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昨日、
子どもの育ちでは「話す能力」よりも「聞く能力」の方が大事なんです。 ただ、子どもの「話す能力」を知るのは簡単ですが、「聞く能力」が育っているかどうかを知るのは難しいです。 と書きましたが、この「聞く能力」とは、「言うことに従う能力」ではありませんからね。 「静かにしていなさい」と言われて、ちゃんと静かにすることが出来ると、大人は「話が聞ける子だ」と評価しますが、それは「命令に従っている」だけであって、「言葉の能力の育ち」とは別の問題です。 ちゃんと調教すれば、そのくらいのことは犬でも猿でも出来ます。ですから、子どもでも出来ます。 困ったことに、日本人は、「ちゃんと伝わっているかどうか」よりも「聞く態度」の方を重視してしまう癖があるのです。 学校を回って子ども達に劇を見せている人が書いていたのですが、その人達が劇を演じている時、先生達は前の方に立って、劇を見ないで子ども達の方を見ていたそうです。 それで、劇が終わった後で先生達に「先生達は劇を見ないのですか?」と聞いたら、これは「劇の見方を教えるための授業ですから」と言われて呆れたそうです。 そのせいか、子ども達は反応もせず、大人しく劇を見ていたそうです。 でもそれって変でしょ。 「良い子」を育てたがる人は見かけばかりを整えようとします。 そして、それが「仕付け」だと思い込んでいます。 でも、それでは肝心の「中味」が育たなくなってしまうのです。 「中味」が育たない仕付けは調教です。そしてそれが、「虐待」と「仕付け」を分けるものです。 また、それでは当然「言葉」も育ちません。 そのような状態の子は、大人になっても、自分の頭で考え、自分の感覚と心で感じ、自分の意志と責任で行動することが出来ません。 ですから、子育てや、自分で判断しなければならない状況になると強い不安に囚われます。 仲間と助け合う事も出来ません。 実は、「静かにしていなさい」と言われて静かにしているだけの子よりも」、「私は嫌だ」と自分の気持ちを言える子の方が「言葉の能力」は高いのです。 「命令を理解する能力」よりも「自分の気持ちを伝える能力」の方が高度だからです。 実際、犬や猫でも命令に従うことは出来ますが、自分の気持ちを伝えることは出来ません。 また、「自分の気持ち」を伝えることが出来る子は、「自分の気持ち」に気付くことが出来る子でもあります。 そしてそれは、「人の気持ち」に気付くことが出来る能力を持っていると言うことでもあるのです。 「自分の気持ち」にすら気付かない人が、「他の人の気持ち」に気付くわけがないのです。 ただし、子どものうちはまだ「自分の気持ち」しか見えません。ですから、「自分の気持ち」に振り回されています。 これは子どもの発達に伴う生理的状態なので、いくら丁寧に説明しても、強く叱っても、ぶっても、通じません。 だから調教的な方法で「良い子」に仕立てようとするのでしょうが、それをやりすぎると子どもの「中味」が育たなくなります。 ではどうしたら良いのかというと、そこで、「物語との出会い」が必要になるのです。 人は「物語の世界」の中でしか、「他の人の気持ち」と出会うことが出来ないからです。 子ども達は「物語の世界」の中で初めて、「他の子も自分と同じように感じ、考え、喜んだり、悲しんだりしているんだ」ということを知るのです。 お母さん達は「○○ちゃんだって痛いんだから」と説明しますが、子どもは「説明」を理解することが出来ません。 また、客観的な視点を持っていないからです。 でも、「物語の世界」の中で体験することで知ることは出来るのです。 子どもの学びには「体験」は絶対的に不可欠なのですが、「物語」が擬似的にその体験を与えてくれるのです。 そして、「物語」の中でしか体験できないのが「心の世界の体験」なのです。 二語文までの子どもは「物の世界」に生きています。ですから、その興味、関心は「物の世界」の範囲内です。 でも、「子どもの言葉」がもっと成長するためには「心の世界」との出会いが必要になるのです。 だからこそ「言葉の育ち」に「物語の体験」は絶対的に必要になるのです。 そうでないと「自分勝手な言葉」しか使うことが出来なくなります。 それは、自分の気持ちや考えを相手に押し付けるだけの言葉です。 そんな、「自分勝手な言葉」しか使えない人は、一生懸命に説明しても、自分の言葉が相手に伝わりません。 でも、その理由が分からず、その原因を相手のせいにします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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