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人間が心とからだを固める一番大きな要因は「孤独」です。
逆に言うと、基本的に心やからだを固めるような要素はみな人を孤独にします。 強いストレスも、虐待も、不自然な生活や不自然なからだの使い方も、簡単便利な生活も、競争も、戦いも、みな人を孤独にします。 だから、からだを固くしてしまいます。 うちにはコマが何十個とあります。大きいのは直径が20cmぐらいで、小さいのはベーゴマです。子どもたちと遊ぶために買い集めたものですが、木でできたコマの大部分は「大山ゴマ」です。伊勢原にある大山(1252m)のふもとの村の民芸品として昔から伝わっているコマです。 そのコマを作る職人さんは、今はもう数名しかいないようですが、屋号としては「金子屋」と「はりま屋」の二軒しかないのではないでしょうか。 「金子屋」は結構大々的に宣伝して、お店も大きいですが、「はりま屋」さんは一人だけでやっている小さなお店です。 茅ケ崎で幼稚園をやっている友人がその「はりま屋」さんと親しくなり、職人さんを幼稚園に呼んで子どもたちの目の前でコマを作る所を見せてくれたり、絵付けをさせてくれたりしました。 その時の話で、コマを作る時に使うカンナや刃物類も全て自分で作ったものだとおっしゃっていました。 昔はコマ職人に弟子入りするとまず、鍛冶屋の仕事から学ばされたそうです。現代人が考えたら、「コマ職人になるためにはまず鍛冶を覚えてから」などというのはものすごく遠回りだし、無意味なことのように思えます。 でも、良い刃物を作れるようにならないと、良い木地師にはなれないと言うのです。 これと似ていますが、昔の大工は最初ノミ研ぎだけを三年もやらされたそうです。これはイジメでも、ただの雑用係でもありません、ノミがちゃんと研げるようにならないと、ちゃんとカンナが使えないからです。 このように、昔の人たちは現代人から見たら無駄なこと、無意味なことをいっぱいやっていたわけです。 現代人の感覚では、刃物は刃物屋で買ってきて、コマの形を作る人、絵付けをする人、売る人などを分業で分けて仕事をした方が効率的で、便利だと思います。 また、ノミ研ぎなど出来なくても、電気鉋を使ってしまえば問題がないように思ってしまいます。 でも、それでは「心がこもった仕事」「責任がある仕事」「誇りを持つことが出来る仕事」が出来なくなってしまうのです。 職人は心がこもった仕事をすることで、自分が職人であることに誇りを持つことが出来るのです。 職人の仕事だけではありません。心をこめて仕事をすることが出来る人だけが、自分の仕事に誇りを持つことが出来るのです。 そして、心をこめるためには、「部分」ではなく「全体」に責任を持つ必要があります。また、その「全体」を自分の意志と意識と技術で作り上げようとする時、人間は自分の意識や心や知性やからだや感覚の全てを動員する必要が出てきます。 「丸ごと」を作るためには「丸ごと」で関わる必要があるということです。そして、丸ごとで関わるから責任も、誇りも感じるのです。 食事の世界にも「丸ごと食べる」という健康法がありますが、「丸ごと」の中には「丸ごと」を支える力があるのです。 それに対して「部分」には「部分」を支える力しかありません。そのため、部分だけを一生懸命に育てても、全体のバランスが崩れてしまうばかりです。そのままではやがて全体が崩壊してしまうでしょう。ですから、無意識のうちに固めることで全体が崩壊することを防ごうとするのです。 リンゴの実ばかりを大きくすることだけを考え、枝や幹や根っこを育てることを怠っていたら、結局そのリンゴの実は熟す前に落ちてしまうか、腐ってしまうのです。時には木全体が倒れてしまうかもしれません。 これは物を作る時でも、毎日の生活でも、勉強でも同じです。 そして、「丸ごと」が大切にされている時には心やからだは固まらないのです。無理がないからです。 からだを使う時にも手だけ、指だけ、足だけでなく、いつでもからだ丸ごとを使うように意識すると固まらないのです。 子育てや教育でも「頭だけ」、「からだだけ」、「感覚だけ」、「技術だけ」、「心だけ」、「能力だけ」、「成績だけ」を育てようとするから、心やからだが固まってしまうのです。 丸ごと育っている子どもは固まらないのです。 そして、人は、「丸ごとの世界」に生きていると孤独にならないのです。「丸ごとの世界」は宇宙や自然とつながっている世界だからです。「部分の世界」に閉じ込められてしまうから孤独になり固まってしまうのです。 *********** 最近の学校の工作は「キット」になっていて、基本的には組み立てるだけです。 だから「物」は出来るのですが、丸ごとの体験がありません。 それで、うちではその「丸ごと」を体験させるために、材料選びから自分でさせてきました。 材料を自分で選び、自分で切って、自分で加工して作るのです。 昔の子どもにとってはそれは当然の作業でした。 でも、今の子どもたちにはそれが全然できないのです。 学校で「水鉄砲」を作ったという子に、材料を選ばせても全然選べません。学校で使うのは竹ではないので同じ太さですが、うちにあるのは竹ですから太さも異なれば、上下で太さも違います。また、○でもありません。 組み立てるだけなら原理が分かっていなくても組み立てることが出来ます。 でも、丸ごと作ろうとすると原理が分かっていない子には作ることが出来ないのです。 また、丸ごと作るためには原理を知っているだけではなく、感覚や感性やイメージ能力を使う必要もあります。当然、ノコギリなどを使うためにからだも使います。 今の学校での工作はただのお土産作りに過ぎません。 子どもは何にも学ぶことが出来ていません。 そういう教育をやっているから心やからだが固まってしまうのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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