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競争社会に生きている現代人は「勝ち負け」にこだわります。
現代人はスポーツが大好きですが、それは、スポーツは基本的に「勝ち負け」を競うものだからなのでしょう。 「勝ったり負けたり」という波乱のドラマに感情移入することで、興奮するのです。 確かに、健康を維持するために、勝ち負けを目的としないジョギングや水泳をやっている人もいますが、厳密に言うと、それらは「健康法」であって、「スポーツ」ではありません。 なぜなら、「競技としてのルール」がないからです。 太極拳や、気功や、ヨガや、ウォーキングや、呼吸法と同じ種類のものです。 そして、それらまで「スポーツ」として考えてしまうと、スポーツの定義が出来なくなってしまいます。 ちなみにウィキペディアには スポーツ(英: sport)は、一定のルールに則って営まれる、遊戯・競争・肉体鍛錬の要素を含む身体を使った行為。 と書いてあります。 「一定のルールに則って営まれる」と言うからには、そこには必ずそのルールを共有する他者がいるのです。 その他者と勝敗を競うのがスポーツです。 逆に言うと、だからルールが必要なんです。 一人だけで楽しむのが目的であったり、勝ち負けにこだわらないのならルールは必要がないからです。 そして、勝ち負けにこだわらないでやっているのは「健康法」や「遊び」の類いであって、「スポーツ」ではありません。 公園で子どもたちがやっている「ボール蹴り」は、「サッカーを模倣した遊び」であって、「スポーツとしてのサッカー」ではありません。 そして、子どもたちが仲間と遊んでいるときには「勝ち負けを競うスポーツ」などやりません。 子どもにとって大切なのは「楽しいか、楽しくないか」だけであって、「勝ち負け」にはあまり興味が無いからです。 そもそも「勝つ」とか「負ける」というのは社会的な概念なので、まだ「社会」というもの自体が理解できない子どもには「勝ち負け」の意味すら分からないのです。 実は、「勝ち負け」にこだわるのは大人だけです。 さらに言えば、「人間の大人」だけです。 「人間の大人」以外で、自然界に「勝ち負け」にこだわる生き物は存在しないのです。 ですから、勉強でも、体育でも、親や先生があまり勝ち負けにこだわると、子どもは苦しくなってしまうのです。 自分の中の「子どもらしさ」を否定しなければならなくなってしまうからです。 「勝ち負け」にこだわる価値観では、「逃げること」は否定されています。 競争が好きな人は「逃げるのは卑怯だ、弱虫だ、負け組だ」と思い込んでいます。 子どもたちにもそう教えています。 でも、自然界では逃げる方が正常で、「逃げてはいけない」という考え方の方が異常なんです。 だから、子どもも簡単に逃げるのです。 なぜなら、「逃げてはいけない」というのは、国や、社会や、チームや、会社を守るためには必要な考え方ですが、自分の命や、心や、からだを守るためには有害な考え方だからです。 そのため、自分の成長のためだけに生きている段階の思春期前の子どもたちには、そのような考え方が理解できないのです。また、「逃げてはいけない」と束縛しようとすればするほど、逃げようとするのです。 逆に言えば、だから「忠誠心」や「命令に従って行動する能力」を高めるために、学校教育の中にスポーツが取り入れられているのかも知れません。 戦争中の軍事教練と同じです。 実際、からだを育てるためだけなら、勝ち負けがない、鬼ごっこや、木登りや、竹馬の方が効果的なはずです。 よく、自分を犠牲にして会社に服従して、鬱病になってしまう人がいますが、人は会社のために生まれてきたわけではないのですから、会社が自分の生命や心やからだに害を及ぼすような状況なら、逃げた方がいいのです。 それは決して卑怯なことではありません。 むしろ、会社のために働いたのに使えなくなったら放り出してしまうような会社の方がよっぽど卑怯です。 じゃあ、「会社はどうなってもいいのか」ということを言う人がいるかも知れませんが、社員を大切にしないような会社はつぶれても仕方が無いのです。 それは自業自得です。 「無職になってもいいのか」ということも言う人がいるでしょうが、「心」や「命」を失うよりはましです。 学校が「子どもに害のある場」だと感じたら逃げてもいいのです。 親の役割は子どもを守ることであって、学校に服従することではないのですから、逃げても卑怯でもなければ、「負け組」でもないのです。 子どもを守ることが出来ないような学校は、もう「学校としての機能」を失ってしまっているのです。 自然界や現実の世界では、逃げ回ってでも「生き延びた方」が勝ちなんです。 そのような世界において一番強い人は、「敵を作らない人」や、さらには「敵をも味方にしてしまう人」です。 実際には、戦いを避けることが出来る人が一番強い人なんです。 それはまた、昔の日本の武道家の考え方でもありました。 現代の剣道では勝ち負けを競いますが、昔の武道家はまず戦いを避ける方法から探っていたのです。 いったん戦いが始まったらどちらかが死んでしまうからです。どんな剣豪でも、100%勝つという保証はどこにもないのです。 坂本龍馬は勝海舟を殺しに行きますが、逆に勝海舟に惚れ込んで弟子になってしまいました。 戦うのはどうしても逃げることが出来ない状況に追い詰められたときだけです。 剣術はそのような時に役に立ったのです。 宮本武蔵は生涯無敗を誇っていましたが、スポーツだったら考えられないような卑怯な手も普通に使っています。結果として生き延びた方が勝ちだからです。 また、彼にとって勝負に勝つのは記録のためではなく、仕官(就職)のためでした。 もともと粘液質や憂鬱質が強い日本人には「競争」という概念があまりなかったのです。 羽子板や蹴鞠のような遊びは勝敗を競うためのものではなく、ラリーを楽しむためのものです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
羽子板や蹴鞠のような遊びは勝敗を競うためのものではなく、ラリーを楽しむためのものです。
この言葉はすごく納得。 すべてのことがそうなんだ、って思う。 (2016.06.27 17:52:08)
あおあおさん
>羽子板や蹴鞠のような遊びは勝敗を競うためのものではなく、ラリーを楽しむためのものです。 > > >この言葉はすごく納得。 > >すべてのことがそうなんだ、って思う。 ----- でも、今子どもと羽子板をすると、勝とうとするので、とても取れないところに平気で飛ばします。 そして「勝った勝った」と喜びます。 だから続きません。 (2016.06.29 12:26:40)
初めまして。
いつも、子どもと関わる上でのヒントを頂いています。 「勝敗を競うためのものではなく、ラリーを楽しむためのもの。」 ラリーを楽しむ、っていいなー。 子どもとの会話も、ラリーを楽しもうって思います。 決して子どもを「言い負かす」なんて事のないようにしなければ・・・。 結果や付加価値なんて求めずに、ただただ子どもとのやりとりを楽しんでいきたいです。 (2016.07.01 16:59:51) |