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森へ行こう(心とからだと子育てと)

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森の声

森の声

2016.05.23
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カテゴリ:カテゴリ未分類
私が子育ての参考にお母さん達に勧めている二冊の絵本があります。

「てん」(ピーター レイノルズ著・谷川 俊太郎 訳)

てん
と、

「びゅんびゅんごまがまわったら」(宮川 ひろ著・林 明子 絵)

びゅん

の二冊です。

この二冊の絵本に登場する大人は、子どもに対して全く異なった関わり方をしています。
双方とも「待つ」という姿勢は同じなんですが、立っている位置が違うのです。

「てん」では、子どもの「今」を肯定し、子どもに寄り添い見守りながら、子どもが自分の意思で目覚めていくのを待っています。

「気づき」を促すような働きかけはしていますが、正解を与えることもなければ、追い立てることもしていません。

ですから、このような関わり合いを通して、子どもは「自立心」や「自分らしさ」を育てていくことが出来ます。


それに対して、「びゅんびゅんごまがまわったら」では、大人は「目標」を与える役割をしています。

でも、その「目標」は「正解」ではなく、子どもが自分の意思で動き出すきっかけに過ぎません。
ですから、子どもを追い立てることもなければ、途中で目標を変えてもOKです。
また、目標に至る過程は子どもに任せています。
かかる時間も任せています。

このような関わりで大切にしているのは、「目標通りの結果に至ること」ではなく、「目標を目指している過程で様々に工夫し、様々なことに気づき、自分の気づきを通して学ぶこと」です。

「目標」自体が目的ではないのですが、「目標」があるからこそ、このような学びが発生するのです。

例えば「基地を作る」という目標があるからこそ学ぶことが出来ることもあるのです。

ですから、この場合も「待つ」ということを大切にしています。子どもを追い立てたら「気づき」も「学び」も生まれないからです。

それに対して、「てん」で大切にしているのは「自分らしさを大切にすること」ですから、大人は「目標」を与えません。「目標」を決めるのは自分自身です。


この両者とも、「待つこと」を大切に考え、「正解を与え子どもを追い立てる学校教育」や、「成長を急がせようとする知育教育」には批判的です。

でも、大人の立ち位置が違うため、方法論的には異なったものになってしまうのです。
この両者は「どちらが正しい」ということではなく、子どもの育ちには両方とも必要なものなんです。

ただ、「てん」のような関わり方はお母さんにも出来ますが、「びゅんびゅんごまがまわったら」的な関わり方は、お母さんはあまり得意ではありません。

なぜなら、幼い子どもの目標は「お母さん」そのものだからです。
幼い子どもはお母さんと一緒にいたいのです。そして、お母さんの真似がしたいのです。

ですから、お母さんが目標を与えるため子どもの傍から離れようとすると、子どもは嫌がります。

でも、子どもはお母さんの近くにいたい2,3才頃までは目標を求めませんが、お母さんから離れて仲間と群れて遊ぶことが出来る年令になって来ると、次第に目標を求めるようになります。

それが成長の本能なのでしょう。

けん玉が上手な子を見てあこがれれば、それが目標になったり。かけっこが早い子を見れば、速く走ることが目標になったりします。

そして目標を目指す過程で様々なことを学びます。

特に、胆汁や多血といった仲間と群れて遊ぶのが好きなタイプの子は、目標があると喜びます。

そのような子どもたちは、大人が目標を与えなくても、自分たちで目標を作って競い合います。それが成長の本能だからです。でもそのため、時にはゲームやイジメといった困った方向に競い合うようになってしまうこともあります。

その時、大人が子どもの成長に必要だと考えた適当な目標を用意することで、子どもたちはその目標を目指す過程で、「大人の社会に入っていくために必要な多くのこと」を学ぶことが出来るようになります。

でも、群れて遊ぶよりも自分の世界を大切にしたい子は、それを「押しつけ」と感じてしまうこともあります。

子どもによっても「合う」「合わない」があるのです。

そして、どちらかというと「自分の世界を大切にしたい」と考える人は、シュタイナーの世界に共感しやすいような気がします。

シュタイナーの幼児教育では、「てん」の絵本のように「自分の可能性を広げるきっかけ」は与えますが、具体的な目標は与えないのではないかと思います。

「ぬらし絵」も「オイリュトミー」も子どもの可能性を広げるためのきっかけなのではないかと思います。

関わり方が母親的であり、芸術的なんです。

芸術の世界にも「目標」はありませんよね。

でも、「人と人とのつながりの中で生きる力を育てたい」と考える人は、モンテッソーリ的な考え方に共感しやすいように感じます。

そこには「理想」や「目標」があります。


実は、さらにもう一つの考え方もあります。

それは、大人の関わりをなるべく少なくして「子どもの本能に任せよう」というような育て方です。この場合、大人は子どもと一緒に生活し、見守り、助けが必要なときには助けますが、基本的に、子どものことは子どもに任して、積極的には関わろうとしません。

大人が積極的に関わろうとしなくても、子どもは常に大人を観察して、模倣しようとしているので、「人間らしい人間」と一緒に生活していれば、自然と「人間らしい人間」に育っていくのです。

実際、昔の子どもたちはこのような状態の中で育っていました。
ただし、このような子育てを行うためには「遊びや生活を共有する異年齢の群れ」と、「自由に遊ぶことが出来る空間」と、「大人に支配されない自由」が必要になります。

でも、今の時代、これはなかなか難しいことです。
そして、この条件を満たすことが出来ない場合には、前者の二つのような大人の意識的な関わり合いが必要になります。

この三つはみんな「子どもの立場に立って待つこと」を大切にしている「兄弟」のような関係なので、お互いに「補い合う関係」として受け入れればいいのですが、自分のやり方にこだわると対立が生まれます。

なかなか難しいです。





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Last updated  2016.05.23 18:37:10
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