以下は、11月11日のコメント欄における緑の鈴風さんと私のやりとりの一部です。
<緑の鈴風さん>
>子育てにおいて一番大切な信頼関係を作ることが、私の強い不安のせいでできていないことが辛くて、でも私この30年もの間、全然変われてないから本当に情けないです。
>この数日考え込んでしまって、息子に、お母さんずっと怒ってる、と言われてしまいました。。。
-----
<森の声>
緑の鈴風さんは何か表現活動とか、からだのワークなどなさっていますか。
いくら自分の心と向き合っても心は変わりませんよ。
近くに転んでも大けがをしないような斜面ありませんか。
そこを全速力で駆け下りてみて下さい。
最初は怖くてできないと思いますが、慣れてくれば出来るようになります。
不安や恐怖に捉われると出来ません。
適当な場所があったらとにかくやってみて下さい。
これに対して、昨日
森の声さん、こんばんは。お返事を下さりありがとうございます。芝生の斜面を見つけました。最初は怖くてゆっくりと歩幅も小さくして下りていましたが、慣れてくるとしっかり足を広げて思いっきり駆け下りることができました。からだが開く感じ、足で土を踏む感じ、爽快感がありました。子どもたちも大喜びで私と一緒に走ったり、コロコロと寝転がって下りたり、3人で芝の上にあおむけに寝て、広い空や雲の流れを見たりして、心もからだも気持ちいい!って言ってるのがわかりました。
表現活動やからだのワークもやってみたいのですが、まだ下の子を家でみているのでちゃんと探していません。今は、週2回くらいジムに行って、ダンスのクラスをとっています。ヨガのクラスにも行ったことがあるのですが、先生のダンスをみて真似して踊るのと違って、ヨガは、英語の説明を聞きながら、からだを動かすので(英語の聞き取りに必死になってしまって)頭が疲れるので最近はクラスをとっていないです。
表現活動というのは、人の前で歌やお芝居などを表現するもののことをいうのでしょうか?人前でなくてもよいのなら、編み物やリメイク(子どもの着られなくなったお洋服をお人形の服にしたり)をするのが好きでやっています。表現活動で大切なことは、素の自分の感情を表すことですか?同じ絵を描くのでも、モノや風景の写真をとって、その写真そのままに忠実に描くことではなく、自分の目に見えるように描くということですか?うまく説明できなくてすみません。
これは緑の鈴風さんだけでなく、多くの人が勘違いしていることなんですが、本当の自己表現とは、「意識的に何かを表現する活動をする」ということではないのです。
ですから、歌や絵画や演劇をやっていても本当の意味での自己表現になっていない人がいっぱいいるのです。
でも、芝生を駆け下りている時の緑の鈴風さんは「自己表現」をしていたのです。
「ああしよう」「こうしよう」という自意識や計らいを捨てて、「自分自身」になりきる時に「自己」が表現されるのです。
ですから「自分」を表現しようとしている限りそれは自己表現ではないのです。
そして幼い子どもたちはいつも「自己表現」をしているのです。
その状態を昔の人は「自由」と言いました。
この「自由」は英語のFreedomとかLibertyという言葉を翻訳した「自由」とは異なります。
ある落語家が書いていたことですが、稽古の時、師匠の前で演じていると、どうしても熱いものを触った時の「アチッ」のところで、「そうじゃない」と言われたそうです。
何回やってもOKが出ません。
それで休憩に入ったのですが、お茶を入れようとしてうっかり煮え立った鉄瓶に触ってしまいました。
それで本能的に「アチッ」という言葉が出たのですが、その時、師匠が「それ、それだよ」と言ったそうです。
(曖昧な記憶で書いているので大体こんな感じの話だった・・・ということです。)
その「アチッ」には意識的な計らいがありません。
表現しようとしない表現です。
私が考える自己表現とはそういうものです。
ですから、自分にこだわっている限り自己表現は出来ないのです。
意識を外の世界に向けて、ただ自分を開いていくのです。その時の「素直な自分の反応」が「自己表現」なんです。
緑の鈴風さんは、「変わろう 変わろう」としているから、変わることが出来ないのです。
「もうこのままでいいや、だってこれが私なんだから」と、変えようとすることをやめてしまえば、変わるのです。
絵本などを読んでいる時も「ああ読もう」「こう読もう」などと考えるのではなく、その世界に入り込んで素直な気持ちで読めばいいのです。