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昨日は、
ですから、「障害の有無」など気にしてもしょうがないのです。 「育てにくい」というだけの理由で子どもを「障害児」にしていたら、ますます「障害児」は増えるばかりです。 ということを書きましたが、だからといって、みんな「普通の子」として扱いなさいということではありません。 そうではなく、障害が疑われる子も、そうでない子も、みんな「特別な子」として扱ってあげて下さいということです。 子どもは一人ひとりみんな違います。 大人は、常識や社会のルールなどに合わせて生きることが出来ますが、「自分」を育てている時期の子どもたちにはなかなかそれが出来ません。 それでも、多くの子が家庭や学校の中などでは、我慢しながら「大人のルール」に合わせて生活しています。 そして、その「我慢」が出来るのが、いわゆる「普通の子」や「良い子」になり、「我慢」が出来ない子が「問題児」として扱われます。 そしてその「問題児」の中に、「発達障害」と分類される子どもたちもいます。 つまり、「発達障害」の子どもも含め「問題児」と呼ばれるような子は「自分らしさ」を抑えることが出来ない子でもあるのです。 そのため、「みんな一緒」を求めるようなやり方だと、「問題児」も「発達障害児」もどんどん増えることになります。 それが今の学校や社会の状況です。 そもそも、そのように考えていくと、「普通」なら問題がなくて、「問題児」といわれるような子にだけ問題があると考えるのはおかしいのです。 自分らしさを抑えて生活しているような状況が、子どもの心と、からだと、知能の成長にとっていいわけがないからです。 ただ、「自分を抑える能力」自体は、人間の人間らしさを支えている根源的な能力ですから、それはそれで非常に重要なものです。 問題は、それが子ども自身の価値観や判断によってではなく、大人からの強制によっていることです。 だから、大人の支配力が強い間は自分を抑えていますが、思春期になり、自我が強くなり、自分も大人に近くなってくると、その抑制が効かなくなってしまうのです。 でも、障害があろうとなかろうと、一人一人の子どもの違いを認め、一人一人の個性に合わせた教育や関わり方をするなら、「問題児」も「発達障害」も消えてしまうのです。 「動き回りたい子」を静かに椅子に座らせておこうとするから「問題児」が生まれてしまうのです。 だからといって「好き勝手にさせなさい」ということではありません。 「動き回りたい子には動き回ることで出来る活動や学びを与えてあげて下さい」ということです。 その子の特性が「短所」になるような活動ではなく、「長所」になるような活動を与えてあげて下さい、ということです。 動き回るのが好きな子には、「動き回らなければできないような学び」を与えてあげれば、その子の特性は「長所」になるのです。 じっくり考えるのが得意な子に、ただただ暗記することだけを求めていたら、その子の「じっくり考える能力」は短所にしかなりません。 でも、そのような子に「じっくりと考える活動」を与えれば、その能力は長所になります。 逆に、暗記するのが得意な子に、じっくり考えることばかりを求めていたら、その子の「暗記する能力」は短所にしかなりません。 でも、いっぱい暗記する活動を与えたら、その能力は長所になります。 日本の教育は、みんな違った能力を持っている子どもたちに、同じ課題を与え、同じ能力を求めているからおかしなことになってしまっているのです。 実際、椅子に座って教科書と向き合ってばかりでは決して学ぶことが出来ない学びもあるのです。 というか、本当はそっちの方が子どもの成長には必要なものなのです。 そして面白いことに、子どもの個性が生かされるような学びを与えてあげていると、次第に心とからだのバランスが取れてきて、子どもたちは落ち着いてくるのです。 でも、実際には、家庭でも学校でも、大人たちはみんな、それとは逆のことばかりをしています。 「みんな一緒」という考え方は、全ての子どもを否定する方法です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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