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私たちは人の言葉に喜んだり悲しんだりします。また、言葉で色々なことを説明したり、考えたりもします。さらには、言葉を通して他の人と共感したりもします。想いを語ったり、哲学を語ったり、科学について語ったりすることも出来ます。このように「言葉」には人間の精神機能の全てを他の人に伝える能力があります。
でも、「雪って冷たいよね」とか「山登りは途中は苦しいけど、山のてっぺんに立った時の気持ちよさは忘れられないね」という言葉を、話者の意図通りに受け取ることが出来るのは、雪に触れたことのある人、登山が好きな人に限られます。 また、イスなどを作る時に 「イスは人が座るもので、足が四本あり、その四本ともが同じ長さです。しかも人が座っても壊れないような構造になっていて、背もたれが付いているものもあれば、ついていないものもあります。」 という説明だけで、イスを作ることが出来る子は「言葉」をその構造に従って理解することが出来て、しかも、立体的な造形物を作り慣れている子だけです。 でも、今時そんな子は滅多にいません。「説明する言葉」が理解出来ない子がほとんどなんです。 確かに言葉には人間の「精神機能」の全てを他の人に伝える能力はあります。でもそれは、その言葉を理解できる相手に対してだけであって、理解能力がない相手に対しては言葉は無力です。 うちは造形教室なので造形に関する本がいっぱいあります。子どもたちはその本を見て、自分が作りたいテーマを考えたり、作り方を調べたりしていました。私たちはその手伝いをするだけでした。 ここで「でした」と書いているのは、そういうことはもう過去の話になってしまったからです。 20年前に教室を始めた頃の子どもたちは作るものが決まらないと、よく本を見ていました。書いてあることはよく理解出来なくても、とにかく本を見てテーマを探そうとはしていました。でも、今の子は「何を作ったらいいか分からない」と繰り返すばかりで、一向に本を見ようとしません。 どうも、本を読んでも何が書いてあるのか理解出来ないようなのです。それは文章だけでなく図も理解出来ません。写真があっても、その写真を見ても構造を理解することが出来ません。 今では、子どもたちが本の写真を見て、「これが作りたい」と言う時は「これが欲しい」というだけの意味であって、「自分で作る」という意味ではない場合が多くあります。ですから、材料を出してあげても全く手を付けることが出来ません。「ここを切って」と線を描いてあげても「え、ぼくが切るの?」などと平気で言います。 見本で出来上がったものを置いておくと「これちょうだい」と欲しがるばかりで、自分で作ろうとはしません。 そんな実物見本を見てもどうしていいのか分からない子が大部分です。造形教室を始めた頃は説明は理解出来なくても、実物を見れば真似をして作ることが出来る子はいっぱいいました。でも、今では「ここを切って」と線を引き、「ここにクギを打って」と押さえてあげないと何も出来ない子がほとんどです。実物があるのになぜか実物を参考にしないのです。 ですから一人一人に付き添っていてあげないと作業が進みません。そのような子は私が他の子の面倒を見ている時は、遊んでいます。「自分で出来ることを探して、少しでも自分でやりな」というのですが、実際には手伝ってもらわないと何も出来ないのです。 椅子の足を切る時も一本切り終わっただけで、「おわったよ つぎなにやるの」と聞きに来ます。 このような状態の子どもたちと話をしていると日本語が通じないのです。何かについて説明しても頭の上をスルーしていきます。それは話をしている時、豆腐に針を刺しているような感覚だからすぐに分かります。 また子どももすぐに「わかんない」と言います。なんにも考えないで反射的に「わかんない」というので、「少しは頭を使え」というのですが、その「頭の使い方」が分からないようなのです。 ちなみに「頭を使う」ということは「とりあえずやってみる」ということなのです。体験がないのですから、いくら考えても分かるわけがないのです。 また、逆に子どもが「○○が作りたい」と言ってきた時も、その言葉を解読するのが困難です。 「せんせい、紙ちょうだい」と言うので、「どんな紙」と聞くと「普通の紙」と答えます。それで「普通の紙ってどんな紙、画用紙、厚紙」と聞くのですが子どもは「普通の紙」と繰り返します。それで「何に使うのか教えて」と聞くのですが、その説明が出来ない子がいっぱいいます。中には説明逃れのために「教えない」という子もいます。それで「教えてくれないと、先生は材料を出せないんだけど・・・」と言うのですが、どうも頭の中のことをうまく言葉化することが出来ないようです。 「船を作りたい」というので相談に乗っても、その船について説明出来ないので材料を用意することも、手伝うことも出来ません。かといって、一人ではとうてい出来ません。それでより詳しく聞こうとすると、子どもは面倒くさくなって、「船は作らない」と言い出します。インスピレーションはあったのでしょうが、それを頭の中で具体化することが出来ないのです。だから言葉化することも出来ないのです。 ちなみにこれも気質が関係していて、憂鬱質の子は比較的、頭の中で具体化する能力は高いです。でも、ちゃんと説明してくれません。それで材料だけを出しておくと自分で勝手にやってしまいます。大人も子どもも憂鬱質の人はあまり人に頼らない傾向があります。だから行き詰まると抜け出せなくなってしまうのです。 全般的に、今の子ども達はこの「説明能力」が極端に低いのです。ですから当然人の説明も理解することが出来ません。そしてこれは大人も同じです。 これは物事を構造的に理解したり、構造的に表現する能力が発達していないと言うことなのです。この構造的に理解したり、表現する能力がないと科学はちんぷんかんぷんです。 ちなみに英語などには言葉そのものにはっきりとした構造があります。ですから英語を学ぶということだけで、「構造的な理解能力」が高くなります。ただし、会話より文章の方が構造的です。会話がペラペラでも、文章を書くことが出来ない人は言葉を構造的に使うことも、理解することも出来ません。 でも、日本語では本質的にその構造が曖昧です。日本語は情緒的な言葉なので構造にこだわらないのです。 その日本語を構造的に使う能力を育てるためには学問の学びが必要になります。なぜなら、いくら情緒的日本語でも「学問の言葉」だけは構造的に使われているからです。 実は「理解する」という行為そのものが、「構造を解析する」という事なのです。日本語は「共感」を求めるばかりで、「理解」を求めない言葉です。でも、学問の分野だけは「理解」を求められるのです。 英語圏の人は英語で会話や議論をするだけである程度は構造的に考える能力が育ちますが、日本人の場合は「学問の言葉」を学ぶ以外に構造的に理解し、表現する能力は育たないのです。 でも、今の日本の教育は暗記中心です。理解を求めません。本当は理解を求めない学問などあり得ないのですが、なぜか日本の教育は覚えることが中心になってしまっています。 そして、暗記には構造理解は必要ありません。 だから日本では大学を出た大人までが構造的に考えたり、表現することが出来ないのです。だから理解能力も低いし、議論も出来ないのです。 相手の言葉を理解しようとしないで、情緒的に反応してしまうだけだから、創造的議論が出来ずに、すぐにケンカになってしまうのです。 文学やアニメやコスプレの世界では情調的であることが効果的に働きます。でも、政治や科学や学問の分野では、それは致命的欠陥なのです。 「言葉を学ぶ」という事は「考え方を学ぶ」ということでもあるのです。 家庭の中で子どもにそのような言葉を伝えるためには、子どもに「仕組み」について教えてあげて下さい。 社会の仕組み、学校の仕組み、生命の仕組み、からだの仕組みなどです。その「仕組み」を理解しようとする時、言葉を構造的に使う能力が育つのです。 でも、問題は大人がその「仕組み」をちゃんと説明出来るかどうかです。
>見本で出来上がったものを置いておくと「これちょうだい」と欲しがるばかりで、自分で作ろうとはしません。
私も子供のころから同様な傾向があります。 ただ、思うに「すぐれた結果・成果」のみを最上の価値とする教育や社会においては、「自分の作った下手糞でも愛着のあるもの」っては、評価が低くなります。 またそれは「商品にならない」「それで満足するのは向上心が足りない」と否定に対象になります。 教育等でできた気質と、社会・経済の貪欲な要求が、「説明するより、銭をくれ」という状況になったと思います。 社会への適応って大事ですが、過剰適応に思いますし、社会の「弾力的な受容性」が失われたことが、生き辛さの一因でしょうか。 「天の君子{立派な人}は人の小人。人の君子{立派な人}は天の小人。」 という言葉が、荘子にあったように思います。 それを思い出します。 >「言葉を学ぶ」という事は「考え方を学ぶ」ということでもあるのです。 >家庭の中で子どもにそのような言葉を伝えるためには、子どもに「仕組み」について教えてあげて下さい。 >社会の仕組み、学校の仕組み、生命の仕組み、からだの仕組みなどです。その「仕組み」を理解しようとする時、言葉を構造的に使う能力が育つのです。 暗記よりも、「仕組みの説明」のほうが、勉強・学習は面白かったように思います。 国語・数学よりも、理科・社会の方が、「仕組み」「成り立ち」がわかって楽しかったです。 むしろ「理科・社会」の方便として、算数数学や国語を学習したほうが、好奇心が刺激されて、効率的・あるいは楽しく学習し英知を伸ばせると思うのですが。 再見!(2011.07.29 10:54:05)
私は仕組みを説明できないタイプだと思います。
説明できないけどできると思っているし、自分でやりたい。 見た感じでやってみて、壁にぶつかってから考える感じです。 (2011.07.30 04:27:51)
モアイ2463さん
>私は仕組みを説明できないタイプだと思います。 >説明できないけどできると思っているし、自分でやりたい。 モアイさんの気質は「多血+胆汁」だと思います。 基本的に多血質が強い人は説明は苦手です。 でも、今は気質に関係なく、全ての子どもにおいて理解力と説明力が低下しているように感じるのです。(2011.07.30 08:28:46)
忠武飛龍さん
>社会への適応って大事ですが、過剰適応に思いますし、社会の「弾力的な受容性」が失われたことが、生き辛さの一因でしょうか。 評価され続けることで身につけた習性なのだろうと思います。 >暗記よりも、「仕組みの説明」のほうが、勉強・学習は面白かったように思います。 私も同じです。 でも、子どもに理解する楽しさを味わわせるためには急いではダメなんですよね。(2011.07.30 08:31:26)
因みに「頭を使え」と言うことは、「とりあえずやってみる」ということなのです。体験がないのですから、いくら考えても分かる訳がないのです。
… この言葉、言ってみれば当たり前のことですが、この「とりあえずやってみる」ってのが、自分でもなかなか難しい。特に若い人にできない人が多いような気がします。(2011.07.31 03:27:56)
牧野さん
>この言葉、言ってみれば当たり前のことですが、この「とりあえずやってみる」ってのが、自分でもなかなか難しい。特に若い人にできない人が多いような気がします。 ----- 今日のブログに使わせていただきました。(2011.07.31 07:11:25) │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |