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2002年初秋・・・3年2ヶ月の闘病生活を終えて主人は旅立ちました。二人の子供たちと周りの人に支えられながら何とか歩み始めています。今はまだまだ悲しいことや辛い事のほうが多い日々ですが、年に何日かでも楽しい事を綴れたらいいなと思っています。 主人が闘病中に開設したホームページMy Schoolには旅立ったあとに更新された遺書があります。 最期まで病院に行くことなく自宅でがんばった主人は亡くなる直前に酸素マスクを自分ではずして私の手を握って「ありがとう」という言葉何度も繰り返しながら旅立っていきました。最期まで意識はしっかりしていたのにほとんど苦しそうな様子を見せずに旅立っていきました。 主人の「ありがとう」の言葉と遺書に書かれていた言葉に私も感謝しています。 ホームページのアドレスは http://www.kit.hi-ho.ne.jp/cbxf/index.htmです。 時間があれば見てください。 主人とのことはぼちぼちフリーページのほうに書いていこうと思っています。 今、私が一番行きたい所です。何年先か何十年先になるかわからないけれどもいつの日かきっと行きたいです。 ![]() マザーグース2002の日記 [全794件]2010年10月30日。 京都宝が池で開催された癌治療学会の市民公開講座に参加した。 「キャンサー・サバイバーシップ」をテーマに、患者の立場から医療従事者の立場から講演とセッションが行われた。 「キャンサーサバイバーシップ」 どれだけ長く生きられるかではなくていかにその人らしく生き抜いたかが大切である。 主人が亡くなった後にネットを通じて知り合うことができたパチさんの講演を聞いて深く感動しこみあげてくるものがありました。 パチさんが闘病中に私が応援するつもりでメールを送ったのにいつも逆に励まされたいました。 そしてこの日もそうです。 またまたパチさんに頑張って共に生きていこう!と元気づけられたような気がします。 そういえば主人も遺書の中でこんな風に書き遺していました。 長生きしたい? 長生きしたい? 長生きした方が幸せ? 30歳になった人は、まだ死にたくはないと言う。 90歳になった人も、まだ死にたくはないと言う。 何歳になっても満足できないの? 人は必ず死ぬ。 だったら、長生きすることよりも、その日を大事に生きたい。 生きることのできるのは、今日だけ。 その後、精巣腫瘍患者友の会(Japanese Assosiation of Testicular Assist Group 通称J-TAG) いよいよ患者友の会の始動開始です。 京都と東京会場。Ustreamで二元生中継を行いながら進む予定でしたがなかなかうまい具合にはつながらなかったようです。でももうそんなことは関係ありません。離れた会場にいても、当日参加出来なかった方も・・・思いはみな同じだと思います。 精巣腫瘍の治療に永年頑張ってくださっている三木先生にもこの日初めてお会いすることができました。 京都宣言は京都会場ではパチさんとぺっぺさん、東京会場ではTBSテレビ報道局解説室の小嶋さん、のぶさんが読んで下さいました。 ![]() 京都で確認した誓いを生涯忘れずに、助け合い、また励まし合って、世の中から、精巣腫瘍がなくなるまで闘うことを宣言しました。 そして末尾に賛同者ひとりひとりが直筆で署名をしました。 その後2次会では色々な方と和やかに交流することができました。 私もみんなと同じくサバイバーのひとりではあるけれども遺族という立場なのでやはり闘病中の患者さんやご家族にとってはお話しすることで不安に思われる方もいるのかな…と思っていました。 でも10年も前の古い経験談や情報ではあるけれども話しを聞きたいと言って下さる方もいらしてそんな経験談を話したり、また人の話を聞くそれだけでも患者会に参加させてもらった意味があるのかなと感じました。 思えば・・・主人が闘病中だった1999年~2002年のころには、精巣腫瘍の闘病記のホームページなども少なくてなかなか情報が得られなかったし、こういう患者会があって相談や情報交換などの交流の場があればもっと心強かっただろうなと思いました。 主人がホームページを立ち上げたのも自分の闘病の記録が同じ病気で闘う人に少しでも情報としてお役に立てればという思いからだったようです。 主人が亡くなる直前まで自分にできることは最期までこのホームページで闘病の様子を発信することだと言っていました。 だから私もいつまでも悲しんでばかりいるのではなく、主人がやろうとしていたことを受け継いでこの患者会で何か少しだけでもお手伝いできれば私自身も前進できるような気がしました。 この日は帰宅したら日付がかわっていたというくらいで時間を忘れるほど有意義に過ごすことができました。 私自身の意識の中でもこの日がまた新たな第一歩をふみだす日となりました。 今まで支えて下さった皆さんに感謝しています。 そしてこれからも共に歩んでいきたいです! (写真のほうは何枚かぺっぺさんとまさよしくくんから頂戴したものを使わせていただいています。)
久しぶりの日記です。 なんだか今日は気分が沈み込んでいて何もする気になれない。 朝から好きな人の声を聞かせてもらって、私もいっぱい話を聞いてもらって・・・ いつもなら元気になれるはずなのに・・・ 本当は京都駅前に出かけて本屋さんに行ったりお土産コーナーに行ったりしてぶらぶらしてみようかななんて思っていたのに今にも雨が降り出しそうな空を見た途端、急に気分が沈みこんでしまった。 そのうちウトウト昼寝をしてしまっていたら・・・ お鍋を火にかけていたことをすっかり忘れてしまっていて焦げ付いた臭いで目が覚めた。 お鍋は真っ黒に焦げ付いてしまった。 昔から鍋ややかんを焦がすのは得意?だったけれども最近はますますひどくなってきている気がする。 今、とっても息苦しい気がする。 主人が病気になったあの日から暗闇の中をさまよい続けている気がする。 でも主人が生きていてくれたころは病気を治して元気になって元の生活に戻ろうと二人で頑張る目標をもつことができていたから何とか頑張ってこられたけれども・・・ 2002年に主人が旅立ってからはこの暗闇のトンネルの中で出口を見つけられずにもがき続けている。 いろいろなことを試してみた。 もちろん仕事も探して仕事も始めたけれども体力が付いていかずにすぐにダウンしてしまった。情けなかった。 主人が私の作ったドールを可愛いとほめてくれたことを思い出していろいろなものを作り始めた。作っているときは夢中になって不安なことを忘れることができるけれども・・・またすぐに不安感が襲ってくる。 病院で処方された薬を飲んだら不安感は少し取り除かれたけれどもあらゆることがどうでもよくなってきてお金の使い方がわからなくなって買い物依存症になってしまった。 好きな人と再会することができたおかげで買い物もやめることができ、少し元気になれた気がしてたけれども・・・ またその人とも会えなくなるかもしれないと思うと毎日不安でたまらない。 もしも今私が事故や急病で死んでしまったら・・・ 子供たちはどうなるのだろう? 病気の母はどうなるのだろう? 子供たちのことは主人の両親が何とかしてくれるかもしれないし母のことはほかの兄弟が何とかしてくれると思うけれども・・・ それなら誰もがわかるように預金関係のことや保険関係のことなど・・・整理しておかないといけないというプレッシャーに襲われている。 もうこのトンネルに入ってしまって10年以上の時間が流れているというのに出口に向かう方向すらわからなくなってきている。 主人は3年2か月で先に出口を見つけて逝ってしまった。 「死んでからのことまでは自分にはわからない」と言っていた。 生きていたくても死ななくてはならなかった主人の気持ちを考えるとそんなことを思ったらいけないのかもしれないけれども・・・ 「無責任だ」と思ってしまった。 久しぶりに大きな不安感が襲ってきた。 明日は元気で過ごせたらいいのにな・・・
今年ももうすぐ終わりです。 また賢ちゃんと一緒に暮らした時が一年昔になってしまいます。 そしてもうすぐ私の誕生日です。 もともと賢ちゃんより3歳年上だったのに今年の誕生日が来たら10歳も年上になってしまいます。 賢ちゃんが死んでしまっても時は停まることなくどんどんと流れている。 世の中の無常を感じざるを得ません。 賢ちゃんは今は病気から解放されて元気に暮らしていますか? 笑って暮らしていますか? 私はまだ泣いていることの方が多いけれども少しずつ笑える時間もできてきました。 賢ちゃん、この世界では幸せでしたか? 私たちと家族として暮らした10年間は幸せでしたか? ごめんね。 急に賢ちゃんに手紙を書きたくなってしまいました。 届かぬ手紙だと知りながら…
5日・6日…東京で開催されたあしなが育英会・第21回遺児と母親の全国大会に参加しました。 次女はバレエのリハーサルがあったため京都を離れる事が出来なくてはじめてひとりだけで1泊2日のお留守番をしました。 長女は土曜日は学校があったので午前中の授業終了後、午後の補修授業はでないでそのまま京都駅に直行、待ち合わせをして午後1時すぎの新幹線で東京に向かいました。お昼ご飯は新幹線の中で駅弁をいただきました。 会場に到着した時にはすでに座談会などは始まっていたので途中からの参加となりまいた。 午後11時ころまで皆さんといろいろお話をしました。 翌朝、オリンピックセンターに移動して政府・各党代表に遺児家庭の制度的救済を訴えました。 昨年17年ぶりに開催されたこの全国大会で訴えてきたことが少しずつでも見直されて実現に向かっているという成果があったようです。 ニュースの報道はこちらです。 新聞記事はこちらです。 遺児救済運動、いわゆる「あしなが運動」は1967年、交通遺児救済から始まりました。その後、支援の対象を災害遺児、病気遺児、震災遺児、自死遺児へと広げ、この40年間で約7万人の遺児が高校等へ進学するのを支援してきました。さらに、1999年からは、海外の震災遺児、エイズ遺児、戦争遺児、インド洋津波遺児らと日本の遺児との交流を開始し、世界の遺児2億人の連帯運動へと広がっています。 毎年春秋の「あしなが学生募金」や継続支援者の「あしながさん」をはじめ多くの国民の支援を受けた遺児が、救われていない遺児を次々と救う運動として発展してきました。 遺児と母親の全国大会は、1969年に第1回目を開催し、今回で21回目となります。過去20回の大会で掲げた要望事項で実現に至ったものは、高校授業料減免制度の導入、遺児家庭への歳末手当の支給、自損交通事故に対する自賠責保険の適用、ミニバイクの速度制限の導入、自賠責保険金の引上げ、遺族年金や児童扶養手当の支給期間を満18歳から高校卒業時まで延長したことなどです。 要 望 の 趣 旨 遺児家庭の母親の年間勤労所得は、1998年に201万円でしたが、その9年後の2007年には3分の1も激減し134万円と一般勤労者の3割にまで落ち込んでいます。奨学金だけでは子どもの教育費が賄えず、高校卒業後の就職希望者の割合は26.1%で、一般の高校生の1.4倍にものぼります(あしなが育英会調査=2009年11月)。 また、厚生労働省の発表によると、日本では親を失うと2人に1人は貧困に陥ってしまうという現実があります。その貧困は、子どもの衣食住という生存権を脅かしているだけではありません。日本は他の先進諸国に比べ、教育に関わる諸費用が多額にかかるため、子どもの貧困問題が教育と密接に関わっており、世帯の貧困が子どもの教育を脅かしています。満足に教育を受けることのできない子どもが大人になっても、正社員になれず、高収入は望めず、その子どもにも教育を受けさせることのできないという貧困の連鎖に陥っています。 問題は、経済的なものだけにとどまりません。遺児の高校生の不満や悩みは、「我慢することが多い」56%、「他の子のようにほしいものが買えない」47%、「勉強する気になれない」30%、「お金がなくて友だちづきあいができない」27%などで人並みの高校生活を送ることができず、孤立しています。さらに深刻なのは18%もの遺児高校生が「未来に希望が持てない」と回答しています(複数回答、同調査)。 なぜ、日本の未来を担う子どもたちが、不運にも親を失ったばかりに、貧困のために社会から排除されなければならないのでしょうか。貧困の連鎖を断ち切るためには、貧困世帯の子どもたちの親の就労支援や医療支援など子どもを取り巻く環境を含めた教育支援こそが大切です。日本の教育予算の対GDP比は3.4%(2008年)で先進諸国の中で最下位です。1988年の調査開始以来、日本としては最低の数字です。今までの日本政府の教育への関心が低すぎることは言うまでもありません。 すべての子どもへの教育支援が必要ですが、特に貧困にあえぐ遺児など母子家庭の親を支援し、その子どもに教育を受ける機会を与え、子どもを立派に成長させ、次世代への貧困の連鎖を断ち切ることこそ、政府が担うべき役割、政治が果たすべき使命ではありませんか。そのための施策の実施が、社会全体の活力を高めることにもつながると考えます。 遺児母子家庭をはじめとする社会的弱者の生活権と社会権を保障するための施策に全力で取り組んでください。私たちは、次の6項目の実現を政府・各党に強く要望いたします。 要 望 項 目 <要望1:子ども貧困対策基本法の制定について> 次世代への貧困の連鎖を断ち切るため、「子どもの貧困対策基本法」を制定してください。 政府は、次世代への貧困の連鎖を断ち切るため、行動計画を策定し、数値目標を掲げて、ひとり親家庭の貧困率(54.3%)を5年以内に半減、10年以内に10%未満にしてください。 政府は、子どもの貧困の実態や対策に関する年次報告をとりまとめ、公表してください。 政府は、子どもやその家庭を支援するため、国の行政組織を再編して、早急に「子ども家庭省」を設立するとともに、子どもと家庭に関連する予算を大幅に拡充してください。 <要望2:教育費に対する支援について> 遺児母子世帯など貧困世帯の子どもについて、高校授業料等の諸経費の負担を軽減するため、公的助成を強化するとともに、給付型の高校・大学奨学金制度を新設してください。 すべての高校において授業料を全額免除あるいは補助してください。 給付型の高校・大学奨学金制度を公的資金で新設してください。 高校卒業時、大学などへの進学のための一時金(進学支度金)制度を公的資金で新設してください。 <要望3:医療費の負担軽減について> 自治体が独自に実施している「ひとり親家庭等医療費公費負担制度」を全国に展開し、全国どこにいても同様の負担軽減措置が受けられるようにしてください。 医療費を無料、もしくは自己負担に低額の上限を設けてください。 子どもの対象年齢を20歳未満までに延長してください。 受診後に医療費を立て替える制度(償還払い)を撤廃してください。 <要望4:社会保障制度の改善について> ひとり親家庭に関連する以下の社会保障制度について、必要な改善を図ってください。 遺族年金と児童扶養手当の支給期間を、大学や専門学校卒業時まで延長してください。 生活保護受給世帯において、貸与の奨学金などを収入認定し生活保護の支給額を減額しているところがあります。こういうことがないよう改善・指導してください。 生活保護と児童扶養手当については、就労等による収入が貧困線を超えない限り、収入の増と同時に支給額を減らさないでください。また、減額措置を実施するケースについても、3年間は支給額を据え置いてください。 <要望5:母親の就労支援について> 「母子家庭の母親の雇用安定法」を制定するなど、母子家庭の母親の就労を支援し、その労働条件を改善するための法整備を早急に図ってください。 「母子家庭の母親の雇用安定法」を早急に制定し、官民ともに積極的に母子家庭の母親を雇用するとともに、母子家庭の母親の安定した雇用を確保してください。 正規雇用者と非正規雇用者との間における、同一労働同一賃金・均等待遇の原則を明文化した実体法を制定してください。 <要望6:母子家庭のためのワンストップ・サービスについて> 母子家庭の総合的な相談窓口として、「教育・就労・福祉テラス」(愛称「いいわテラス」)のようなワンストップ・サービスの仕組みを、全国津々浦々に整備してください。 その後、銀座通りを約1時間かけて日比谷公会堂前までデモ行進しました。 この大会は奨学金を受けている大学生が中心になって主催しているのですが、デモ行進の際、声をからして一生懸命訴える学生の姿を見て私も負けないように一生懸命訴えてきました。 どれだけのことが伝わったかわかりません。 要望に対する具体的な回答もまだまだみえませんでしたが、すぐにはどうにもならないけれども私たちの声は必ず届くような気がしました。 ある政党の回答の中で子育て支援金や高校授業料免除という制度について「まず切羽詰まって必要としているのはだれなのか」と言う話がありました。 私も同感でした。 貧困の連鎖を断ち切る・・・ 働いても働いて母子家庭の収入は・・・ そして今は仕事に就くことすら難しい現状・・・ 本来、私は集会やデモ行進など・・・ちょっと苦手?と思っていました。 けれども主催していた大学生たちの自分たちと同じように苦労している後輩の高校生たちを何とか救いたいという熱い思いをひしひしと感じました。 最近の学生は自己中心でいい加減・・・みたいなイメージは全くなくあしながの奨学金を借りてがんばって学業に励んでいる学生たちはとてもまじめに将来の夢にむかってがんばり自分のことだけでなく後輩たちのことを思いやる気持ち、母親たちのことを思いやり感謝している気持のあるとても明るくて優しい子だちが多いと感じました。 長女は夏の集いや今回の全国大会に参加してそういう先輩たちの姿をみてまた自分と同じ境遇の中でもがんばっている高校生とかかわりを持って長女自身も成長していくように感じました。 そして母親である私自身もがんばっている母子家庭のお母さんたちの現状や気持ちを話し合って・・・ わたしなんか毎日体や心がしんどいなどと言ってへこたれているけれどもそんなことを言って落ち込んでいる暇もなく生きていくために頑張って働いているお母さんたちの姿をすぐ近くで見て自分自身がかなり甘ったれているんだなと思い恥ずかしくなってしまいました。 実は長女は今日から期末テストです。 テスト前日ではあるけれども大会のお誘いを受けて是非参加したいと言った長女の心は以前より成長したと思いました。 そして往復の新幹線ではがんばってテスト勉強をしていました。 ひとりで一泊の留守番をした次女も寂しかっただろうけれどもよく頑張ったと思いました。 そして・・・普段しんどくて歩けないなどと言っている私が1時間頑張って歩いたこと・・・普通の人にとっては何でもない当たり前のことだけれどもちょっと頑張ったと思います。 京都に到着してから帰り道フラフラして・・・転びそうになりました。 あまりにしんどいので低血糖かなと思って測定したらやはり・・・血糖値が50まで下がっていて危ないところでした。 今回この大会に参加したことは私たち親子にとって貴重な経験となりました。 主人が元気だったころには学生たちとともにシュプレヒコールをしながらデモ行進するとは想像もできなかった。 シュプレヒコールを唱えながら・・・ 中島みゆきの「世情」が聞こえてきた
北海道のどこかで… 小さな家を建てて暮らしたいな できれば家族で農業をしたい。 遠い昔からの夢… ![]() 本当は北海道でなくてもいい 一軒家でなくてもいい 賃貸のアパートメントでもいい 暖かなぬくもりがほしいだけ… ただそれだけなのに… それがこれほどまでに難しいことだったと今になって気が付いた。
この時期は私にとっては辛すぎ・・・ 主人が亡くなる前のことがいろいろとよみがえってきて、表面的には涙がこぼれるだけだけれども心の中は半狂乱のような状態かもしれない。 残暑・息切れ・酸素マスク・・・ 自動巻腕時計の停止・・・のことで主人は自分の命の停止を予測していたかのようですが・・・ あの頃から私の心も停止してしまったのかもしれない。 命はあるけれども・・・ただ呼吸しているだけ・・・ 生きている目標も楽しみもない。 そんなことを言ったらだめ! 生きたくても生きられなかった主人のことを考えたらもっともっと毎日を大切に一生懸命生きなければいけない! そんなふうに思ってきたけれども・・・ 何も楽しみがなく、目標もなく、仕事もなく・・・ただ呼吸しているだけで自分自身の楽しみもないし人の役にも立っていない。 辛い・・・ 寂しい・・・ 私には生きていくのに居場所がない気がする。 どうして私だけが生き残ってしまったのだろうか・・・ そう思うと辛くてたまらない。 いろいろと前向きに考えようとしたけれども やっぱり私の人生は後悔ばかりのような気がする。 会いたい。 大丈夫だよ。昔みたいに言ってくれたら・・・ 将来が全く見えなくて・・・
京都では16日の送り火が過ぎると夏も終わりです。と言ってもまだまだ暑い日は続くと思いますが・・・ 15日は次女の誕生日・・・ 7年前の次女の4歳の誕生日に在宅酸素療養が始まりました。 酸素を鼻から送りながら祝ったお誕生日・・・ この日からはめったに外出することもなくなってしまいました。 送り火の季節になるとあの頃のことばかり思い出すので辛いです。 ずっと昔、主人が元気だったころも冬には寒いし早く夏が来ればいいななんて夏に憧れていて、夏になると暑いし早く冬になればいいなんて思っていた。 でも主人が亡くなってからは夏が終わって秋になるというのがとても辛いです。 今年も同じです。 それに今年は北海道で楽しい夏を過ごしたから余計に夏が去っていくことが寂しく感じます。 昔のように訪れる季節を優しく歓迎できることができたらどれだけ幸せだろうかと思ってしまいます。 まずはお盆のお墓参りから私の辛い夏とのお別れが始まります。 毎年この時期をどのように乗り越えていくかが大変ん課題となっています。去年は17年ぶりに大好きだった人の声を聞いて支えてもらって乗り越えることができました。 だけどいつまでも人を頼っているわけにはいかないしやっぱり自分自身で乗り越えていかないといけないのだろうと思います。 辛いです。 寂しいです。 ひとりきりは・・・ 夏の終わり ←クリック |一覧| |
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