いじくりまわされた花々たち
私は以前、近年の販売されている花の苗が、すべて背丈が大きく成長しないものばかりで、育てる楽しみ、花を咲かせる楽しみがなく、すべて人工的に均一化されているので、花を育てるのを止めてしまったことを書いた。
今日の朝日新聞の「私の視点」という投稿欄に、ガーデンセンターを岐阜市で、35年経営しているという安藤雅彦氏が、私の考えを裏づける意見をのべておられる。
「この10年ほどは、よく売れる花は、たくさん咲きそろい、背丈が20センチほどの小さいものが多い。それは消費者の求める形にして購買を可能にしたからである。
いずれもホルモン剤の一種である矮化剤で茎が伸びないようした花である。こうした技術革新は、開花時期、花数、茎の伸ばし方など自由に調整することを可能にした。農家はその技術をマスターし、操るようになった。」
やっぱり、このように操作された苗が大型ガーデンセンターに売られていたのだ。
納得。
いくら工夫し、腕を振るっても、同じ色合いの花しか咲かないのを納得した。花を育てる技術など不要で、花の咲いた苗を植えて、咲き終わったら捨てることが前提の苗木であること納得。自分の気に入る苗は、近所にあるガーデンセンター・カーマーなどにはないこと納得。
氏も指摘されておるが、個々の植物は自然の一端であり、植物本来の葉の色や形、向き、茎の色、伸び方、花の色、形、向き、咲き方、香り、などなど、これらを通して植物本来の美しさ、自然を感じることが可能なものである。この本来の姿からどんどん遠ざかっていると言っておられる。
これも私の日頃感じていることを代弁してくださっている。
私の散歩道には、山を丸ごと潰して、宅地開発しているエリアがあるのだが、その地域、最近は段々宅地化が完成に近づき、そこに建てられた住宅に人が住みはじめた。次第に街路の雑草は刈られ、一見整然として、美しくなったようにみえる。
山を潰した際に、ため池を何個も潰した代替に作られた人工池も、次第に雑草が定期的に一網打尽に刈られるようになったら、その土手や崖にはえていた、四季おりおりに楽しんでいた、草花は見事になくなった。
私が「私の散歩小径」で紹介してきた草花たちだ。
初夏の早朝、池の辺り一面、可憐に咲いたオオマツヨイグサ。秋風に揺れた可憐なコマツナギ(駒繋ぎ)の花。雨が続き憂鬱な日々に雨にぬれて、淡いブルーがかったピンクの花を咲かせた、アレチヌスビトハギの群生。さらに夏には、つる草が生い茂り、可愛らしい言葉では言い表せない微妙な黄や紫やピンクや白の花をさかせた。
これらの草花たちは、ほぼ姿を消した。
削り取られた土手に、何処からともなく飛んできた種で、強靭に生命を維持し、繁茂しようとしていた草花たち。今は人工的に植栽された、公園にお馴染みの木々があるのみ。
その木々の間に、命芽吹いた草花たちを共生させることはいけないことなのだろうか。とりわけこの池は小学校の前にあり、時折、子どもたちが授業で自然観察をしている。人工的に整備されたなかで、観察してなにが体得できるというのか。
可憐な花を咲かせるアレチヌスビトハギ 駒繋ぎ(コマツナギ)の花:雑草のなかで可憐に咲く
夏になると、つるとなって、木や柵にまきついて、繁茂するヤブツルアズキ
この写真のような花はほんの一例。子供たちが毎日通う通学路の道端に普通にいっぱい咲き満ちている花たち。これらの野草は、雑草としてすべて刈り取られた。ある時など父母が総出で刈り取った。
その変わりに、桃やブルーベリーや梅などの果樹が植樹された。
このような美しい色合いの野の花々を観察することなく、ただありきたりの植栽された木々ばかりの公園で、何を観察させようとしているのか。どんな感性を子供たちに身につけさせようというのか。
「私の散歩小径」に、私が、最近ほとんど記事を書ていないのは、宅地開発が完成に近づくにつれ、「バンジー」やら「ビオラ」やら同じ花ばかり、同じ色合い、同じ背丈、同じ大きさの花々を飾りたてている、全く美しいと感じない「散歩小径」と化しつつあるからである。
何よりも季節を感じさせない花々たち。
安上がりのガーデニング。
最近、サンティアゴ巡礼街道の記事を書くために、「ヒース」について調べている。
その調べ最中、たまたま、ガーデンセンターで「ヒース」「エリカ」という苗が売っていた。
イギリスのヒースについて、色々読みものしていた時だったので、思わずその売り場に目が行ったが、「あまりの無残な姿」に言葉がでなかった。
「これがヒース?これがエリカ?」
厳しい自然のなかで、生きている生き物たちのゆりかごとも言うべきヒース植物群。
ヒースって荒地に育つ植物ぐらいの認識しかなかった私にとって、色々調べる中で、ヒースの育つ大地の生物たちの共生の豊かさ。自然の循環のすごさ。その大地の多様性や複雑さに驚かされた。長い歳月の中で、厳しい環境のなかで創り出してきたその植物の姿の美しさ、微妙さに感心していたのに。
このガーデンセンター・カーマーにあるヒースやエリカの醜さ、背丈もすべて15センチぐらいに揃えられ、釣鐘状の薄汚い白や、汚れたピンクの花を咲かせていた。エリカなんて「結婚式に人気ある花」などという、キャッチコピーまでついているのである。
この花たちを見て、あのイギリスのヒースの大地を思い浮かべることができるか、スペインの巡礼街道のあのヒースの花の群生の素晴らしさを思い描くことができるか。ヒースの大地が実は豊かな生命を育むゆりかごであると思い描くことが出来るか。
その片鱗も感じさせない、ガーデンセンターで売られている「ヒース」の苗木。しかも結構な値段でだ。
現代のガーデニングとは何か。
人々が自然の営みの過酷さもふくめて、その美しさに心癒されることが本来のガーデニングのあり方ではないのか。
なるべく自然から遠く切り離した所で、インテリアとして、花を飾る。
人工的に、人間さまに好都合なところだけ寄せ集め、飾り立てる。これが現代のガーデニング。やたらに外国産の花を意味もなく扱う。
泥にまみれないガーデニング。
これで人がこころ癒されるか。
似非ガーデニング。
ガーデニングで、一儲けしようとしている人々のために花たちはあるのか。
これが、効率よい利潤のあがる儲かる農業経営とかいうものか。
それにしても、
新しい宅地に新築して転居してきたた親たちは(幼い子どもがいる家庭が多い)、子供たちに花を通して何を学ばせ何を育てようとしているのか。
この団地内の公園の土手に植栽された、ハギの群生は、防犯上好ましくないと、すべて刈り取らせ丸裸の土手にした。ユキヤナギも茂みとなるので防犯上好ましくないと刈り取られている。
これで、いくら自分の庭らしきものをパンジーで飾り立てても、子どもは育ちませんよと言いたい。
儲かるガーデニングは人間の心まで蝕んでいるとは言いすぎだろうか。