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そういちの平庵∞ceeport∞

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日本人の魂

梅原猛さんの本を一時期ずいぶん読んだ

最近よく思い出す

読み返せば似たような結論に至る
 
東西の思想哲学宗教の相互理解云々といつもかいていた
 
日本人は宗教を持たない国民だと、欧米人から言われる。

日本人は、結婚式は神式、または教会で行ない、子供が生まれると神社に参り、死ねば寺院で葬式を行なう。

NHK放送世論調査所編『日本人の宗教意識』(日本放送出版協会1984年)によれば、日本人で信仰をもっている人33%、信仰をもっていない人65%に対し、アメリカ人ではそれぞれ93%、7%となっている。

欧米やイスラム世界の人々にとってみれば日本人は無宗教的民族としか言いようがなく、何を考えているのか分からない、と不信を買うことになる。


その日本人にして戦後、宗教を軽蔑し、まともに宗教とは何であるか考えようともしない。


オウムの事件はさらに拍車をかけた

戦前の国家神道に対する反動から宗教について、何かいかがわしいもの、疑わしいものとの否定的イメージが国民の間に広まった

これは国の宗教政策がもたらした結果である。

時代を遡れば、江戸幕府による寺請(寺檀)制度に遠因がある。

キリシタン取り締まりの名のもとに、宗門人別帳が宗教統制の基盤となり、戸籍の役割をも果たした。

その上に形成されたさまざまな宗教儀礼、行事が寺院の生計を助けるものになった。

ここに宗教の職業化、民衆救済を忘れた宗教の形式化が進む。


明治政府は廃仏毀釈運動を進め、仏教を徹底的に弾圧した。一方、神道を「国家神道」として国民の精神的統合を図った。

文明開化を国を挙げて推し進めた結果、科学的合理主義が浸透し、マルクスの”宗教はアヘン説”が宗教不信を一層深くしたと思われる。


「あの世について語らなくなった現代人は、死についても語らなくなったのである。人類の思想において、死についての深い思弁はあの世についての教説と深く結びついている。あの世への信仰を失うことによって、死についての思弁も失ってしまうのである。それで現代人は死について深く考えることをやめ、つとめて死を忘れて生きようとしていると思われる。」(日本人の魂・梅原猛P11)


「死というものはじつに不思議なもので、人間が経験するほかのこととは根本的に違います。人間は死以外のことについては、経験したことを客観化することができる。ところが、死についてはそれができません。生きているあいだに自分の死を経験することはできないからです。経験したときには、もうすでにその人はこの世にいないわけですから、死を経験することはできない。したがって、他人の死についてはいろいろ論議できますが、その人自身の体験としては決して語れないわけです。」(人生を考える・中村元P183~184)

「死んで、すべてが消えるということも考えられますが、消えると断定する確実な根拠はなにもない、というのは、私どもがめいめい生きているということが、そもそもひとつの不思議だからです。」(同、P186)
 
日本人の死生観は、自然の中で生を受け、桜の花のように自然の中に散って行く、と生と死を捉える

また「死ねば仏」という、死者儀礼には祖霊信仰が影を宿している。

「穢れ」と「言霊」という神道的思想について、伊沢元彦氏は「穢れと茶碗」において面白い考えを述べている。

氏によれば、日本人は他人が使った箸や茶碗をきたないと思うのは、「穢れ」の感覚によると言う。

熱湯や洗剤でどんなに消毒してあっても、きたないと思うのである。

受験生のいる家庭で「すべる」という言葉を使わないのも、言霊信仰によって、口に出したことは実現すると考えられていると指摘する。

小さな島国で稲作を中心とした生活風土、それによってもたらされた閉鎖的な「ムラ社会」が、世間を気にする「恥の文化」(ルース・ベネディクト)を形成した


そこに「ことあげ」を嫌い、和を尊ぶ国民性が育まれ、外面的秩序が重んじられる。こうして権力に従順な日本人の国民性が形づくられたみたいだ

理屈を嫌い、義理人情の浪花節に涙し、演歌の世界に感情移入する、親分子分の国

強者に諂い、弱者には威張り散らす国民性がうかがわれる。是は是とし、非は非とする論理を欠いている

島国に閉じこもり、身近な人間関係だけがすべてという視野の狭さは日本人最大の欠点でもあり・・・

1889年、ポルトガル海軍士官として初めて日本を訪れ、日本に魅せられたモラエスの目に映った日本人の宗教はどのようなものだったのだろう。

 彼が“日本の土”になることを心に密かに決め、徳島に移住した。一異邦人として日本と日本人をみつめ最晩年に著した「日本精神」には、次のように記されている。

 「一国の国民の宗教を研究すること、知ることは、その国民の精神的特性に関する広大でゆたかな研究分野に入ってゆくことである。」

「神道は、英雄の宗教であり、その英雄たちの霊が地上を、つまり日本人の上を漂って日本人を守護しているとすら言うことができる。(中略)確かに、日本人の比類なき勇気、この上ない豪胆、輝かしい愛国心は神道のせいである。そして、大和の精神、「やまとだましい」という今日よく知られる言葉を生んだのは主として神道であった。」(P44~45)

「日本人は仏教のうちに彼らの精神が必要としていたもの、すなわち、次々と行われる霊魂の転生〔輪廻〕後の永遠の生命の肯定を、美徳の褒賞を、悪の処罰を、天国と地獄を、人間と動物に対して垂れるべき慈悲を、平和への愛とその他無数の善徳の教義を見い出した。」(P47)

ちなみに仏教では実体としての霊魂は想定しない、と言われる。『最初にブッダが死後に霊魂はあるかないか、身体と霊魂とは同一か別か』と聞かれた時に答えなかったからです。」(人生を考える・中村元P192)

これは毒矢の譬えとして知られている。形而上学的な質問に答えることより、実際に苦悩している人間を救うことが先決である。毒矢の種類、形を云々するより、毒矢を抜かなければ死んでしまうことを教示した時のブッダの言葉とされている。

 「日本の思想を流れるのは、三つの原理ではないか。生命の思想と、心の思想と、地獄の思想。」地獄の思想(P28)
 
 「神道が、自然の生への崇拝であり、多神教的であったにちがいない」とし、「密教が自然崇拝という点で、神道と思想を共通にしたことが、密教が日本の土地に根づいたもっとも大きい理由であろう」と、神仏混淆の接点を明かしている。


鎌倉時代以後の仏教についても、日蓮宗を生命の思想に、禅を心の思想に、浄土教を地獄の思想に分類しているのは興味深い。

 梅原氏は、あくまで哲学者として文献学に基づいて宗教思想を論じている。

しかし、宗教は元々、民衆が自らの苦悩から解放されることを願い、これに対して解決の方途を示す教祖の出現を待って生ずるものである。

学問的研究とは異なる生活次元の実践を根本とすることも忘れてはならない。
 
「地獄の思想は、日本仏教のひとつの流れなのである。生の力を肯定する哲学とともに、生の暗さを凝視する哲学を日本人は愛した。」と梅原氏は日本人の心性に触れている。
 
さらに「天台のちぎの説の主なる創造性は、この十界に、またそれぞれ十界があるという十界互具の思想にあるという。つまり、地獄から仏までの十の世界にそれぞれに十の世界がある。地獄の世界のなかに地獄から仏までの世界があり、仏の世界に地獄から仏までの世界があるということである。私は、これはすばらし思想であると思う。」(地獄の思想・P70)と。
 ここには「生命の思想」と「心の思想」と「地獄の思想」が見事に融合されていると思う。

 梅原氏は「日本人の魂」において縄文時代にまで探究の目を遡らせ、沖縄やアイヌの研究を糸口に「そこに一つの世界、我々の現代世界とも違い、また日本人が伝統的にもっていた世界とも違う、一つの世界を認めざるを得なかった。そしてその世界はおそらく縄文時代からの世界を引き継いだものであろう。」(日本人の魂P35)と推論している。

 氏によれば「古代人にとって、死は魂が肉体から離れることを意味し、人が死に、魂がその体から去るのを見届けると、魂を呼び返そうとした。それが魂呼びである。」という。

 
 また、残された体が「亡骸」で、「なき」というのは魂がない、魂が抜けたカラという意味であろう、と述べている。

日本人の宗教の古層を明らかにしたので、日本人のシンクレティズム(重層信仰)について論究する。日本人の信仰は仏像を拝み、神棚に手を合わせる。八百万の神に心を寄せる重層信仰である。
 
古代人によればこの世とあの世は循環する。もともと、この生死のすべての儀式を神道がつかさどっていた、という。
 日本に仏教が伝来したのは、大和朝廷538年とされ、それまでは呪術的な神祇信仰であった。ここに神道の源流がある。神道という名称は、後でつけられたもので、実体は古代人の生活に根ざしていたものと思われる。
 「蘇我・物部の戦い」で、崇仏派蘇我氏の勝利に終わり、仏教は律令国家建設の精神的支柱となった。鎮護国家のための仏教として各地に国分寺が建立された。

 平安期には末世思想が起こり、極楽往生を願う浄土思想が貴族界や庶民の間にまで広まった。鎌倉仏教の興隆、1549年、フランシスコ・ザビエルによるキリスト教布教開始、織田信長による長島、石山の一向一揆弾圧、叡山焼き打ち、秀吉によるキリシタン禁令(天正禁令)、島原の乱(1637年)など権力による宗教弾圧が見られる。江戸時代、平田篤胤は本居宣長の国学に学び、神ながらのみちを見いだしていく。”天皇が、神代から伝わるままに人知を加えられずに天下を治められる”現人神として天皇が日本を統治するということである。
 このようにして自然神道が国家神道へと変貌を遂げた。後に明治維新のイデオロギーになり、皇国史観に取り込まれた神道は「宗教にあらざる」国教として思想・信教の弾圧に猛威をふるう。不敬罪、治安維持法が天皇を頂点とする国家神道を法的に支え、日本を太平洋戦争へと駆り立てたのである。

 このような経過を辿ったゆえに、日本人は二重の意味で宗教に対して精神的重層構造をもつに到ったのではなかろうか。古層と表層との二重性と、国家神道によってもたらされた宗教不信、この二つである。
 宗教的次元における二重性について、梅原氏は「仏教が入ってきて、とくに浄土教が盛んになると、仏教が人間の魂をあの世へ送るという儀式を奪うのである。そしてあの世からこの世へ帰るという儀式のみを神道に残しておいたのである。(中略)さほど重要でない死から生への儀式を神道に残しておいたわけである。おそらく、それまで奪ってしまっては、神道側の恨みを買うと思ったのであろう。仏教は神道との平和共存を図るために、そのような儀式を神道に残しておいたわけである。」と明快に論じている。
 さらに面白いのは「仏教はもともと葬式ということを行わなかった。南都六宗の坊さんは今日でも葬式をしない。南都六宗の坊さんが死んだときは、浄土宗の坊さんが来て葬式をするという。」(P143~144)

まとまりようもなく

とめどなく

僕が死について考えたのは身近な人の死からだった

世の中に出て色々思うことがあって

今こうしている




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