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森へ行こう(心とからだと子育てと)

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森の声

森の声

2012.09.03
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カテゴリ:カテゴリ未分類
現代人は「言葉」について大きな勘違いをしています。

それは「言葉」を単なる「コミュニケーションの道具」だと思い込んでいることです。

そして、コミュニケーションの道具だから、「コミュニケーション」で伝えることも出来ると思い込んでいます。

「リンゴ」という言葉を教えるためにはリンゴを見せて、「これがリンゴだよ」と教えれば済むと思っています。

確かに、そのように学んだ言葉でも、それなりにコミュニケーションの道具としては使うことが出来ます。

「リンゴを買ってきて」とか「リンゴジュース」という言葉も理解できるでしょう。そして現代人は「言葉とはそういうものだ」と思い込んでいます。

でも、この場合の「リンゴ」は、「言葉」ではなく、「リンゴ」というものを指し示すための「記号」に過ぎません。ですから、「リンゴ」ではなく「A301」でも同じです。

リンゴを見せて、「これはA301だよ」と教えても、そこには何の違いもありません。「A301を勝ってきて」と言えばちゃんとリンゴを買ってくるでしょうし、「A301ジュース」といえば「リンゴジュース」だということを理解するでしょう。

でも、この場合の「リンゴ」は「言葉としてのリンゴ」ではありません。

そもそも、皆さんが今お読みなっているこの「文字」も本来の意味の「言葉」ではないのです。

文字は「言葉」を記録するために作り出された記号に過ぎません。ですから、「文字=言葉」ではないのです。

実は、私たちの脳は、「文字」をいちいち「言葉」に変換して理解しているのです。脳は「文字」のままでは理解できないのです。

実際、ある種の障害によって「文字」を「言葉」に変換できない人たちがいるのです。そのような人は文字を読むことが出来ても、読んで理解することが出来ないのです。でも、同じ文章を人に読んでもらえば理解することが出来るのです。

そして障害がなくても、7才前の幼い子どもたちはみなそのような状態です。「言葉<->文字」という変換機能が未成熟なのです。(発達には個人差がありますから7才前後と言うことです。)

その辺の機能がしっかりとしてくるのが7才を過ぎてからです。だから7才を過ぎるまでは文字を教えない方がいいのです。

確かに、7才前の子どもでも教えれば「文字」を書いたり読むことが出来るようにはなります。でも、文字を読んでも「言葉として」理解することが出来ないのです。

大人の常識としては理解しにくいかも知れませんが、大人に読んでもらえば理解できるような文章でも、幼い子どもは文字を通してでは理解できないのです。また、そのような作業は幼い子どもの脳に大きな負担になります。

人間にとって「言葉」はその生命の働きとつながった本能的、本質的な要素ですが、「文字」はその「言葉」の道具として発明された人工物なのです。

ですから、「文字」がなくなっても「言葉」は残りますが、「言葉」が消えてしまったら「文字」も消えてしまいます。

「文字」を教えるためには「言葉」が必要だからです。「言葉」だけで「言葉」を教えることは出来ますが、「文字」だけで「文字」を教えることは出来ないのです。

「言葉」は「文字を超えた世界」なのです。それが「言葉の世界」です。

でも、現代人は「文字を超えた言葉の世界」の存在が理解できなくなりつつあります。それは、現代社会が「言葉」ではなく「文字」によって機能しているからです。

でも、「子育て」や、「夫婦関係」や、「仲間作り」において重要なのは、何万年も前と同じように、「文字」ではなく「言葉」なのです。

実際、そのような場では「文字」はほとんど役に立ちません。子育てにおいては全く役に立ちません。

でも、「言葉の世界」を失ってしまった人は、子どもにどのようにして「言葉」を伝えたらいいのかが分からないのです。

だから、「言葉」を教える代わりに「文字」を教えようとします。言葉の道具として生まれた文字を、言葉よりも先に教えようとしているのです。

また、親子の間の言葉も「文字化」(記号化)しています。言葉が「言葉」として語られていないのです。

その結果、本来「言葉の育ち」を通して育つはずの「心」や、「からだ」や、「知性」が育たなくなってしまっているのです。

「言葉」は共有されるところから始まります。

赤ちゃんが「あー」と言った時、お母さんも「あー」と応えるのが「言葉の原点」です。

共有することが出来るから、伝えることも出来るのです。

でも、文字は共有できません。

***********

「言葉」はもともと「内的な世界」を共有するためのものです。「外的な世界」を記述し、説明するためのものではありません。

ですから「詩」こそが「言葉の原型」なのです。

そしてだから、子どもの言葉は「詩」のようであり、また、言葉を得た古代の人たちはすぐに「神」について語り出したのです。

R.シュタイナーの言葉も、聖書の言葉もまた「内的な世界」を伝えるためのものです。でも、現代人はその言葉を「外的な言葉」を理解するように理解しようとしてしまいます。

そのような理解の仕方しか知らないからです。

だから話がおかしくなってしまうのです。

************

「言葉の世界」はそのままの状態では文字化できません。その文字化できない世界を説明するのはなかなか困難です。





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Last updated  2012.09.03 09:13:26
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