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森へ行こう(心とからだと子育てと)

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森の声

森の声

2015.06.30
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カテゴリ:カテゴリ未分類
私たちは、考え、感じ、笑ったり泣いたり、行動したり、動いたりしていますが、それぞれに「自由」と「不自由」というものがあります。

つまり「思考の自由」、「感覚の自由」、「感情の自由」、「行動の自由」、「動きの自由」などです。

その中で、「行動の自由」だけが「他者との関係の中での自由」であり、社会的なものでもあります。そのため、唯一自分で自覚出来る「自由」でもあります。
不自由になればそれを自覚することも簡単です。

英語の「liberty」と「freedom」はその「行動の自由」に関係するものです。

でも、他の「自由」と「不自由」はなかなか自分では自覚出来ません。

自分が偏った考え方をしていれば、いくら一生懸命に考えても、その状況に合わせた正しい結果を導き出すことは不可能です。

でも、自分ではその「偏り」に気付かないため、「自分は正しい」と思い込んでいます。それなのに、結果は自分の思い通りにはなりません。

そのため、「相手の方が間違っている」としか思えなくなり、戦いが起きることもよくあります。

個人のケンカでも、国と国のケンカでも、お互いが自分の「正義」を主張し、「相手の方が間違っている」と言い合いますが、そういうことが起きるのも「思考」が不自由だからです。

お母さん達が一生懸命に考えても、子育てがうまく行かないのも「思考」が不自由だからです。

「洗脳」は、人為的に思考を不自由にする方法です。

子ども達に「こうあるべきだ」「こうしなければいけない」と教え込むことは、子ども達の「思考の自由」を奪います。

「体験による学び」は「思考の自由」を育てますが、「知識を覚えるだけの学び」は「思考の自由」を奪います。


「感覚の不自由」は、五感や12感覚の偏りによって生まれます。

私は、赤緑色弱なので色覚が正常な人とは異なった色の世界を見ているようです。でも、自分ではどう異なっているのかが全く分かりません。

生まれたときから、この色の世界しか知らないからです。

でも、子ども達と花火をしているとき、子ども達が、「あ、青くなった。今度は緑だ。」と色の変化に驚きながら声を上げている時、「この世界には自分には見えない色の世界があんだ」と強く感じ、寂しい思いをしたこともあります。

子どもが夜空の星を見上げて、「あの緑の星が」とか「あの赤い星が」と言ったときも、どの星のことか分からなかったです。

また、ワークなどで目を閉じて真っ直ぐに歩いてもらうと「真っ直ぐに歩いて下さい」という指示を出しているのにもかかわらず、大きく曲がって歩く人もいます。

本人は「真っ直ぐ」のつもりなんですが、感覚に偏りがあるため、曲がってしまうのです。

声に抑揚もなく、ただ大きいだけの人もいますが、そのような人は自分の声を感じる感覚に偏りがあるのでしょう。

強い刺激ばかりを求める人もいます。

匂いや味の感覚に偏りがある人もいます。

そのような「感覚の偏り」があると、世界を正しく認識出来なくなります。

それが「感覚の不自由」です。


「感情の自由」とは、「自由に笑ったり、泣いたりすることが出来る自由」のことです。

子どもの感情は自由です。というか、子どもは自分の感情を抑えることが出来ません。

それに対して、大人は「他の人の目」を意識したり、自分の常識や価値観に合わせて、自分の感情をコントロールすることが出来ます。

そのため、所構わず泣いたり、笑ったり、はしゃいだりする子どもに腹を立てることもあるのですが、あまり自分の感情を抑えた生活をしていると「本当の自分の気持ち」が自分でも分からなくなります。

それが「感情の不自由」です。


「行動の自由」については皆さんもよくご存じだと思いますので飛ばします。


最後に「動きの自由」があります。

これは「行動の自由」とは異なります。四十肩や腰痛になったり、足の裏にケガをしたりすると「動き」が不自由になりますよね。

簡単に言うとそういうことです。

でも、こういう「自分でも感じることが出来るからだの不自由」もありますが、「自分では感じることが出来ないからだの不自由」もあります。

というか、実は、私たちのからだは不自由だらけなんです。ただ単に、人は自分の内側の偏りは認識出来ないので、自覚がないだけです。

肩がこっているだけで「動き」は不自由になります。

重心が偏っていても、悩みやストレスを抱えていても、「動き」は不自由になります。
意識が何かに囚われていても、不安や恐怖があっても「動き」は不自由になります。

ゲームやテレビばかりの生活を繰り返していても、「からだ」が固まり、「動き」は不自由になります。

からだには意識の状態や、感情の状態や、生活の状態がそのまま表れてしまうので、それらが偏っていると、それがそのまま「からだの不自由」として表れるのです。

ですから、整体などをやっている人は、からだを診るだけで、その人の感情や生活の状態まで分かってしまうようです。

野口体操では「胸回し」ということをするのですが、胸が固まってしまっているため回らない人もいっぱいいます。

私たちは「からだ」に障害を持っている人を見ると「からだが不自由なんだな」と思いますが、障害を持っていても「自由なからだ」を持っている人もいます。

手足がなくても、自分のからだを自由に使いこなすことが出来る人もいるのです。
でも逆に、五体満足でも不自由なからだを持っている人はいっぱいいます。

というか、大部分の人は「不自由なからだ」のままで生きています。

ただ、自分では気付かないだけです。

「他者」というものが存在しない世界では、それがどんなに偏った状態でも自分では自覚が出来ないのです。

だから、なかなかその状態から抜け出すことが出来ないのです。






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Last updated  2015.06.30 08:05:11
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