、子どもは孤独になります。親の期待に応えることが出来ない自分に自信を失います。子どもはそう思い込んでしまうのです。 大人は「子どものため」と思っていますが、その「子どものため」が子どもを苦しめていることには気付かないのです。 今、「日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか」(古荘純一著/光文社新書)を読み始めました。帯書に「幸福度が世界最低レベルの日本の子ども。その心の中--」と書いてあります。 この問題を考えてみたいと思います。 皆さんもその「なぜ?」を考えてみてください。 これは国際的な調査に基づいた客観的なデータが語る真実です。 そう見えないのなら、なぜそう見えないのかも考えてみてください。 ************************** <気質の一言> 胆汁質は自由に行動できる場所を探します。 多血質は仲間がいる場所を探します。 粘液質は気持ちのよい場所を探します。 憂鬱質は安心できる場所を探します。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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