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生活に必要がない能力が萎えても、私たちは気づきません。また、そのことを問題に感じることもありません。
たとえば、長時間歩く必要がない生活をしていると、必然的に歩く能力は低下します。でも、そのことには気づきません。そのことに関して問題も感じません。なぜなら、「長時間歩く」というのはその人の生活には必要がない能力だからです。 「必要がないもの」が消えても、人は気づかないのです。 そのため、「本来の人間の能力」を知っている人に、私たちが「便利さと引き換えに失ってしまったもの」を指摘されても、なかなか理解できません。 これは、「歩く能力」だけでなく、「考える能力」でも、「工夫する能力」でも、「助け合う能力」でも、「意思疎通する能力」でも、「手やからだを使う能力」でもみんな同じです。 そして、私たちが失った能力を便利な機械や道具が補ってくれています。 というか便利な機械や道具に依存した生活をしているから、多くの能力が必要なくなってしまっているのですけどね。 これは子どもの遊びでも同じです。 昔の子どもの遊びはみんなからだを使ったり、仲間と一緒に遊ぶようなものばかりでした。 その結果必然的に、子どもたちは毎日の遊びを通して「からだの使い方」や「仲間とのつながりかた」を学ぶことが出来ました。 でも、室内で、便利な機械や道具に依存して遊んでばかりいる子は「からだの使い方」を学ぶことが出来ないまま成長することになります。 そういう能力が必要のない遊びが主流になってしまったからです。 でもその結果、「からだの使い方」を学ぶ過程で育っていた様々な能力も育たなくなりました。 それは、考える能力、工夫する能力、我慢する能力、集中する能力、体力、筋力、意志の力、からだの柔らかさ、自律神経系の働き、自分の心やからだとの向き合い方などです。、 この中には、スポーツ教室などに通うことで補うことが出来る能力もありますが、「大人の指示でやらされている活動」と「自分の意思で取り組んでいる活動」とでは、育つ能力は同じではないのです。 また、「仲間とつながる能力」を育てる過程で育っていた、「自分の意見を言う」、「人の話を聞く」、「待つ」、「譲り合う」、「助け合う」、「目を見て話す」、「ルールを守る」というような能力を育てることも困難になりました。 こういう能力がなくても遊べる遊びが主流になってしまったからです。 この中には便利な機械や道具で補うことが出来るものもありますが、「体力」や「自律神経系の働き」のような、その子の「生命の働き」とつながっている働きは、機械や道具では補うことが出来ません。 「意識や心の働き」も、機械や道具では補うことが出来ません。 心やからだというものが一通り出来上がってしまっている大人が、便利な機械や道具に依存しても、もともと持っていた能力が低下するだけで、それほど大きな問題にはなりませんが、心や、からだや、脳や、意識の働きが今育ちつつある子どもたちが、便利な機械や道具に依存した生活をしていると、心や、からだや、脳や、意識の成長に歪みが生じ、大人になってからもそれらが不安定になってしまうのです。 たとえば、大人になってから人と話すことがない生活をしても言葉を忘れることはありません。でも、幼児が言葉を使わない生活をしていたら、言葉を話す能力自体が育たなくなってしまうのです。 最近では「子どもの成人病」が増えてきているようですが、その「子どもの成人病」や、「疲れやすい」、「ストレスが溜まりやすい」というのもその症状の一つです。 「キレやすい」のもその症状の一つです。 それで大人は子どものそのような状態に対症療法的に対応しようとしていますが、対症療法は「イタチごっこ」にしかなりません。 また、子どもたちのそのような状態を「今どきの子どもの当たり前の状態」として、特に問題を感じていない人も多いです。 さらに、今では同じような状態の親子も珍しくありません。 そして、親子で同じ状態の場合、そのことに問題を感じてもらうことはほとんど不可能になります。 問題を説明することがそのまま親の状態を否定することにもなるので、不快感や反発を招くばかりです。 そのような状態の人は不平や不満や愚痴が多いのが特徴なんですが、でも「それは周囲が悪いからだ」と考えるばかりで、自分の中に原因があるとは夢にも思っていません。 便利な機械や道具を使うことで、私たちの豊かさや生活は支えられています。でも、だからといって、それらに依存してばかりいると、何億年、何千万年、何百万年という時間の中で、そういうものが存在しない状態の中で成長するように作られてきた生命の働きの成長に支障が出てしまうのです。 だからといって、現代人の生活の場から便利な機械や道具を消すことは出来ません。 またそんなことをしたら、ご飯を炊くことも洗濯をすることも出来なくなってしまいます。 でも少なくとも、子どもにあまり便利な機械や道具やおもちゃを与えないということは出来るのではないかと思うのです。 また、お母さんや家族と一緒に何かをする活動を増やすことも出来ます。 ディズーニーランドよりも海や山に行った方が、はるかに「一緒の活動」は増えます。 夏に岩手山に登りましたが、家族連れの登山者もいっぱいいました。「いっぱい」と言ってもディズニーランドの比ではありませんが、そういうことを大切にしているお母さんやお父さんも多いということです。 子どもにドロンコ遊びのようなワイルドな遊びをさせたいお母さんは、子どもをプレイパークのような、そういう遊びが出来る場所に連れて行くでしょう。 そして、そこには同じような遊びをしている子がいっぱいいるでしょう。 だから、そのような場に来ている子どもたちだけを見ていても、今どきの子どもの問題は見えてきません。 休日に公園に行っても、小さな子を連れた親子はいますが、子どもだけのグループで遊びに来ている子はあまり見かけません。 いても、ベンチに座ってゲーム機をのぞき込んでいます。 夏休みに自然豊かな公園に行っても、子どもたちだけで遊んでいる姿はあまり見かけません。 私が問題にしているのは、「見えるところで遊んでいる子どもたち」ではなく、「見えないところで遊んでいる子ども達」のことなんです。 そして、今ではそのような子の方が圧倒的に多数なんです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
ほんとにおっしゃる通りです。
夏休みにでさえ、ほとんど公園で子供達を見ませんでした。まるで学校のある日のようでした。 暑さのせいもあるかもしれませんが、水鉄砲や水風船で遊ぶ姿はほとんど見なくなりました。残念です! 便利な物ばかりで遊んでいては、何も育ちませんね!! (2016.09.26 18:00:19)
森の声様こんにちは
地域柄か、我が家の小4.小2の息子達は、遊び場所は限られますが、遊び仲間には恵まれ、なかなか帰宅せず 外遊びに夢中なのと同じ位、消費する遊びにも夢中 新しいカードが欲しいし、兄弟の片方が良いカードを手に入れれば、もう片方はやっかむしで>_< 何も起こらない日は無い?位、目まぐるしい日常です 宿題も有りますしね、夜はゆっくり過ごさせたいのですが、遊びを隙間時間にねじ込んできて、結局、寝る前の時間や、登校前に色んな事が詰まってくるのです たまに鬼母である私の交通整理が入り、生活の微調整をし、何とかギリギリ形になってる と〜っても危うい状態です 世の中のスピード、子供のスピードについて行くのは、ほんとにしんどいですね〜>_< 瞬時にジャッジしないと、もう勝手に進めてるし、止めるのも至難の技 母は鍛えられっぱなしです おかげで職場では!あなたはほんとにハッキリしてて良いねって、褒めなのか何なのかわからない事を言っていただきますが… 子育てをする前の私からは考えられない他人様からの評価 自分が子供の頃も、子供ってこんなにとっちらかってたかしら?カードゲームや携帯ゲーム機がなければ、もう少しゆったりと過ごせるかしら… と思いながらも、禁止までは出来ず バランス良くやって行けるよう、手を貸し続けるしか無いのか!悩ましいです もう走り出してますから、見守っていくしか無いのでしょう 今日は花札を教えました 評判上々でした 坊主めくりなんかも好きです こういう遊びは、心から一緒に笑えます まとまりなく書いてしまいましたm(__)m 今も子供から問いかけがあり いつもありがとうございますm(__)m これからも更新楽しみにしておりますm(__)m (2016.10.01 17:34:38)
うめのわさん
>自分が子供の頃も、子供ってこんなにとっちらかってたかしら?カードゲームや携帯ゲーム機がなければ、もう少しゆったりと過ごせるかしら… >と思いながらも、禁止までは出来ず > >バランス良くやって行けるよう、手を貸し続けるしか無いのか!悩ましいです まあ、楽しみながら子どもと付き合っていれば大丈夫だと思いますよ。 (2016.10.01 18:53:51)
>まあ、楽しみながら子どもと付き合っていれば大丈夫だと思いますよ。 > ----- 森の声様、お返事ありがとうございますm(__)m 「楽」だけでなく、色んな感情を見事なまでに見せつけちゃってますけど、負の感情の方も合わせて見せてやるのも親の仕事かな…というか、隠せないだけですけどね笑 子育ては親育てってこういう事か!って わかるって楽しいですね いつもありがとうございますm(__)m (2016.10.01 21:23:47) |