|
カテゴリ:きまぐれエッセー
恥ずかしながら、僕がカラオケでどうしても歌わなければならないときの定番歌のひとつが山川啓介作詞で中村雅俊が歌う「ふれあい」。 ♪悲しみに出会うたび あの人を思い出す こんな時そばにいて 肩を抱いてほしいと そして、 なぐさめも涙もいらないさ ぬくもりがほしいだけ ひとはみな一人では 生きてゆけないものだから とつづくわけだが、この歌の“ふれあい”の意味はよくわかる。 しかし、気にしてみるとどこかしこに「ふれあい」という言葉が散漫している。 だいぶ前にも書いたが“ふれあい”という言葉の安易さと薄気味の悪さについて、皆さんあまり感じていないのだろうか。Googleで牽いたら出てくる出てくる。 「ふれあい動物園」は、動物と触れあうということでわかる。 「ふれあい広場」これは広場に出入りする人たちが触れあうのだろうか。 「ふれあいマラソン」ランナーが走りながら触れあうのだろうか。 広島には「ふれあいチャンネル」ってのもあった。チャンネル争いをする手が触れあうとか…。 「ふれあいの森」森の中で触れあうって、何となくエロチックでいいな。 「ふれあいコンサート」って、音楽を聴きながら触れあう? 「人妻熟女専門店 ふれあい」なんてのもあった。これは単刀直入だな。 そのほかにも、「訪問介護ふれあい」とか「伝統産業ふれあい館」とか、数え切れないほど。 なぜ皆さん、ことさらに“ふれあい”を強調するのだろう。 いや、「ふれあい」という言葉を使うなというわけではない。僕だって“触れあい”は好きである。言葉ではなく、手と手とか肌と肌とかであるが…。 でも、安易になんにでも「ふれあい」とつけてしまうと、ムクムクとヘソが曲がり出すのだ。 ようするに、触れあいたいとは“寂しい”の裏返しではないだろうか。 寂しくもなんともないときは一人でいるほうがよっぽどラクなものだ。僕など、カミサマから声を掛けられるだけで、肩の辺りが凝ってしまうことがある。そのくせ、遅く家に帰って、誰もいないテーブルに漬け物の切れっ端だけが待っていたりすると、なんだかみじめで寂しかったりする。 その昔、子どもたちが家中暴れまくってうるさかったときは、遠足などでいなくなるとホッとしたものだが、今は帰ってくると聞くだけでウキウキしたりする。 少なくとも僕がふれあいを意識するときには、寂しかったり、ふれあいが欠如しているときなんだなー。 世の中に「ふれあい」が溢れているということは、世の中寂しすぎるということではないだろうか、と勝手に解釈している。さて、どうなんでしょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[きまぐれエッセー] カテゴリの最新記事
|