1340534 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

そういちの平庵∞ceeport∞

そういちの平庵∞ceeport∞

ミミズのうた

目ない 足ない おまえ ミミズ
暗たん人生に
何の為生きるの

頭どこ 口どこ おまえ ミミズ
話せるものなら
声にして出さんか

心ない 涙ない おまえ ミミズ
悲しいのなら鳴いてみろ
苦しいのなら死んでみろ

生まれて死ぬだけ
おまえ ミミズ
跡形もさえ消され
残すものない憐れな奴

おい雄か やい雌か
おまえ ミミズ
踏んずけられても
黙ってる阿呆な奴

判ってる 知ってる
おまえ ミミズ
先っちょ気持ちばかりに
モコチョコ動かすだけ

ニョロニョロ 這いずり
おまえ ミミズ
チョロ遠く出過ぎて
日干して果てた

1949年(昭和24年)6月27日、永山則夫は、8人兄弟の四男、7番目の子として、北海道網走市呼人(よびと)番外地で生まれた。父親はバクチに手を出し、持ち金をどんどんつぎ込んでいった。やがて、子供たちに食べさせる明日の米まで持ち出して売るようになった。そのため、母親は子供たちを連れ、家を出て、網走港の近くに移り住んだ。母親はそこで、行商として働くことになる。

高校生だった長男は女友達を妊娠させ、家を出た。その子供を中絶できず、母親が引き取った。一方、長女(当時24歳)は精神に異常をきたして、網走の精神病院に入院した。

母親は「このままでは一家共倒れになるから」と、則夫より12歳上の次女、2つ年下の妹と、長男の生ませた母親のない孫を連れて、実家のある青森県北津軽郡板柳町へ帰ろうと決意した。

1954年(昭和29年)の秋、則夫が5歳のとき、母親は次兄と3兄、3姉、それに則夫の4人の子供を網走に残して、実家に帰ることになった。母親を見送るため、ホームにいた則夫は列車が動き出したとき、「かあちゃん、おらも連れていってくれ」と、母親を追いかけるように、泣きながら走っていったという。

その後、姉は新聞配達、兄たちは鉄くず拾い、則夫は港で魚を拾ったり、恵んでもらったりして、子どもたちは厳しい冬を過ごした。当時、4人はみな衰弱しきっていたという。

1955年(昭和30年)の春、見かねた近所の人が福祉事務所に通報したため、則夫ら4人は、青森の母親の元へ引き取られていった。

1956年(昭和31年)4月、町立板柳小学校に入学。成績はほとんどの科目が「2」と「3」だった。2年生のころから沈みがちになり、学校へは行かず町を流れる岩木川で遊び、自転車を盗むこともあったようだ。

19才の時に“広域重要指定一〇八号連続射殺魔事件”の犯人として逮捕され、獄中で学問に目覚める。

獄中で詩集『無知ノ涙』(合同出版/1971)を出版し、ベストセラーになる。印税は被害者の遺族に送られた。

出版した本は

『人民を忘れたカナリヤ』(辺境社/1971)

『愛かー無か』(合同出版/1973)

『動揺記1』(辺境社/1973)

『反ー寺山修司論』(JCA出版/1977)

...など多数。

犯行時の精神的成熟度は『限りなく18歳未満に近い』という異例の境遇で裁判が進められることになる。

控訴審(東京高裁)では、一時的に無期懲役との判決が言い渡されるが、その後は上告(最高裁):差戻し→差戻控訴(東京高裁):死刑→第2次上告(最高裁):死刑を辿る。

死刑囚永山則夫は1997年8月1日午前、東京拘置所内にて処刑された。48才だった

彼、永山則夫については以下が詳しい

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/nagayama.htm


© Rakuten Group, Inc.