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「成長する」ということはどういうことかというと、「自由になる」ことです。
「自由になる」ということは、それまで出来なかったことが出来るようになり、それまで分からなかったことが分かるようになることです。 それは、「他者からの束縛」から自由になることではなく、「自分自身からの束縛」から自由になることです。 決して、知識が増えることでも、成績が良くなることでも、聞き分けが良くなることでもありません。 確かに、「知識」は大切なものですが、試験の時にだけしか役に立たない「知識」は無意味です。 それはゲームの中で「野球」や「釣り」が上手になっても、どんなに「お金」を稼いでも、実際の生活では意味がないのと同じです。 幼い子ども達は日々成長しています。 寝ているだけだった子がお座りできるようになり。立てるようになり、歩けるようになり、走ることが出来るようになります。 泣くことしか出来なかった子が、ムニャムニャ「喃語」を話し始め、オウム返しにでもお母さんの言葉を真似し始め、単語を並べることで意味を伝えようとし、自分の感情や考えを言葉で伝えることが出来るようになります。 立つことが出来るようになった子にクレヨンを与えると、紙に叩きつけるように殴り書きを始めます。しばらくすると、「線」が現れ、更にしばらくすると「曲線」が現れ、「○」が現れ、「顔」や形が現れます。 このような変化は特別な障碍がない限り、全ての子に現れます。 それが生命の働きだからです。 「生命」は「自由」を求めるのです。 なぜなら、人は「自由」になることで、自分が生まれてきた世界で生き延びることが出来る可能性が高くなるからです。 火を作れない人間よりも、火を作れる人間の方が有利です。 槍や弓矢が作れない人間よりも、槍や弓矢を作れる人間の方が有利です。 動物を飼育したり、穀物を育てる事が出来ない人間よりも、動物を飼育したり穀物を育てる事が出来る人間の方が有利です。 だから、子ども達は「自由」を求めて成長していくのです。そして、成長することがそのまま喜びなのです。 その「成長」を支えるものとして「遊び」が生まれました。 子ども達は遊びを通して、出来なかったことが出来るようになり、分からなかったことが分かるようになる体験をしているのです。 だからこそ「遊び」は楽しいのです。 子ども達はみんな「遊び」が大好きですが、それにもちゃんとした理由があるのです。 でも、「生命の働きとしての成長」は、思春期から20才頃になって「人並みのこと」が一通り出来るようになると自動的に停止します。 「人間としての成長」は死ぬまで可能なのですが、誰にでも成長が保証されているのはそこまでです。 その後の成長は、自分の意識と努力によって常にチャレンジし続けることによってのみ発生します。 チャレンジのないところに成長はありません。 その、自動的に働いていた成長が停止すると、多くの人は、今度は人は「守り」に入ります。 それまでは、ただ単純に「出来るようになること」が嬉しかったのに、出来るのが当たり前になるとそれが「正解」になり、今度は「ちゃんと出来ないといけない」というプレッシャーが生まれるのです。 そして、新しいことに挑戦しなくなります。 すると、それまでとは逆にどんどん不自由になっていきます。 そしてどんどん苦しくなります。 成長とは逆の過程に入ってしまうのです。 そして、子どもにも「正解」を求めます。 子どもが正解を守ってくれないと、自分も正解を守ることが出来ないからです。 子どもが「良い子」にしていてくれるから、お母さんは「良いお母さん」でいることが出来る、ということです。 でも、子どもは「自由」を求めます。 そこで不自由になってしまっているお母さんとのバトルが始まります。 その状態から抜け出すためには、大人もまた成長する必要があるのです。 でも、難しいことをする必要はありません。 子どもの言葉に耳を傾け、子どもの想いに寄り添うようにすれば、大人もまた子どもと一緒に成長することが出来るようになるのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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