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ここのところ「自然」の大切さ、「自然との関わり」の大切さを書いていますが、だからといって、子どもたちをただ「自然」の中で遊ばせるだけでは「自然」と出会えません。
逆に、「自然」がないと言われている都会の中で育っていても、「自然」と出会えることもあります。 なぜなら、私が言っているところの「自然」とは、「物」としての葉っぱや、木の実や、木々や、虫や、川や、土などのことではなく、「それらの存在を支えている働き」のことだからです。 私たちのからだの中にもその働きはあります。というか、その働きがなければ全ての生き物は存在することが出来ません。 それなのに、多くの人が、自然の本体としての「働き」の方ではなく、その働きの「結果」としての木の実や、木々や、虫や、川や、土など「目に見えるもの」の方を「自然」だと思い込んでいます。 そして、そういうものがいっぱいあるようなところで子どもたちを遊ばせれば、子どもたちは素敵な人間に育つと思い込んでいます。 でも、木の実や、木々や、虫や、川や、土など「目に見える物」で遊ぶだけでは「自然」とは出会えないのです。 自然の美しさも、自然に対する畏れも、不思議も感じません。 自然の意味も価値も感じません。 分かるのは、目に見え、手で触れることが出来る「物」との関わり方だけです。 魚の釣り方やさばき方は分かりますが、命の大切さは分からないということです。 なぜなら、「自然」の本体の方は目で見ることも出来ないし、手で触れることも出来ないからです。 そのため、自然物と関わって遊ぶだけでは、子どもたちが素敵な人間に育つということもないのです。 実際、古代から100年前ぐらいまでの子どもたちは、ほとんど100%、「自然」の中で遊んで育っていましたが、だからといって素敵な大人に育った人ばかりではなかったことは歴史を見れば明らかです。 昔の生活に戻すだけで素敵な人間に育つと考えるのは幻想に過ぎないのです。 今でも、田舎の方に行けば「自然」がいっぱいあります。でも、だからといって、みんながみんな「自然」を大切にする感覚を持っているわけでも、素敵な人間に育っているわけでもないですよね。 実際には、田舎の方に行くほど、便利で豊かな都会にあこがれ、山を崩し、田んぼを埋め立て、道路を作り、ビルを立てることを望んでいる人の方が多いのではないでしょうか。 じゃあ、何が必要なのかということですが、そこで「言葉」が必要になるのです。 人が、「自然」に対して、価値や、つながりや、美や、不思議や、畏れを感じるようになるためには、「言葉」が必要なのです。 真・善・美の感覚は「言葉」の世界の中にしか存在できないからです。 そしてだから、大人との関わり合いも必要になるのです。 「自然」がいっぱいあっても、「言葉」を伝えてくれる大人がいがない状況で育った子は、「素朴な自然児」以上には育つことが出来ないのです。 そこで、子どもだけを自然の中に放り出すのではなく、大人も一緒に入っていって、木の実や、木々や、虫や、川や、土など「目に見える物」の背景で働いている「自然の働き」(自然の物語)に意識を向けるような語りかけが必要になるのです。 例えば、子どもはドングリを拾うのが好きです。 でも、そのドングリが動物たちや森を支えていることは知りません。 また、その森が川や海を豊かにしていることも知りません。 そういうことは大人が言葉で伝えないことには子どもは分からないのです。 そして、その「つながり」こそが「生命」や「自然」の本体なんです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
今日の朝、次女が「ママ、リビングにセミがいる~~!」と大騒ぎしていたのでみにいくと、リビングの床
に小さいセミが静かにいました。たぶん、ニイニイゼミかな?いっつも見るのはアブラセミばかりだから、めずらしいかも~^^ 捕まえてベランダの高いところにおくと、ヨタヨタとはじっこへ行き飛ぶ準備をしてるようでした。 もう、弱っているはずなのに、まだ子孫を残す本能で飛ぼうとしているのでしょうか?なんか、強いですよね。 そのあと、テレビでセミ幼虫が手で成虫にしたという話の中で、ふ化しているセミは綺麗なエメラルドグリーンをしていて綺麗でした。 昔、夏休み近くの森に遊びにいくと、弱って木につかまれないセミの幼虫がいて、とりあえず近くの葉っぱに捕まらせたのですが、帰りに見に行くと、息絶えてありにたかられてました。 それだけ見ると、ありが悪者になってしまうので 何かを話したと思います。 長女はいろんなことに「かわいそう」が多いけど 次女はいまだに「不思議」が多いので 同じ環境で育っていても感じ方が全然違うのが面白いです。 (2016.07.27 10:47:30)
ぐりぐりさん
>長女はいろんなことに「かわいそう」が多いけど 共感して見てしまうのでしょうね。 >次女はいまだに「不思議」が多いので 共感ではなく、もう少し俯瞰的に見ているのかも知れませんね。 (2016.07.27 15:12:47)
先日、子供達と蝉の幼虫を捕まえて、家で羽化を観察しました。
長男は虫が好きなので図鑑で羽化の順序を知ってはいましたが、目の前で見るのは初めてで、夜遅くまで粘って観察していました。 その時、命というものは言葉じゃ伝えられない、こういう体験から感じるものなんだと思ったのですが、言葉で伝えることも大切なんですね。自然と色々語りながらの観察になりましたが… 他の親子も誘って観察会したのですが、みんな喜んでました。特に、仕事から帰ってきた父親たちが驚き興奮してみていたとの事です。みんな初めて見たと。マンションだらけのこの地域でも今の時期は毎日のように蝉が羽化してることに気づかないで過ごしてたんですね。 普段、ベランダに蝉がいて怖いなとか思っていた存在の蝉が、もっと違う感覚で感じてもらえたらいいなと思います。 (2016.07.28 17:04:25)
なるほど・・・
自然と関わることの意味、言われてみれば、たしかに・・・と思うのですが。 わかっているつもりで、わかっていませんでした。そういうことなんですね!はっとさせられました。 何も言わなくても感じてくれていると勝手にそう思っていたり、ここで何か言ったら子ども自身が感じていることを邪魔してしまうような気さえしていたように思います。 私が何か言うと、解説じみてて、うるさがられそうかな・・・とか。 何気なく、自然に、自分の言葉で伝えられたら素敵だなあと思います。 理想が高いのでしょうか。苦手意識が強いのかもしれません。 でも、ちょっとやってみます。つながらなかったら、もったいないですものね。 (2016.07.28 23:01:28)
かあちゃんさん
>その時、命というものは言葉じゃ伝えられない、こういう体験から感じるものなんだと思ったのですが、言葉で伝えることも大切なんですね。自然と色々語りながらの観察になりましたが… 大事なのは言葉で説明することではありません。 気づきを促し、体験を深めるために言葉を添えるのです。 「どうやってあの狭い中に入っていたんだろうね」と問いかけるだけでもいいのです。 (2016.07.29 12:17:41)
虹の彼方さん
>何も言わなくても感じてくれていると勝手にそう思っていたり、ここで何か言ったら子ども自身が感じていることを邪魔してしまうような気さえしていたように思います。 「感じる」ということは外部と内部の共鳴によっておきます。 ですから、内部に受け皿がなければ、外部からの刺激だけでは感じることは出来ないのです。 (2016.07.29 12:20:17) |