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私はこの世界には「絶対」というものは存在していないと思っています。
全ては相対的で、お互いの関係に支えられて存在しています。 光は闇に支えられ、美は醜に支えられ、神は悪魔に支えられ、生は死に支えられいます。 美人やブスという関係も、勝ち組や負け組という関係も、大人と子どもという関係も同じです。 その証拠に、一方が消えれば他方も消えます。 そして、どちらの方が優れているということもありません。それはその時代、その文化の人達が勝手に決めたことです。 悪魔を崇拝する人にとっては悪魔こそが「神」で、神の方が「悪魔」です。 大人は「全く子どもは・・・」と言いますが、子どもは「なんで大人は分かってくれないんだ」と思っています。 男性は女性を「全く女性は・・・」と思っていますが、女性は男性を「全く男性は・・・」と思っています。 だからこそ相手の言葉に耳を傾けることが大切なんですが、でもこれは自分の意識を切り替えることでも出来ることです。 頭の中で「もし私が相手の立場だったら」と視点や価値観を反転して、「自分からはこう見えるけど、相手からはどう見えるのだろうか」ということをイメージしてみるのです。 今問題になっている「あの人」も「この人」も全くその想像力が欠如しています。 その感覚を政治に持ち込まれたら、対立しか生まれないので戦争の可能性は高くなるばかりです。 人は偉くなってしまうと「相手の立場に立って感じたり考えたり」ということが出来なくなるのでしょうか。 また、偉くなくても「不安」が強い人も同じような状態になります。不安が強い人は「自分」に自信が無いのに、「自分」を守るために「自分の考え」にしがみつくのです。 だから悪循環にはまってしまうのです。 その状態から抜け出すためには一旦「自分」というものを手放して見る必要があります。 自分を束縛している「自分」から抜け出してみるのです。 そして、イメージの中で相手の立場に自分の身を置いてみるのです。 すると「世界の見え方」が全く変わります。 「ディベイト」という方法はその訓練になります。 茅ヶ崎で月一回「表現ワーク」というものをやっているのですが、次回のテーマがその「ディベイト」です。(参加者募集です。土曜か日曜やっています。保育はありません。) みんながびびって参加者しなくなることを恐れていますが、その場では全体を「対立する二つの考え」に分けます。 その際、「自分の考え」は無視します。 「猫」が好きでも「犬が好き派」に入ってもらったり、犬が好きでも「猫が好き派」に入ってもらって、お互いにそのような立場の人の気持ちをイメージしながら議論するのです。 ここで大切なのは「勝つか負けるか」ではなく、自分とは異なった考え方の人の視点を体験することです。 でも、これがなかなか出来ないのです。 以前、「戦争反対派」と「戦争も必要派」に分かれてディベイトしてもらったことがあるのですが、「戦争反対派」になった人は「当たり前のこと」しか言えないし、「賛成派」になった人は、そんなこと考えたこともないので意見が出ません。 でも、これではいつまで経っても「平和」は訪れません。 日本では「対話の技術」や「議論の技術」を学ぶ場が全くありません。本当に、悲しくなるくらいありません。 だから人間関係作りが苦手なんです。 また、国会中継などを見ていてもただ「言い合い」があるばかりで、「議論」が存在していません。 相手の質問に答えず、同じことを繰り返すだけのどうしようもない人や、国民の代表として国会にいるのに、自分の個人的な意見を繰り返すばかりで、国民の立場からの発想をしない人もいっぱいいます。 そもそも、相手の言葉に耳を傾けずに、平気で「ヤジ」を飛ばすような人には民主主義国家の政治家としての資格はありません。 話を戻します。 「内観法」という方法があります。 以下は、その内観法のHPに記載されていた説明です。 内観法とは、「自分を知る」ための方法として開発された自己観察法です。 その歴史は、内観法創始者である故吉本伊信先生が昭和28年奈良県大和郡山市に内観道場を開設したのが始まりで、その後吉本先生が工夫を重ねられ昭和42年頃に今の方法を確立され現在に至っています。 具体的には、父母、祖父母、兄弟、姉妹、配偶者というような身近な人に対する自分の行動を していただいたこと して返したこと 迷惑をかけたこと という3つの観点で小学校低学年から年代順に具体的なエピソードを思い出し、自分自身のことや身の回りの身近な人々との関係をありのままに見直すのです。 昔、友人がこの内観法の指導者をやっていました。(今は故人です) これもまた、「自分へのこだわり」から離れて「自分」を観る方法です。 何かを学ぶのでも、何かを教えてもらうのでもありません。 ただ、一つ上の視点から「自分」を見直してみるのです。ただそれだけです。でも、それだけで人は変わるのです。 「自分に束縛されていた自分」が自由になるからです。 私は、何かを考えるときにいつもやっていることがあります。 このブログを書くときも同じです。 私からはこう見えるけど、子どもはからはどう見えるだろう。 男性からはこう見えるけど、女性からはどう見えるだろう。 文明化された社会に生きている人からはこう見えるが、自然の中で暮らしている人にはどう見えるだろう。 現代人にはこう見えるが、100年前の人にはどう見えるだろう。 昼間はこう見えるが、夜にはどう見えるだろう。 晴れているときにはこう見えるが、曇っているときはどう見えるだろう。 などというように、一つのことを多面的に考えてみるのです。 それでも、私は私ですから、どうしても「私の視点」からは逃れることは出来ません。 また、実際に文章にするときには一つの視点に立って文章をまとめない限り、「文章」としては成立しません。 絵ならピカソの絵のように多視点を同時に取り込むことも可能ですが、文章でそれをやってしまったら意味不明な文章にしかなりません。 だからその過程で抜け落ちることもいっぱいあります。違和感や反感を感じるような表現もあるかも知れません。 でも、そのような考え方をすることで「全体」が見えてくるのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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