精神医学と僕と作業所はたして「治す」ことは「正しい」のだろうか?それが僕にはずっと疑問だった。 「病気」という生物学的な変化それ自体は、悪でもなければマイナスでもないはずだ。 もちろん、病気によって人間はいろいろな不利益をこうむるから「治す」わけだけど、そういった不利益と変化そのものとは分けて考える必要があるだろう。 私たちはそのような変化を「病気」と呼んで(歯みがきのCMに出てくる虫歯菌のように)悪のイメージを投影するが(「社会の癌」とか病気のイメージで悪を語ることさえある) 「病気」といわれる変化は生体の防御反応であることも多いし、インフルエンザウィルスや癌細胞の立場からすればまた別の言い分があるはずである。 そんな人間中心的な医学の中でも精神医学というのは、ちょっと特殊な分野である。 精神医学は、精神という巨大な謎の傍らで足掻いている学問である。精神病理学やら生物学やら精神分析やら、無数の人々がさまざまなアプローチで挑んでいるけれど、誰一人として精神の秘密を解き明かした者はいない(そんなことは誰にもできないのだ、と誰もが感じている)。哲学や宗教も心理学も 他の身体医学のように病気という悪と「戦う」というメタファーは無効だし、「治してやる」といった傲慢な態度は厳しく戒められる。 実際、「治す」ことなどできないのだ。 医者にしろ僕にしろ、患者のそばによりそって「治るのを手助けする」ことしかできない(本当は、他の科でもこれは同じだと思うけどね)。 実際、精神科医なら誰もが、なぜ治ったのかさっぱりわからないのにすっとよくなってしまう患者さんを何人も経験しているはずだ。 しかし、たとえばある青年が、一人で暗い部屋に閉じこもって昼夜逆転の生活を送り、なにやらまとまりのない文章をチラシの裏に書き散らしているとする(自分では偉大な発明の論文だと思っている)。風呂にも入らないので不潔だからといって、同居している母親が嫌がる本人を無理に病院に連れてきた。医者は「分裂病だな」と診断し、医療保護入院の手続きをとって閉鎖病棟に入院させ、薬飲ませて日中はなるべる起きてるようにして作業療法を導入して、退院後はデイケアに通わせてとやって「治す」。 これは、どこの精神病院でも行われている日常風景だけど、本人は、最初の状態で充分幸せだったのではないか。それを無理に社会に適応させるということにいったい何の意味があるのか? もちろん、人間として生きて行く以上、社会と関わりを持つ能力がなければ生きていけない。彼らが生きていけるように、社会からまったく遊離してしまった彼らを、ある程度社会の枠に当てはめるために精神科医は治療しているのだろうが、 これには親心に社会防衛商売としての医療行為とか様々な社会的要請がある 果たしてこんな条件下で本人の意志がどの程度反映されるのか?という懐疑が常に僕にはある 作業所に通う彼らが前より幸せになったかどうか、 僕にはよくわからなくなってしまうこともある 社会恐怖や引篭り妄想・・・症状がが本人を守り生きる上で必要なケースもままある 自分を守る為引篭り、結果として人格や精神が社会の側や多数派から「異常だ」と判断される それらを問題視するのは親や周囲だ・・・僕自身も当事者と社会と医療の間でいつも思い悩む 本人も当たり前に生きたいという人とそうでない人もいる 現実、集団向きで無い人間も多くいる 非常識や自己中心や幼児性これらが過分にあれば とてもじゃないが社会生活は難しいと思う 多くの場合居場所を手に入れることすら困難 そこで人格障害という概念が出てくる しかしながらどんな人でもその人らしく生きられたらと願う 僕はひたすら話を聞き僕個人の偏見を交えながら付き合うしかない 関われる所まで関わるというスタンスしか僕には無い 自分自身の限界を周囲に伝えながら 別に患者を治すな、とか「癌と戦うな」とか言っているわけではない。いくら相対主義的な立場に立ってみたところで、私たちはそれよりも先にまず人間であって、インフルエンザウィルスではないのだから、人間が苦痛なく生き長らえるために、人間に害を与えるものを排除しようとするのは当然のことである ただ、それは人間の恣意的なものの見方にすぎないことも、頭の片隅には入れておきたい。 「治す」という大義名分のもとに医学や福祉が暴走しないために。 我々は社会の要請ではなく患者、当事者の為に働く専門家なのだから 僕が知る範囲では精神病=他者迷惑=周囲が問題視=周りが治す てな図式なのだが 当事者を中心に据え彼らの声に耳を傾け長くお付き合いする そんなスタンスの専門家が増えて欲しい。 ありとあらゆる関係性の不幸は「思い込みと否定」だと思う。 もし我々に幸福があるとすれば関係性の上での「肯定と理解」が誰にとっても必要 |