「冒険ごっこ」を許さない子育て(4人の少年の死を悼んで)
鹿児島市の洞窟で遊んでいた中学生4人が死亡したという痛ましい事故が起きた。 その中学生たちの校長先生は「悲しい出来事で洞窟の存在を大人たちは始めて知った。もっと早く知っておれば防げたと悔やまれる」と言っておられる。 この一連の事故と校長先生の発言は今の子供たちのおかれている生活環境が、子供にとって人として育ち、成長していくことがいかに大変な社会かを如実に物語っている。 半世紀前、私たちが子供であった頃、野山や田んぼで群れをなして駈けずりまわって遊んでいた。村の大人たちは、その周辺の地形を隅々まで知り尽くしていた。私の生まれ育った地方には、水が自然に湧き出る沼があちこちにあり、そのどの沼が危険か、又危険度はどの程度か幼いながら絶えず大人たちに聞かされていた。ある沼など「底なしに深く、落ちたら最後、何処までも何処までも落ちていき絶対にもどれない、その底は怖い地獄だ」と祖母から絶えず聞かされ、地獄が何かよく分かってはいなかったけれど、子ども心に恐ろしく、その沼の近くに行く時はいつも一目散に走って通り過ぎたものだ。 誰もその沼に柵をしようと思いつきもしなかったし、子供が落ちて命を無くしたという事故も起きなかった。 今回、鹿児島で起きた中学生4人の命を奪った洞窟は、第二次大戦時の壕ではないかと報じられている。60年の長きに及びその場所にあったものだ。 けれども周囲の大人たちはその存在さえ知らなかった。 4人の少年たちは、大人から自立していこうとする心の揺らぎの中で、その洞窟に少年らしい冒険心や、日常からの解き放たれた伸びやかな気持をその空間で経験していたに違いない。 本来ならば、この少年たちの冒険遊びは、遊びの中で体験する恐怖や不安をお互い協力したり、ある時には喧嘩しながらして克服していく、友達同士のぶつかり合いが少年たちの人格を大きく成長させる場になるはずだ。 其れなのに、あのアメリカの映画「スタンド・バイ・ミー」のような小さな冒険の旅が思春期の心を成長させる旅とならなかったのは何故か? ここには現在、日本の子供たちがおかれている子育ての環境や育て方の問題が露呈している。 中学生の少年たちが、自分たちがしている遊びに必要な、自分の身を守る知恵や術を何も獲得していないと言う事だ。10数年生きてきた中で、危険から身を守り、その危険から自らの生きる力を獲得していけるような子育てや教育を何もされてこないままであったと言う事だ ここには深い子育ての本質がある、教育の本質があるのに省みられることなく今日に至っている。便利で、一見豊かそうに見える生活の追求を第一義的課題としてきた戦後の社会が見失ったものである。 教育委員会が事故が起きたからといって、危険箇所を点検するよう指示をだすというのも少し変だ。危険箇所を点検し、その場所には近寄らぬよう、厳重に子供と親に呼びかける。 これって教育?これでは子供は育たないのでは。 『就職がこわい』若者が増えるのも肯ける。 私たち祖父母の世代はこの観点からも、若者や、幼い子供が育つ環境をもっと積極的に作っていく事に関る事が必要ではないのか。自分たちの育ってきた育ち方をより新しい価値観で創造し直す作業は、少し前を生きてきた人生の先輩者の責任ではないだろうか。祖父母の出番ではないのか。気楽に隠居していていいのだろうか。 最後に、 未来ある4人の少年の命が失われた事に、深い哀悼の意を表するとともに、ここ まで大きく育てられてきた御父母の方々の無念さや悲しみの深さを思うと、私も 言葉なく ただただ頭を垂れるばかりです。 合掌。