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森へ行こう(心とからだと子育てと)

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森の声@ Re:「自分の人生においてリーダーになる」(リーダーが育たない社会)(04/23) >今日の先生の言葉は私の身体を貫きまし…

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森の声

森の声

2015.06.28
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カテゴリ:カテゴリ未分類
smilecatsさんから以下のような質問を頂きましたので、何回かに分けて「自由とは何か」ということについて書かせて頂きます。(改行は私が入れました)

先生が言っていた、「子育てで感じる不自由は、物理的な自由ではなく、内側を自由にすれば解消される」ということを考えています。

考えてはいるのですが、「内側を自由にする」ということが、例えばどんなことなのか、思い至りません。
物理的に不自由な現状を自由と捉えることで、自由を感じて行動できるようになる、ということでしょうか。(自由の定義が変われば、ということ?)

こうして書いていると言葉遊びのような気もしてしまいます。。。

腕をつかまれた状態で、互いに踊れたあのワークをイメージしています。が、その状態で内側とは?考えるとよくわからなくなってしまいます


私たちは誰でも「自由」という言葉を知っています。そしてみんな「自由」を求めています。
「自由」がない状態は苦しいからです。

それなのに、改めて「じゃあ自由とは何か」ということを聞かれてもちゃんと答えることが出来ません。

以前、シュタイナー幼稚園のお母さん達の勉強会で、『シュタイナー教育は「自由への教育」ともいわれていますが、じゃあ、そのシュタイナー教育の根幹になっている「自由」って何ですか』と聞いたのですが、一人もちゃんと答えることが出来ませんでした。

これは、「生命とは何か」ということとも似ています。

みんな「生命」という言葉は知っているし、生活の中で普通に使っています。でも、改めて「生命って何ですか」と聞かれたら、明確に答えることが出来る人はほとんどいません。

科学もこの答えは持っていません。「生命」も「神様」と同じで、感覚的には分かるのですが、機械では測定することが出来ないからです。

「生命の働き」の結果としての「生きている」という状態は観察可能ですが、でも、「生命」そのものは観察することが出来ないのです。

なぜなら、「自由」も「生命」も「神様」も、人間の「感覚の世界」の中の存在だからです。

「人間の感覚」の中にしか存在していないのですから、科学の対象にはならないのです。


でも、「人間の感覚」の中には確かに存在しています。

だから、太古の昔から世界中で、「生命」や「神様」にまつわる物語や宗教が生まれたのですから。

また、私たちは「音楽」や「真・善・美」という世界を知っていますが、そういうものも全て人間の感覚の中にしか存在していません。

科学は「音の存在」は証明出来ますが、「音楽の存在」は証明出来ないのです。


でも、「感覚」の中の存在ですから、実際には「人それぞれ」です。時代や文化によっても異なります。

実際、現代人にとっては「音楽」でも、100年前の人には「騒音」にしか聞こえないものもいっぱいあると思います。

それを同じように、現代人が使っている「自由」という言葉の意味と、明治以前の「自由」という言葉の意味も異なります。

現代人が使っている「自由」は英語の「liberty」と「freedom」を基準としたものですが、「liberty」は「選択の自由」,「freedom」は「束縛からの自由」というようなことです。

でも、いずれも「個人」と「社会」、「自」と「他」というものを対立的に捉えた時に生まれる考え方です。

「権利」という考え方とも似ています。

でも、明治より前の人達が使っていた「自由」の考え方には「対立する他者」が存在していません。

というか、「対立を超えた世界」こそが「自由な世界」なんです。

それは、自然界の状態と似ています。草も木も、全ての生き物も、火も水も、お互いに対立などしていません。

対立しているように見えるのは、人間の価値観を投影して自然界を見てしまうからです。

自然界では全ての存在が、自分が置かれた状況の中で「自分に出来ること」だけをやっています。

人間のように「出来ない事」などに囚われたりもしません。


川の水は自由に流れています。石があっても、川が狭くなっても、ただ「自分に出来ること」だけをやっています。

せき止められ、流れることが出来なくなっても、諦めることも、戦うこともしません。ただ、そのような状況の中でも「自分が出来ること」をするだけです。

その結果、ずーっとそのままで「池」になってしまうかも知れませんし、水がもっと溜まって決壊し、また流れ出すかもしれませんが、いずれにしても「水」はただ「自分に出来ること」をやっているだけです。

そこには「自」と「他」の対立がありません。
対立がないのですから「自由」です。

池となって「水」が何もしていないように見えるときでも、「水」は諦めて固まってしまっているわけではなく、常に「自分が出来ること」はちゃんとやっているのです。

だから、小さな穴を開けてあげれば即座にそこから流れ出すのです。

でも、人間は「穴」を開けてあげても、自分で「自分」を固めてしまっていますから流れ出すことができません。

川を流れている時も、池となって溜まっている時も、水は「自由」なんです。

それが昔の日本人が考えていた「自由」という言葉の意味です。



でも、明治になって英語が入ってきたときに「liberty」と「freedom」の訳語として、仏教用語としてそれ以前から使われていた「自由」という言葉を使ってしまったために、「自由は戦いで勝ち取るものだ」と思い込み始めてしまったのです。

「池」は「水が不自由になった状態」だと考え始めたのです。


欧米の「自由」は、「対立」が前提としてありますから、「自由」と「不自由」は紙の裏表のような状態になっています。

ですから、「自由」と「不自由」は繰り返し訪れます。戦いによって「自由」を勝ち取っても、そのことがまた新しい「不自由」の原因になっていきます。

そして、それが社会の変革を生み出す力にもなっています。

現代人は昔の人よりも遙かに多くの「自由」を手に入れました。でも、私たちは自由ではありません。

電気も水道もスーパーマーケットもなかった時代のお母さん達よりも現代のお母さん達は遙かに自由な世界に生きています。

だからといって、皆さんは「自分は自由だ」と感じますか。「自由の喜び」を感じて生きていますか。

そうではないですよね。

社会的には色々なことが出来る状況なのに、自分自身に縛られて身動きが取れなくなってしまっていますよね。

そして、相手が「自分」なのですから、戦うことも出来ません。「自分」と戦えば、更に不自由に、更に苦しくなるだけです。

ここで必要になるのが、明治以前の人々が考えていた「対立を超えた世界の自由」なんです。

<続きます>






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Last updated  2015.06.28 09:03:43
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