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私も日々、それもちょっちゅう、からだをゆるめること、力を抜くことに意識を集中しています。歩いている時も、立っている時も、どうやったら力を抜くことが出来るか工夫しています。それを何十年もやっています。でも、難しいです。
私は太極拳のことをよく書きますが、実際に先生に就いて習っていたのは5年ぐらいです。最初の二年は直新陰流と空手も教えている先生に就いて、太極拳を学んでいました。次の三年はちょっと説明不能な力を持った先生に学びました。私はこの後者の先生に強く影響を受け、その後の一人稽古の時もズーッとこの三年間の時に与えられた宿題に取り組んできました。その一人稽古も25年くらい続けています。一人でやっているのでカタツムリの早さでしか進歩しませんが、でも、工夫すれば工夫しただけの進歩はあるのがからだの世界なので、やりがいはあります。 最初の三年目の頃に、ようやく動きにからだが慣れて楽になりました。5年目に少し分かったような気がしました。でも、10年目に「あれ、今までは入口にも入っていなかったんだぞ」と気付きました。15年目に「もしかしたらここが本当の入口かも知れない」と思いました。20年目に道が遙かに遠いことに気付きました。 ただ、今稽古しているのは「型」ではなく、力の抜き方です。「型」はほとんど忘れました。時々「型」も動きますが、それは自分のからだや、気付いたことが実際の動きの中でも使えるかどうかチェックするためにです。 「発勁」(はっけい)と呼ばれる打撃方法は最近ようやく分かってきました。これも力を抜かないと出来ないのですが、力を抜くだけでもできません。これは空手の打撃とは違うので目の前でやって見せても、何をやっているのか全く分からないと思います。 でも、私の先生はからだのどこででも発勁出来るといっていましたが、まだまだ私にはそんな真似は出来ません。私のは、「ちょっと分かった」という程度のものです。でも、理解としては間違っていないと思います。 一般的な空手の打撃は「からだの外」を使いますが、発勁は「からだの中」を使うのです。ただし、空手でも高度なものは発勁と同じ力を使うようです。youtubeで沖縄空手の型を見ていましたら発勁を使っていましたから。(私自身はあまり使えませんが、見て分かる程度のことは出来るようになりました。) だからといって私は強くなるために稽古しているわけではありません。とにかく「からだの不思議」を知りたいから工夫しているのです。どうも本当に力を抜くことが出来るようになると、不思議なことが出来るようになるみたいなのです。 私は先生に就いていた三年間にその不思議なことをいっぱい体験しました。これはここに書いても理解してもらえないと思うので書きませんが、人間には本当にすごい能力があるのです。それは常人の理解を遙かに超えています。 でも、力を抜くことは至難の技です。人間は立って歩いたり、呼吸するだけでも力を入れているのですから。本当に力を抜いてしまったら立っていることすら出来なくなります。また、感情の働きはそのまま筋肉の動きにつながっているので、感情に振り回されるようでは力を抜くことは出来ません。 特に、怒りや恐怖や不安といった負の感情にはからだを固める働きがあります。 かといって、感情が消えてしまったら筋肉が弛緩してしまって力が入らなくなってしまいます。悲しみや苦しみは感情の動きを鈍くし、筋肉を弛緩させます。(悲しみは全身を弛緩させ、苦しみはからだの中心は固め、周辺だけ弛緩させます。だから、悲しい時には考えることも出来なくなりますが、苦しい時には考えることが出来ます。) ですから、顔の表情からも感情表現が消えていきます。そうなると動けなくなります。怒りがある人は動けますが、悲しみや苦しみの中にいる人は動くことが出来ないのです。 ちなみに気質とのつながりでいうと、胆汁が強い人は否定的な感情が「怒り」の方に動きやすいです。粘液が強い人は「悲しみ」の方に、憂鬱が強い人は「苦しみ」の方に動きやすいです。多血が強い人はどうなんだろうか。私は私の中に多血が一番少ないので、どうも多血の人の感情が読めないのです。「孤独感」なのでしょうか。 力を抜くと言うことは弛緩とは違います。必要な時には力を入れることが出来る状態でありながら、力が抜けている必要があるのです。弛緩するだけなら全身麻酔をすれば完全に弛緩することが出来ます。でも、それでは生活が出来ませんし、何の不思議とも出会えません。ましてや武術などでは何の役にも立ちません。 それでよく言われるのが操り人形のイメージで「頭のてっぺんに糸が付いていて、それにぶら下がるように」という言い方です。これはウォーキングなどでも言われます。そういうイメージを持つことで、「操り人形」のように、無駄な力が抜け、からだ全体に統一感が生まれます。 でも、どうもそれだけではちゃんと抜けないのです。また、抜けはしても動けないのです。力を抜いたままでも動くことが出来なければ、太極拳としては意味がないのです。 まだ先生に学んでいた時、「ここを抜いて」、「ここも抜いて」と言われ、さらに「それで動いて」とて言われました。その時、「これじゃ動けません」と言ったことを今でも覚えています。動こうとすれば力が入ります。でも、その時「力を入れるな」と叱られます。どうしていいのか悩みました。 日常生活では扉を開ける時も、荷物を持つ時も力を入れます。何もしていなければ力を抜いていることが出来ますが、何かをする時には力を入れます。それは常識的なことです。 でも、武術的な身体では重いものを持っている時でも力が抜けている必要があるのです。どういうことだか分かりますか。そうでないと、戦いの最中に自在に動くことができないのです。 それで、ほんの数日前に気付いたのですが、ぶら下がるだけではダメなんです。つながらないと抜けないんです。 頭のてっぺんの糸にぶら下がるだけでなく、その糸が全身を通り抜け、地球の中心とつながっていないといけないのです。その時、「わたし」が消えます。 という事に気付いたのです。 抜こうとすると、「抜こうとしている私」が「固さ」となって残ってしまいます。 また、ぶら下がってしまえば全身を抜くことは出来るかも知れませんが、今度は動けません。 力を出すためには足場が必要ですが、足場を作った時点で固まります。 でも、つながりの中に入る時は、抜く必要がなくなるのではないかと思うのです。抜こうとしなくても抜けてしまうと言うことです。逆に言うと、抜かないとつながれないのです。ではその状態でどうやって相手に働きかけるのかというと、関係性を変えていくのでしょう。 これは普通の対人関係でも同じかも知れません。「自分」にこだわっているうちは、他の人とつながることは出来ません。でも、その「自分」が消えてしまうことが怖くて「自分」にしがみつく人がいっぱいいます。 でも、気づかないうちにつながってしまっている時には、自分へのこだわりが消えて、からだの力みも消えているでしょう。ちゃんとつながっている時には、力を入れてからだを固める必要がないからです。 でも、まだこれは単なるイメージであって、まだ練習の中で取り組んでいません。これからの課題です。 これは非常に難しそうです。ぶら下がっているだけなら「わたし」を意識できますが、つながってしまった時には「わたし」が消えてしまうでしょう。「わたし」が消えてしまう世界で、「わたし」をどのように実現するのか・・・。 死ぬまでにどれくらい進化できるのか分かりませんが、決してゴールにはたどり着けないでしょうね。また、それほど夢中になって稽古しているわけでもないので、進み方もまったくゆっくりです。 だからまた、嬉しいのです。死ぬまで取り組む課題があるというのは嬉しいものです。
わたしが、今目指しているものとも、
近い感じがします。 (もちろんそんなに進んでません・笑 目標ですから) 自分がなくなったら・・・というのは 本当に興味深いです。 一生のうちに、 どこまで歩けるのかな? そんなことには、わくわくしますね。(2010.03.19 14:50:41)
私は高校二年生ぐらいまで親や人目を凄く気にして生きていて他人に少しでも自分の弱みを見せてしまったら終わりだとまで思い詰めていたので常に体はガチガチに固く、反射神経も致命的に鈍かったです。
ところがその高校二年生の時に他人の目を気にして気疲れすることに限界がきてしまったようで、今までの反動からか全くいろいろなことを気にしなくなって、全く体に力が入らなくなりました。 今度は体に力が入らない意味で反射神経が鈍くなりました。 勉強にも力が入らなくなって良好な成績も地に起きました。 いい子にするのにも疲れて親の言うことも一切聞かなくなりました。(聞けなくなりました。) それで今まで積み上げてきた親への信頼も消え失せ関係に亀裂ができて家庭での地位も落ちました。(そうなっても気にならなくなった) ですがいろいろなことを気にしなくなったので友達に心を開けるようになり友達が増えたりわからないことも素直に聞けるようになり、今まで嫌いだった虫などの生き物にも触れるようになりました。 私の場合の「力を抜く」は弛緩の方だと思いますが力を抜くことで生きることが楽になり自分が劇的に変わりました。 そして私は今の自分が大好きです。 長くなりましたが昨日と今日の森の声さんのブログで私が体に力が入らなくなったことは例え成績が悪くなったとしても全てを良い方向に運んでくれたことなのだと実感しました。 毎日新しい気づきをありがとうございます。 私もまだクリアできてない課題に取り組むことを思うとわくわくします(笑)(2010.03.19 21:03:06)
ぐりぐりさん
>面白いお話ですね、 >繋がり、わたしが消えたときのわたしはどうなるのか? >是非不思議なお話も聞きたいと個人的に思いました。 ----- 「わたし」が消えても意識がなくなるわけではないのだろうと思います。 「小さなわたし」がつながりの中で「大きなわたし」になって、「小さなわたし」という意識が消えるだけなのではないかと思います。 (2010.03.20 06:05:42)
ちょろぴ1998さん
>自分がなくなったら・・・というのは >本当に興味深いです。 人間が考えている「わたし」というのは本当はただの妄想かも知れません。 だって、実際にはすべてがつながっていて、どこからが「わたし」なのかという区切りなどどこにも存在していないのですから。(2010.03.20 06:08:22)
りかさん
>私の場合の「力を抜く」は弛緩の方だと思いますが力を抜くことで生きることが楽になり自分が劇的に変わりました。 頑張らなくてもいい世界に気づいたのですよね。 言い方を変えると「本当の自分」に戻ったのでしょう。 >私もまだクリアできてない課題に取り組むことを思うとわくわくします(笑) ----- お互いに「発展途上人」ですね。(2010.03.20 06:13:29) │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |