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八犬伝じゃない里見の歴史、一緒に追いかけてみましょう。
時は戦国ただなかへ、いざ、出陣。 シリーズ・里見家のおんなたち 1 里見家に生を受けた女。 里見家に嫁いだ女。 円満な者も、不遇な者も、女たちの数だけ笑いもあれば涙もあったことでしょう。そんな里見家のおんなたちは、おおよそ、実名の残されていない者が多かったのです。院号または通り名で後世に伝えられる女性の逸話を、ひととき一緒に語りましょう。 里見義堯以前の人物や関係は、明確な足跡がありません。 伝承の内で色々と登場しますが、おおよそ犬懸合戦の哀史に寄り添う類ばかりです。そのため、ここでは避けて通りたい部分です。詳しくないですし。 里見義堯の正室は、一般的に土岐為頼の娘で知られていますが、そちらは継室だったという話があります。ならば正室はというと、長野憲業の娘ということになっているようです。長野氏は房総とは無縁の上州榛東の豪族で、関東管領上杉氏の被官です。 長野憲業には次の子供がいました。 長野業氏・女子(長尾景英正室)・長野業正・女子(里見義堯正室)。 ここで目を引く貴方は戦国通。そう、長野業正。武田信玄が唯一勝てなかった中原の雄です。正室はその妹にあたるというのです。 では、里見義堯はいつ彼女を迎えたのでしょうか。 天文2年(1533)の犬懸合戦のとき、義堯は26歳(21歳説もあります)。長男・義弘は3歳。そして義弘の生母は、継室の土岐為頼の娘。つまり、その前に、死別ないし離別していると考えられます。土岐為頼の娘が継室になったのは、義弘の誕生から考えて、遅くとも享禄2年(1529)と思われます。このとき義堯は里見の分家として先のない22歳(又は17歳)、関東管領の被官家から妻をもらえる境遇か、悩めるところです。 委細は郷土史家や研究者に譲りますが、上州と房州を結ぶメリットがこのときあったものか、一介の物書きにはとんと謎の部分です。 結局、長男の母となった土岐為頼の娘が、里見家の〈おふくろさま〉の地位を確立したことになるのでしょうね。 ◆ ◆ ◆ 戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。 「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」 皆さまの温かいご声援をお願いします。 大河の署名用紙「Yahoo! ボックス」にUP! ぜひダウンロードしてください。 https://box.yahoo.co.jp/guest/viewer?sid=box-l-3cwv2wfiuh32cvdru3iad3wwoe-1001&uniqid=a82d0f16-38fb-4e71-a93a-d67a27a62932&viewtype=detail 房総里見会事務長 鈴木惠弘 〒294-0027 千葉県館山市西長田72 署名用紙の欄外に 「夢酔に頼まれた!」 と添え書きくだされば幸いです。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.01.15 07:25:29
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