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シュタイナー教育では芸術的な要素を非常に大切にしています。
だからといって、「芸術」を教えることを目的としているわけではありません。 また、芸術を通して感性教育をしようとしているわけでもありません。 そもそも、「芸術」は教えることが出来ないものですから。 でも、そこが現代人、特に日本人にはよく分からないようです。 日本人にとっての「芸術」は欧米からやってきたものです。 そしてそれは欧米の文化や、欧米の人の生活と結びついたものですから、日本人の感性の外側にあるものであって、内側にあるものではありません。 そして人は「外側にあるもの」は簡単に認識できるのに、「内側にあるもの」はなかなか認識出来ないのです。 それで、幕末や明治の頃には「欧米の芸術」を取り入れるために、「昔から日本に伝わってきていた芸術」を惜しげもなく廃棄したり、破壊したり、二束三文で外国に売り飛ばしてしまいました。 そして、「西洋の芸術」を、ありがたい西洋の科学や文化とセットにして、取り入れました。 でも、それらはもともと欧米の人たちのものですから、日本人の感性と同化することが出来ませんでした。 今でも多くの人が「芸術」と聞くと「高尚なもの」と感じてしまうのはそのためです。 でも、欧米の人たちは逆に、日本人がゴミのように捨てていた浮世絵や様々な工芸品に「芸術」を感じて買いあさりました。 日本にも、欧米の「芸術」に引けを取らない「芸術」があったのですが、日本人はそれに気づかなかったのです。 シュタイナー教育に対しても、その本当の意味を理解することなく、「欧米的な文化や芸術的な雰囲気に対するあこがれ」だけで惹かれている人も多いのではないかと思います。 確かに、シュタイナー幼稚園や、シュタイナー学校は「欧米的な美しいもの」で満たされています。 私もその雰囲気は大好きです。 色とりどりの「美しいもの」に囲まれていると幸せな気持ちになるのも事実です。 そして、簡素な和風の雰囲気のシュタイナー幼稚園の話はあまり聞きません。 でも、人間にとっての「芸術」の意味や役割は、単に「飾るためのもの」ではないのです。 実は、私たち人間にとっては、「自分の意思に基づいて生きる」ということそのものが芸術的な行為なのです。 ロボットのように、指示や命令に従うだけの生き方には芸術的な要素は必要ありませんが、自分の意思で自分の人生を生きるためには、芸術的な発想や芸術的な感性がどうしても必要になるのです。 「子育て」でも同じです。 「子育て」には正解がありません。指示や命令を出す人もいません。 さらに、子どもは一人一人違うし、同じ子どもでも、刻一刻とその心とからだの状態は変化しています。 そんな子どもに寄り添い、楽しみながら子どもの育ちをサポートするためには芸術的な発想や感性がどうしても必要になるのです。 そうでないと、子どもに振り回されたり、正解に束縛されたり、子どもを束縛しようとしてしまい「苦しい子育て」になってしまいます。お母さんだけでなく、子どもも苦しくなります。 人間の中のもっとも人間らしい要素を育てるのが、芸術的な行為なのです。 そのための芸術的な活動なのです。 芸術的な作品を作ったり、芸術的でおしゃれな雰囲気で満たすのが目的ではないのです。 ちなみに、欧米の人は家の中を飾ることが好きです。今では、日本人も家の中を飾っています。 シュタイナー幼稚園も園の中を素敵に飾っています。 でも、昔の日本人は、家や、家具や、日常雑器そのものを芸術的な感性で作っていました。 光りをうまく取り入れる障子や、絵が描かれたふすまや、木目を生かした柱や、彫刻を施された欄間や、窓から見える風景なども工夫していました。 家そのものが芸術的なので、そこに色々と飾り付けるのは野暮なんです。 欧米の人は家の中を芸術で飾りますが、日本人は芸術の中で暮らしていたのです。 だから芸術というものを自覚できなかったのだし、だから生活が変わると共に、その価値も消えてしまったのです。 でも私は、そういう日本人の感性を生かしたシュタイナー幼稚園があってもいいのではないかと思っています。 羊毛や、ぬらし絵や、オイリュトミーをやらなくても、シュタイナーが目的とした教育は可能だと私は思っています。 実際、世界中にはシュタイナー教育を受けずともシュタイナー的な価値観に照らしても素敵な人や、素晴らしい人はいっぱいいるのですから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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