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子どもの育ちには「さんま」が大事だと言われます。
「さんま」といっても、魚の「サンマ」の事ではありません。 「時間」「空間」「仲間」の三つの「間(ま)」のことです。 ただこの場合の「時間」「空間」「仲間」は、単純な物理的な意味の「時間」「空間」「仲間」のことではありません。 「時間」は「時間的自由」を意味し、「空間」は「空間的自由」を意味し、「仲間」は「つながり」を意味しています。 たとえば、お母さんが「待つ子育て」を心がけている場合、子どもは「時間的自由」を与えられていることになります。 それはつまり、「何もしなくてもいい時間がいっぱいある」という意味ではないということです。 皆さんが一ヶ月間「仕事も、家事も、子育てもしなくてもいい時間」を与えられても、その時間を使って「自分がやりたいこと」がなければ、どんなに「自分が使ってもいい時間」がいっぱいあっても、「時間的自由」は存在していないことになります。 「自由」は「やりたいこと」とセットになっているので、「やりたいこと」がない人には「自由」はないのです。必要がないからです。 私は昔大学に勤めていたのですが(事務職です)、大学は夏休みが長いのです。 職員全体の夏休みが3週間あって、私はそれにさらに1週間有休を取って、毎年一ヶ月間の「夏休み」を取っていました。 その間、キャンプ道具と、テントと、画材一式を持って、山や海岸などで寝泊まりしながら絵を描きながら旅をして過ごしていました。 ものすごく重い荷物ですが、それを担いで歩き回っていたのです。 山の中で枕元にナイフを置いて、マムシに怯えながら寝たこともあります。 気持ちがいい河原を見つけテントを張ったのはいいのですが、夜中に暴風雨になり、増水が怖くなり、豪雨の中でテントをたたみ、近くの「屋根ありバス停」に避難したこともあります。 そんな思い出話はどうでもいいのですが、私にとってはそれだけ大事な夏休みだったのに、学長に「夏休みが長すぎるから短くしてくれ」と直訴した奴がいると聞いて、非常に驚いたことがあります。 そのような人は、仕事を与えられないと「やること」がなくなり、退屈してしまうのでしょう。 きっと、小さいときから「時間的自由」を与えられずに育って来たのだろうと思います。 そのような人は、自分の頭で考えることせずに、すぐに「正解」を求めます。それが「自由」を失っている人の特徴です。 そして、「すぐに正解を求める人の集団」では「異論」「反論」は許されません。というか、「正解」を信じている集団では、最初から「異論」「反論」が生まれる余地がないのです。 それが明治以降の一般的な日本人の状態だと思います。そして最近、その状態がますます強くなっているような気がします。 それがちょっと怖いです。 「空間的自由」も「時間的自由」と同じような意味を持っています。 ただ広い「空間」を与えられても、その「空間」を活用する目的や能力がなければ、その「空間」は無意味です。 大勢子ども達を集め、「好きにしていいよ」と「自由な時間」と「広い空間」を与えても、それだけでは「さんま」を与えたことにはならないのです。 子ども達が何人もいても、その子ども達の間に「肯定的なつながり」がなければ、それは「仲間」ではないのです。 逆に、相手が動物でも、草や木でも、更にいえば風や雲でも、それらとの間に「肯定的なつながり」があれば「仲間」なんです。 そして、そこで必要になるのが「物語」なんです。 ちなみに、この場合の「物語」とは、「つなぐもの」という意味です。 「見える世界と見えない世界をつなぐもの」が「物語」なんです。 そして、「物語」があるから、人は「時間」とも、「空間」とも「仲間」ともつながることが出来るのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.02.28 18:06:11
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