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題未亭

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ゲルハルト・ベルガー

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ゲルハルト・ベルガー(Gerhard BERGER)

 

本   名 
ゲルハルト・ベルガー(Gerhard BERGER)
通   称
ゲ・ベ
生年月日
1959年10月27日 (オーストリア出身)
主な記録(F1)
1984~1997年 F1参戦

出走 210回 (歴代  3位)
優勝  10回 (歴代 22位)
PP   12回 (歴代 23位)
FL    21回 (歴代  9位)
獲得ポイント  385点

F1での主な戦績
1984年 ATS D7・BMW
決勝最高位 6位
予選最高位 18位(1P)

◆第12戦オーストリアGPでデビュー。14,15,16戦に参戦。
参戦2戦目のイタリアGPで早くも6位入賞をはたす。
1985年
アロウズ A8・BMW
決勝最高位 5位
予選最高位 7位
シリーズ  17位(3P)

◆同じBMWエンジンを積むアローズに移籍し、フル参戦を開始。前半はリタイアが続いたが終盤の第15戦南アフリカGP、第16戦オーストラリアGPで連続入賞。
1986年

ベネトンB186・BMW
優勝     1回
予選最高位 2位
FL       2回
シリーズ  7位(17P)

◆同じくBMWエンジンのベネトンに移籍。チームメイトはテオ・ファビ。予選では先輩ファビを上回るグリッドを獲得する速さを見せる。
第3戦サンマリノGPで初めての表彰台にのる(3位)など、1-3戦で連続入賞。シリーズ中盤以降は、予選上位グリッドの常連となり、第10戦ドイツGPでは初めてのファステスト・ラップ(FL)を記録する。尻上がりに調子を上げると、第15戦メキシコGPでは予選4位から初優勝。セナ、プロストを従えて表彰台の頂点に立つという素晴らしい結果を残し、次代のチャンピオン候補と目されるようになる。

1987年

フェラーリ F187
優勝 2回
PP  3回
FL  3回
シリーズ 5位(36P)

◆フェラーリに移籍。チームメイトはM.アルボレート。
第12戦ポルトガルGPで初のPP獲得。この年初開催の第15戦日本GPでは、ポールtoフィニッシュ。日本のF1ファンに強力にアピールをする。この勝利はフェラーリとしても、85年ドイツGP以来、約2年半ぶりの勝利だった。
翌、オーストラリアGPでもポールtoフィニッシュで2連勝。

1988年

フェラーリ F187/88C
優勝     1回
PP      1回
シリーズ   3位(41P)

◆予選ではM.アルボレートを全戦で上回り、名実共にフェラーリのエースに。
しかし、シリーズはA.セナ、A.プロストの所属するマクラーレン・ホンダが席巻。全16戦中15勝をマクラーレンの二人が分ける中、ベルガーは2位2回、3位2回を獲得するなどマクラーレンの二人に次ぐ存在に。そして結果としてこのシーズンの他チーム唯一の勝利を飾ったのは、フェラーリのベルガーだった。
1988年8月14日、フェラーリの総帥エンツォが死去。その直後行われた第12戦イタリアGPでベルガーは劇的な勝利をあげる。2位に、M.アルボレートが入1-2フィニッシュを達成。16戦中15勝のマクラーレン・ホンダが唯一落としたグランプリがエンツォ死後のモンツァ、それもフェラーリの1-2フィニッシュだったのだ。イタリア中が歓喜した。

1989年

フェラーリ 640
優勝     1回
予選最高位 2位
FL       1回
シリーズ   7位(21P)

◆3.5リッターNAエンジンとなった89年、チームメイトにN.マンセルが加入。
第2戦サンマリノGPで大事故を経験する。イモラ・サーキットのタンブレロ・コーナーで、コンクリートウォールに激突、マシンは炎上した。最悪の事態が予想される事故だったが、ベルガーは奇跡的に生還した。
事故後、モナコGPは欠場したものの、第4戦からは早くも復帰。しかしマシンは信頼性の不足に無き、リタイアの山を築いたが、第13戦ポルトガルGPでようやく1勝をあげる。

1990年

マクラーレンMP4/5B・ホンダ
決勝最高位 2位
PP      2回
FL      3回
シリーズ   3位(43P)

◆A.プロストとトレードする形でマクラーレンに移籍し、A.セナのチームメイトとなる。
初戦のアメリカGPでPPを獲得するなど期待を抱かせたが、結局ベルガーは2回のPPにとどまったのに対し、セナは10PP。ベルガーはデビュー以来初めてチームメイトに負けた形となる。
シリーズはチームメイトのセナが7勝し、チャンピオンを争うのに対し未勝利に終わる。

1991年

マクラーレン MP4/6・ホンダ
優勝    1回
PP     2回
FL     2回
シリーズ  4位'43P)

◆91年唯一の勝利は第15戦日本GP。しかし、この勝利はセナによって譲られた勝利だった。トップを走るセナはすでにチャンピオンを確定しており、最終ラップのゴール前で突如減速、ベルガーを前に出して優勝を贈ったのだった。「チャンピオン獲得に対して協力してくれた感謝の気持ち」とセナは語り、ベルガーも「優勝は優勝、気にしていない」と語った。
しかし後年、ベルガーは「譲られた瞬間はセナにマシントラブルが起きたのだと思った。もし、優勝を譲る気が分かっていたら、自分は前に出ることを拒否してセナの後ろで停止していただろう」と語っている。友情かプライドか、論議を呼んだ1勝だった。

1992年
マクラーレンMP4/7A・ホンダ
優勝      2回
予選最高位  3位
FL        2回
シリーズ    5位(49P)

◆ホンダはこの年限りで活動を停止することを発表。
シリーズはウィリアムズ・ルノーが圧倒的な強さを発揮しN.マンセルがチャンピオンを獲得した。セナをしてPP獲得は1回のみ。ベルガーは予選3位が最高。
それでもベルガーは2勝をあげた。特に最終戦オーストラリアGPでの勝利は、ホンダエンジン最後の優勝であり、それをホンダにプレゼントしたのはセナではなく、ベルガーだった。
1993年
フェラーリ F93A
決勝最高位  3位
予選最高位  5位
シリーズ    8位(12P)

◆フェラーリにカムバック移籍しJ.アレジがチームメイトに。
一度フェラーリを離れたドライバーが再度カムバックをするのは他に例がなく、フェラーリチームからの厚い信頼が伺える。
しかし、チームは不調の中にあり、勝利はおろか、表彰台も3位が一度だけという結果に終わる。しかし、ベルガー&アレジというコンビはフェラーリらしい情熱あふれる走りでティフォシのみならずファンを魅了した。
1994年

フェラーリ 412T1  412T1B
優勝   1回
PP    2回
シリーズ 3位(41P)

◆第3戦サンマリノGPでF1界を悪夢が襲った。予選で同郷の後輩、ローランド・ラッツェンバーガー(シムテック・フォード)が、決勝レースではかつてのチームメイトであり親友のアイルトン・セナ(ウイリアムズ・ルノー)が事故死するという悲劇。大きな衝撃に見舞われたベルガーだったが強い意志のもと走り続ける。
第9戦ドイツGPではポールtoフィニッシュを決め、フェラーリに約4年ぶり(59戦振り)の勝利をもたらした。

1995年

フェラーリ 412T2
決勝最高位 3位
PP      1回
FL       2回
シリーズ   6位(31P)

◆エンジンの規程が変わり3500ccから3000ccに制限された。V10エンジンが主流を占める中、フェラーリは高出力をめざしてV12を採用。しかし、結果として戦闘力は低下する。序盤から中盤は3位表彰台を6度獲得し表彰台の常連となるも後半は徐々に成績も低下。優勝には届かなかった。

1996年

ベネトンB196・ルノー
決勝最高位  2位
予選最高位  2位
FL       1回
シリーズ    6位(21P)

◆94,95年連続チャンピオンのM.シューマッハーがフェラーリに移籍。ベルガーはアレジと共に入れ替わるようにベネトンに移籍する。ベルガーにとっては86年以来のベネトン復帰となる。しかし、シューマッハーが抜けたベネトンは徐々に戦闘力が低下していった。
マシンの特製もベルガーには合わなかったのか、フェラーリでは互角の成績を残していたアレジと比べても、予選、決勝結果とも遅れをとる成績に終わる。

1997年 ベネトンB197・ルノー
優勝    1回
PP     1回
FL     1回
シリーズ 5位(27P)

◆シーズン半ば蓄膿の手術のため第7~9戦を欠場。さらに父親が飛行機事故で死亡するという不幸に見舞われる、しかしそのような状況の中第10戦ドイツGPで復帰すると、大方の予想を裏切りポールtoウィンを飾る。
86年にベネトンで初めての勝利をあげたベルガーは、その最後の勝利もベネトンで飾ると、10月に参戦休止を宣言しハンドルを置いた。
ゲルハルト・ベルガーのF1全成績はこちらをご覧下さい (F1 Data Web)
ゲルハルト・ベルガーの記憶

14年間で参戦210回、優勝10回、PP12回。 シリーズランキング最高3位。

現役時代のF1界での存在感を考えると、その優勝回数もPP回数も意外なほど少ないのに気がつく。
たとえば、現役のD.クルサードは13勝でベルガーを上回り、PPはベルガーと同じ12回。
しかし、F1ファンはどちらのドライバーが速く強いイメージを持つだろうか。大多数の人はベルガーの方が強いイメージを持っているのではないだろうか。

G.ベルガーの勝利は特に印象深いレースが多かったことがこのような印象をもたらしているのかも知れない。
思いつくものでも、
87年 日本GP 初開催の日本でフェラーリに2年半ぶりの勝利
88年 イタリアGP エンツォの死の直後の地元GPで勝利。(マクラーレンの全勝を防ぐ勝利となる)
92年 オーストラリアGP ホンダエンジン最後の勝利
94年 ドイツGP フェラーリ4年ぶりの勝利
が、あげられる。

ここ一番での勝利や、メモリアル的な勝利。決して多くはない勝利がファンの記憶に刻み込まれる、まさに「記憶に残るドライバー」だった。

天性の速さを持ったドライバーでありながら、その全盛期が、セナ、プロスト、マンセル、ピケのいわゆる四天王の時代と重なっていたことが一つの不運であり、またチャンピオンを狙うには人が良すぎたのかも知れない。他のドライバーがどん欲に勝利をめざし、時にわがままにチームメイトを拒否することもあったのに対し、ベルガーは他をおとしめるようなことは決してなかった。

また、マクラーレンでのチームメイト、A.セナがテストやフリー走行、予選など全てのセッションが終わった後もエンジニアとミーティングを重ねていたのに対し、ベルガーは人生を楽しむべき事が多すぎたのかも知れない。全てをレースに捧げたセナと、人生を楽しむベルガー。この対比がそのまま成績の差につながったのかも知れない。しかしこの少々対照的にも思える二人が、親友となり得たのだから面白いものだ。

ベルガーのいたずら好きは有名で数々の武勇伝が残っている。セナのパスポートの顔写真に「男性性器」の写真をはり、おかげでセナは3時間入国審査で拘束されたとか、セナと一緒に、ボスのロン・デニスを池に突き落としたとか、などなど。
私が最も好きな逸話は、97年の日本GP。フェラーリのスタッフからアーバインのやる気を出させる方法についてアドバイスを求められたベルガーは、ある方法を思いついて実行する。アーバインがフェラーリのピットに来ると、なんとベルガーがフェラーリのレーシングスーツを着て、シューマッハーらフェラーリのスタッフと談笑していた。もちろん、ベルガーがしくんだジョークである。それにしても、ルノーの契約ドライバーが、実際にフェラーリのスーツを着てしまうというのは信じられない事件で、他のドライバーがやったなら大問題だろうが、ベルガーだから許されたと言うべきだろう。

ドライバー引退後は、エンジンサプライヤーとしてF1に復帰したBMWのスポーティング・ディレクターとして活躍。ウィリアムズとともに活動したが、02年に離脱。
しかし、彼の人柄や人脈を慕う声は多く、「好漢・ベルガー」の現場復帰を望む声は多い。04年末に誕生した「レッドブル・レーシング」に参加するのでは無いかとの声も聞かれたが、残念ながら実現はしていない。

関連サイト 辺瑠賀亜酒店 (ベルガーの全成績や、最新のニュースなど) 
http://www1.plala.or.jp/berger/

 



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