スチュワート・ピゴットのドイツワイン紀行、今週のテーマは
東ドイツのワイン。ザクセンとザーレ・ウンストルートである。
1989年の東西ドイツ統一で新たに加わった生産地域だが、ドイツの葡萄畑全体に占める割合はわずかに1%あまり。昔は農産物生産協同組合の薄くて酸っぱいワインしかないという印象があったが、この20年余りで状況は大きく様変わりしている。
最初にピゴットが訪れたのはクラウス・ツィンマーリング醸造所。東独で機械工だったクラウスは、趣味で葡萄を栽培していたのだが、統一後東西の行き来が自由になったあと、オーストリアはヴァッハウの有名醸造所ニコライホーフで修行し、醸造所を立ち上げ、荒れ果てた葡萄畑を少しずつ整備していった。1984年からはEU指令で新たに葡萄畑を開墾することは禁止されているのだが、旧東ドイツでは1999年までは特例として認められていたのだという。彫刻家の奥さんの作品が立ち並ぶ醸造所は、まるで美術館のようだ。時間を忘れて仕事に打ち込むことが大切、やらなければならないことがあったら、労働時間を数えるよりもそれをまずやりとげて達成感を味わうべき、とツィンマーリングはいう。その成果が近年VDPドイツ高品質ワイン醸造所連盟への加盟となった。
旧東独にある醸造所の一つの共通点は、東西統一の後に一から築き上げてきたことである。
第二次世界大戦後、不動産は国に没収されたからだ。
マイセン近郊にあるシュロス・プロシュヴィッツも同様である。プリンツ・フォン・リッペ家は、もともとニーダーザクセンの大貴族であった。その家長であったゲオルグの父は、ロシア占領下の1945年、大勢の使用人を見捨てるわけにはいかないと城に残った結果、家屋も領地もすべて没収され再教育施設に、母は5人の子供とともにドレスデンの収容所に送り込まれた。
幸運にもフランケンに避難させられたゲオルグは、やがて東西統一後に父祖の地に帰ってきた。1991年に葡萄を収穫したのだが、マイセンでは醸造させてくれる施設が見つからなかった。昔の領主の末裔がすることを、住民は猜疑心を持って遠巻きに見ていたのだ。どうにかLPG農業生産協同組合のトラック-軍用ライフルの銃座がしつらえてあったという-を借りて、フランケンにある親戚の貴族カステル侯爵家が経営する醸造所に早朝乗り付けたが、対応に出た従業員は、ここはフランケンだ、東からわざわざ葡萄を持ってこなくても足りている、と追い返されそうになったそうだ。シュロス・プロシュヴィツは現在79haの葡萄畑を所有する、VDP加盟醸造所である。
ザーレ・ウンストルートのパヴィス醸造所では、現オーナーの父は以前から生産協同組合に葡萄を納めていたのだが、東西統一の翌1990年にラインガウとモーゼルを旅行したのをきっかけに、自分でワインを醸造することを決めた。わずか0.5haから3000本あまりを生産し、小さな居酒屋を開いてそこで売った。当時からうまいワインを飲ませる店だと評判だったらしいが、やがて2000年に醸造施設を新築拡張し、葡萄畑も借りて、生産量は50000本と1999年から一気に10倍に増えた。翌2001年、初めて参加したリースリング生産者大賞で見事に優勝。ケルンで開かれた授賞式にはミュラー・カトワールやケラー、バッサーマン・ヨルダンなど錚々たる顔ぶれと肩を並べ、信じられない思いがしたという。そこで新規の顧客とコンタクトが出来て、さらにVDPに加盟することになった。1986年に知り合ったベルナルドとケルスティン・パヴィスのオーナー夫妻は、子供が生まれ、ベルリンの壁が壊れ、小さな居酒屋兼醸造所がやがて12.5haまで広がり、ドイツ全国で知られるようになるとは、想像もつかなかったという。
最後はリュツケンドルフ醸造所。1893年から醸造所を営む家系で、シュロス・プロシュヴィッツと異なり1949年以降に接収されたので、1992年に畑が戻ってきた。13年ほど前に石灰石の採石場跡に土地をもらい、石灰石の土台の上にギプスコイパーを載せ、その上に赤緑粘土と盛り土をして畑の土壌を整え、ピノ・ノワールやポルトギーザーを栽培している。バリックで熟成したボルトギーザーは、北方の産地とは思えない、まるで地中海沿岸のワインを思わせるという。
東西ドイツ統一から23年、その間ザクセンとザーレ・ウンストルートのワインは常に変化し続けてきた。若々しくダイナミックな発展を遂げてきたのは、旧東ドイツだけでなく、ドイツ全体の産地にもあてはまることである。
というのが、大筋の内容です。今回の放送は来週月曜までオンデマンドで視聴可能です。